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'''夜須 行宗'''(やす ゆきむね、生没年未詳)は[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[武将]]。通称は'''夜須七郎'''。一説によると名は「'''行家'''」とも。 [[土佐国]]夜須荘([[高知県]][[香南市]])を本拠とし、[[平治の乱]]で敗れた[[源義朝]]の遺児・[[源希義|希義]]が土佐に配流されてくると、これを援助して[[源家]]再興を計る。[[寿永]]元年([[1182年]])、挙兵の準備を整えて希義を迎えようとするが、[[平家]]方の[[蓮池家綱]]・[[平田俊遠]]がこれを察知。希義は殺害され、行宗は間一髪で海上に逃れる。蓮池らは偽りの甘言をもって投降を促すが、これが謀略であると見抜いた行宗は船を急がせ、そのまま[[鎌倉]]の[[源頼朝]](希義の同母兄)の下に馳せ参じる。 同年、頼朝の命により、[[源有綱]]の軍を先導して土佐に再上陸、蓮池・平田ら平家方勢力を殲滅する。[[元暦]]2年([[1185年]])の[[壇ノ浦の戦い]]では敵方の岩国兼秀・兼季兄弟を生け捕りにするという功を立てるが、これは行宗の手によるものではないと主張する[[梶原景時]]との間で激しい論争となる。論争の結果は行宗の勝ちと判定され、景時は讒訴の咎で道路工事を命ぜられている。 [[建久]]元年([[1191年]])に頼朝によって正式に所領を安堵されている。 == 遺跡 == 現在も夜須町にある'''夜須城'''は行宗が築城したものと伝わる。 [[category:平安時代の武士]] [[category:鎌倉時代の武士]] {{DEFAULTSORT:やすゆきむね}}
夜須行宗
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