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夏侯淵
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{{三国志の人物 |名前 = 夏侯淵 |画像 = Xiahou Yuan Portrait.jpg |サイズ = 250px |説明 = [[清]]の時代に描かれた[[三国志演義]]の挿絵 |王朝 = [[後漢]] |称号・役職 = 征西将軍 |出生 = 生年不詳 |出身地 = [[豫州]][[沛国]]譙県 |死去 = [[建安 (漢)|建安]]24年([[219年]])[[正月]] |死没地 = 定軍山 |ピン音 = Xiahou Yuan |字 = 妙才 |諡号 = 愍侯 |廟号 = |別名 = 白地将軍<ref>「魏武軍策令」</ref> |主君 = [[曹操]] |特記事項 = }} '''夏侯 淵'''(かこう えん、? - [[建安 (漢)|建安]]24年([[219年]])正月)は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は妙才。族兄は[[夏侯惇]]。正妻は[[曹操]]の妻の妹。従子は[[夏侯尚]]。子は[[夏侯覇]]ら。 軍の拠点間における迅速な移動や、それに基づいた奇襲攻撃、前線型武将の指揮、兵糧監督などの後方支援を得意とした。その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた(『魏略』)。 ==生涯== ===曹軍の主将=== 曹操が県の長官に関する事件で罪を受けた時、その身代わりを引き受けた。その後、曹操に救出され、刑罰を免れることができた。 [[エン州市|兗州]]と[[豫州]]が混乱すると、飢饉の中で夏侯淵は自分の幼い子を捨てて、死んだ弟の子を養育したという(『魏略』)。 曹操が兵を挙げると、別部司馬・騎都尉として兵を率いて随行し、やがて陳留・潁川の[[太守]]に任命された。 袁紹との[[官渡の戦い]]のときは、督軍校尉を代行し、袁紹を破った後は、兗州・豫州・[[徐州]]の兵糧を取り仕切った。[[昌キ|昌豨]]が謀反を起こすと、曹操は[[于禁]]を鎮圧に派遣していたが、なかなか攻略できていなかったため、夏侯淵はその増援として派遣され、昌豨の陣営10余りを陥落させたため、昌豨は于禁に降伏を申し出てきた。夏侯淵は帰還後に典軍校尉に任命された。 済南と楽安の黄巾の徐和・司馬倶が反乱を起こし、城を攻撃して県の高官を殺害すると、夏侯淵は泰山・斉・平原の郡兵を率いてこれを攻撃、大いに打ち破り、徐和を斬り諸県を平定、食糧を没収し兵士に配った<ref>「呂虔伝」によると、徐和討伐には[[呂虔]]も従軍。</ref>。 建安14年([[209年]])、行領軍に任命された。曹操は[[孫権]]征伐から帰還したとき、夏侯淵は命令を受けて諸将を指揮して[[廬江]]の[[雷緒]]を破った。行征西護軍に任命された。その後、[[徐晃]]を指揮して[[太原]]の賊を攻撃し、20余りの屯営を陥落させ、頭目の商曜を斬首し、城砦を破壊した。 ===征西将軍=== 建安16年([[211年]])、反乱を起こした[[韓遂]]・[[馬超]]らの征伐に従軍し、謂南において戦った([[潼関の戦い]])。[[朱霊]]を指揮して賊を討伐し、曹操と安定で合流し[[楊秋]]を下した<ref>「武帝紀」211年3月、「武帝紀」冬10月</ref>。曹操が[[ギョウ|鄴]]に帰還したとき、夏侯淵は行護軍将軍に任命され、長安に駐屯し、朱霊・[[路招]]を指揮した。 建安17年([[212年]])、[[張コウ|張郃]]・徐晃らと共に[[涼州]]の諸勢力を討伐し、南山の劉雄(劉雄鳴)・鄠の[[梁興]]を滅ぼし、[[羌]]族の諸部族を降伏させた。 再起した馬超が冀城に籠る涼州刺史[[韋康]]を攻撃した為、夏侯淵は軍を率いて救援に向かったが、到着する前に馬超は冀城を陥落させていた。自軍が冀城から200里余りの地点まで迫ったところで馬超が迎撃に来たため、交戦したが敗北し、さらに馬超に呼応して汧の[[テイ (民族)|氐]]族が反乱を起こしたため、軍をまとめて帰還した。 建安19年([[214年]])、趙衢・[[尹奉]]らが馬超討伐を計画、西城で挙兵した姜叙と通謀。馬超を騙して姜叙攻めに出撃させ、その後方で馬超の妻子を殺害した。馬超は[[漢中]]へ脱走したが、[[張魯]]に兵を借り、戻ってきて祁山を包囲した。姜叙らは夏侯淵に助けを求め、諸将は曹操の命令を待つべきと意見した。しかし夏侯淵は「公のおられる鄴までは往復四千里、返事を待っているうちに姜叙らは敗北してしまうだろう」と言い、出陣した。馬超は夏侯淵軍の先鋒の張郃に攻められ、戦わずして逃走し、[[劉備]]の元に身を寄せた。 夏侯淵はさらに韓遂を討伐するために顕親に駐屯していた韓遂を攻撃し、韓遂を逃亡させ、その兵糧を奪った。さらに韓遂を追撃して略陽城に達した。韓遂や興国の氐族への攻撃を続行すべしとする諸将の意見を退け、夏侯淵は前線の韓遂らの勢いを避けて、その背後の長離に居住する韓遂の味方の羌族を攻める作戦を立て、軽装の歩兵と騎兵のみで攻撃し、大いに破った。韓遂の軍の異民族はそれぞれ自分の居住地に引き上げて行った。韓遂は長離の救援に駆けつけてきた。諸将は堀と塹壕を掘って備えるべきと主張したが、夏侯淵は短期決戦を主張し、士気を鼓舞して韓遂を撃破し旗印を奪い取った。夏侯淵は一度略陽に帰還してから興国を包囲したところ、氐族の王の[[千万]]は馬超の元に逃亡し、その部下は夏侯淵に降伏してきた。夏侯淵はさらに高平・ト各を攻撃し、敵を蹴散らして食糧と牛馬を手に入れた。 このように夏侯淵は涼州の馬超・韓遂らの勢力を壊滅させて、涼州を平定した<ref>「武帝紀」214年正月</ref>。仮節を与えられた。 枹罕の[[宋建]]は以前から独立勢力を築き、河首平漢王と称していたが、夏侯淵は曹操の命令で枹罕を包囲し、1ヶ月でこれを陥落させ、宋建とその一味を斬った。張郃に別働隊を率いさせ河関を陥落させ、黄河を渡って小湟中に侵入すると、河西の羌族はことごとく降伏し、隴西は平定された<ref>「武帝紀」214年冬10月</ref>。 長安に帰還すると、武都の氐族・羌族を攻撃し、氐族の食糧を10万石没収した<ref>「武帝紀」215年3月</ref>。曹操が漢中の[[張魯]]を征伐すると、夏侯淵は涼州の将軍や侯や王以下の官吏を引き連れ休亭で曹操と合流した。曹操は羌族と交渉するときは、いつも夏侯淵の名を脅しに使った。 建安20年([[215年]])、漢中の張魯が曹操に降伏すると行都護将軍に任命され漢中の平定を任され張郃や徐晃を指揮して巴郡を攻撃した<ref>「武帝紀」によると11月。</ref>。曹操が鄴に帰還すると、征西将軍に任命され、漢中の守備をまかされた<ref>「武帝紀」によると12月。</ref>。 建安21年([[216年]])、曹操は宋建らを征伐した功績を称し、夏侯淵の封邑を300戸増加したので、合計800戸となった。 ===定軍山に散る=== 張魯の降伏後、劉備は侵攻して漢中を奪取し、そこを拠点にさらに北上して曹操を滅ぼすという戦略の下、漢中攻撃を開始した。夏侯淵は指揮下の張郃や徐晃を巧みに繰り出し、劉備軍と一進一退の攻防を数年に渡り続けた。 しかし、巴郡を奪回され、建安23年([[218年]])には劉備軍は陽安関(陽平関)にまで達するなど徐々に追い詰められていった。 建安24年(219年)正月、劉備の部隊はついに定軍山の本営にまで至り、夏侯淵は自らこれと対峙した。劉備は夜間に攻撃を開始した。夏侯淵は張郃に東方の陣営を守らせ、自分は南方の陣営を守ったが、張郃が苦戦したため自分の兵の半分を援軍に向かわせた。 この時劉備は、[[法正]]の策により半減した夏侯淵の本隊を攻撃した。劉備はまず夏侯淵の本営より15里離れたところの逆茂木を焼き払った。夏侯淵は兵士400人を率いて自らこれを修復にあたったが、[[黄忠]]は高所に昇り背後から夏侯淵を攻撃した。夏侯淵は黄忠の軍を迂回することに成功し、さらに背後から黄忠を攻撃したが、この攻撃は失敗し夏侯淵は戦死した([[定軍山の戦い]])。 夏侯淵はしばしば戦勝を収めているものの、曹操は「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と戒めていた。 [[諡号|諡]]は愍(びん)侯。 [[正始 (魏)|正始]]4年([[243年]])秋7月、[[曹芳]](斉王)は詔勅を下し、曹操の霊廟の堂前の広場に功臣達を祭った。その中には夏侯淵も含まれている(「三少帝紀」)。 == 『三国志演義』における夏侯淵 == 小説『[[三国志演義]]』では、曹操の親族、夏侯惇の弟として早くから登場し、剛直で弓術に長けた猛将として描写されている。汝南の劉備攻撃では劉備に味方した黄巾残党の[[キョウ都]]を戦死させている。さらに銅雀台落成の余興では、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露した。 曹操は、定軍山での彼の戦死を聞いて嘆き悲しみ、そして激怒している。 ==家系図== {{familytree/start}} {{familytree|border=1 | AAA |v| BBB |v| CCC |v| DDD |-| EEE |-| FFF | AAA=● |BBB=● |CCC=[[夏侯惇]] |DDD=[[夏侯充]] 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四男。司馬懿に背いた兄・仲権と異なり、クーデター後も司馬氏に重用される。 **[[夏侯栄]](幼権、[[207年]]-[[219年]]) - 五男(『世語』による)。[[定軍山の戦い]]で父が戦死すると、その後を追い討死した。 **[[夏侯恵]](稚権) - 六男。文才に優れる。 **[[夏侯和]](義権) - 七男。弁舌に優れる。 *甥 **[[夏侯尚]](伯仁) **[[夏侯儒]](俊林) *姪 **[[張飛]]妻 *孫 **夏侯績 - 夏侯衡の子。 **[[夏侯駿]] - 夏侯威の長子。 **夏侯荘(仲容) - 夏侯威の次子。 *曾孫 **[[夏侯湛]](孝若) - 夏侯荘の長子。『魏書』を編纂。 **[[夏侯淳]](孝沖) - 夏侯荘の次子。 **[[夏侯琬]] - 夏侯荘の子。 **[[夏侯瑫]] - 夏侯荘の子。 **[[夏侯謨]] - 夏侯荘の子。 **[[夏侯總]] - 夏侯荘の子。 **[[夏侯瞻]] - 夏侯荘の子。 **夏侯光姫(銅環) - 夏侯荘の娘、夏侯湛の姉妹。東晋の元帝・[[元帝 (東晋)|司馬睿]]の生母 **夏侯褒 - 夏侯衡の孫 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:かこう えん}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:夏侯氏|えん]] [[Category:亳州出身の人物]] [[Category:219年没]]
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