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多目元忠
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{{出典の明記|date=2012年5月}} '''多目 元忠'''(ため もとただ、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[後北条氏]]の御由緒衆。[[北条氏康]]の[[軍師]]でもある。周防守。[[多目元興]]の子。 [[多目氏]]([[武蔵国]][[豊顕寺]]ゆかりの[[多米氏]]と同一ともいう)は、後北条氏の初代・伊勢盛時([[北条早雲]])からの北条氏の協力者であり、北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄である。[[山内上杉家]]・[[古河公方]]などの関東の有力者が連合して北条氏と戦った[[河越城の戦い|河越夜戦]]で活躍。北条氏康が戦場で敵中に突出した際に独断で退却の号令をかけ、のちに氏康から感謝された。この戦いののちに'''北条五色備'''の内、黒備えを任せられたという。家中で[[北条綱成]]と双璧をなした[[北条綱高]]も、元忠に軍学を学んだとされる。 その後、[[武田氏]]の[[駿河国|駿河]]からの進軍を防ぐなど、北条軍の中核として各地を転戦する。[[1590年]]([[天正]]18年)の[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]の際に豊臣軍の大軍に居城を攻められ、多勢に無勢で敗れて討死した人物に「多目周防守」がいたといわれるが、この人物が元忠と同一人物かどうかは不明である。 {{DEFAULTSORT:ため もとたた}} [[Category:戦国武将]] [[Category:相模国の人物]] {{Japanese-history-stub}}
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