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夏侯尚
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'''夏侯 尚'''(かこう しょう、生年不詳 - [[225年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将・政治家。[[字]]は伯仁。[[魏 (三国)|魏]]の[[宗族]]の一人。父の名は不詳。子は[[夏侯玄]]。伯父(父の兄)は[[夏侯淵]]。 == 生涯 == 若いころから計略・智謀に優れていたため、[[曹丕]]から評価を受け、身分を越えた付き合いをしたという(『魏書』)。 [[曹操]]の[[冀州]]平定に際して、軍司馬として騎兵を率いて従った。 曹丕が[[光禄勲|五官中郎将]]になると、その文学となった。[[杜襲]]が「夏侯尚は人を益しない友人である」と評し、曹操に訴えて夏侯尚を遠ざけようとさせたが、曹丕からの寵愛が衰えることはなかった。 魏国成立時に黄門侍郎となった。[[代郡|代]]郡が反乱を起こすと、[[曹彰]]の征討軍の参軍事に任命され従軍した。曹操が[[洛陽]]で死去すると、夏侯尚は節を手にし柩を守って[[ギョウ|鄴]]に帰還した、前後の功績を評価されて、平陵亭侯に封じられ、中領軍に任命された。 曹丕(文帝)即位後は平陵郷侯に昇格し、征南将軍・[[荊州]][[刺史]]・仮節[[都督]]南方諸軍事となった。この頃、[[劉備]]軍の別働隊が[[上庸]]を占拠していたが、宜都[[太守]]の[[孟達]]が[[劉封]]と対立し、孟達が魏に降伏するという事件が発生していた。夏侯尚は上庸を奇襲することを提案し、孟達・[[徐晃]]と共に劉封と太守[[申耽]]らを撃破。上庸・西城・房陵の3郡9県を魏の版図に収め、征南大将軍に昇進した([[蜀漢|蜀]]志「劉封伝」)。 [[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]が曹丕に臣従を申し込んで来た時、夏侯尚はこれを信用せず、呉に対する軍備を怠らなかった。 [[222年]]、曹丕が自ら[[宛]]に行幸し、呉を三方面から攻めようとすると、夏侯尚は諸軍を統括し[[曹真]]・[[張コウ|張郃]]<ref>魏志「文帝紀」</ref>と共に[[江陵県|江陵]]を包囲した。夏侯尚は呉の[[諸葛瑾]]と対峙した。[[長江]]の中州を中心に水陸両軍を展開させた呉軍に対し、夏侯尚は歩騎兵1万を率いて、下流から秘かに長江を渡り夜襲をかけ、併せて敵の水軍を火攻めし、大いにこれを破った。その後、一本の浮橋を頼みとして中州に侵入したが、敵の攻撃を受けると上手く脱出できなかったという(魏志「[[董昭]]伝」)。呉の[[潘璋]]がその浮橋を焼き落とそうとしたが、夏侯尚はそれを察知し速やかに退却した(呉志「潘璋伝」)。江陵城の[[朱然]]の守備も堅く(呉志「朱然伝」)、結局魏軍は江陵城の攻略寸前に疫病が流行したため、詔勅により退却せざるを得なかった。 帰国後、夏侯尚は軍功によって鉞を与えられ荊州牧に昇進し、600戸を加増され領邑が1900戸となった。当時、荊州が荒廃しており、漢水を挟んで呉と国境を接していた上に、異民族も多かったため、ほとんどの住民が[[江南]]へ逃げていたが、夏侯尚は上庸から新たに道を通して開発を進め、軍を率いて西方を鎮撫した。このため、山岳や平地の異民族で降る者が多く、僅かな年数で数千戸の住民が帰順した。また孟達と親交を結んだため、夏侯尚の存命時は孟達が魏に叛くこともなかった。 [[224年]]、昌陵郷侯に改封された。 夏侯尚は愛妾がいたため、正妻に目をかけなかった。正妻が[[曹氏|宗室]]の出身であったため、不快に思った曹丕は人をやって妾を殺させた。すると夏侯尚は悲嘆のあまり精神を病み、埋葬した愛妾を懐かしがって墓を掘り起こすことまでした。これを聞いた曹丕は腹を立て「杜襲の言葉はもっともであった」と言ったが、やがて後悔して元通り夏侯尚を厚遇した。 225年、病が重くなり都に帰還した。曹丕は夏侯尚の病床を何度か見舞っては、手を握り流涕したという。同年のうちに死去し、悼侯と[[諡号|諡]]された。その後は子が跡を継いだ。曹丕は詔勅を出して夏侯尚の死を惜しみ、征南大将軍・昌陵郷侯の印綬を送ったという(『魏書』)。 == 三国志演義 == 小説『[[三国志演義]]』では、曹操と劉備の[[漢中]]を巡る戦いにおいて、夏侯淵の武将の一人として登場する。劉備軍の[[黄忠]]と戦って敗れ捕らえられ、敵将の[[陳式]]との捕虜交換時に、背後から黄忠に弓で射撃され重傷を負う。また兄として[[夏侯徳]]が登場している。その後、上庸の孟達が謀反を起こすと史実通りそれを救援し、劉封を追いやっている。 == 宗族 == === 妻妾 === * 徳陽郷主([[曹真]]の妹) === 子女 === * [[夏侯玄]](太初) * [[夏侯徽]]([[司馬師]]の最初の妻) === 従弟 === * [[夏侯儒]](字「俊林」) === 甥 === * [[夏侯奉]](弟の子) === 従孫 === * [[夏侯本]](弟の孫で、昌陵亭侯を継ぐ) == 脚注 == <references/> {{DEFAULTSORT:かこう しよう}} [[Category:夏侯氏|しよう]] [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:225年没]]
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