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'''大久保 忠俊'''(おおくぼ ただとし、[[明応]]8年([[1499年]]) - [[天正]]9年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]([[1581年]][[10月23日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[三河国|三河]]の[[松平氏]]([[徳川氏]])の家臣。[[宇津忠茂]]の子。[[蟹江七本槍]]の一人。名は新八郎、五郎右衛門とも。子に[[大久保忠勝]]、[[大久保忠益]]、女子([[蜂屋貞次]]妻)。 == 生涯 == 明応8年(1499年)、宇津忠茂の子として誕生。弟に[[大久保忠員]]。当初の姓は「宇津」であったが、「大窪」を経て「大久保」を名乗った。 [[徳川家康]]の祖父・[[松平清康]]の頃から3代に渡って仕えた宿老で、徳川氏をよく支えた。家康の父・[[松平広忠]]が[[松平信定]]によって[[岡崎城]]を追われた際には秘かに挙兵の準備をして信定を追放し、広忠を岡崎城に入城させ、後にも家康の独立などで活躍した。 蟹江城攻め・[[桶狭間の戦い]]などに参戦。その後、剃髪して'''常源'''と号し、[[永禄]]6年([[1563年]])の[[三河一向一揆]]では岡崎城の防備に務めた。また、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。 天正9年(1581年)、死去。 == 関連事項 == *[[大久保氏]] {{DEFAULTSORT:おおくほ たたとし}} [[category:戦国武将]] [[Category:大久保氏|たたとし]] [[Category:1499年生]] [[Category:1581年没]]
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