コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
埴谷雄高のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
埴谷雄高
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{Infobox 作家 | name = 埴谷 雄高<br />(はにや ゆたか) | image = | imagesize = | caption = | pseudonym = | birth_name = 般若 豊(はんにゃ ゆたか) | birth_date = [[1909年]][[12月19日]] | birth_place = {{JPN}}・[[台湾]][[新竹]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1909|12|19|1997|2|19}} | death_place = | resting_place = | occupation = [[評論家]]、[[小説家]] | language = [[日本語]] | nationality = {{JPN}} | education = | alma_mater = [[日本大学]]中退 | period = [[1939年]] - [[1997年]] | subject = [[小説]]、[[評論]] | movement = [[第一次戦後派]] | notable_works = 『不合理ゆえに吾信ず』(1950年)<br />『虚空』(1960年)</br>『闇のなかの黒い馬』(1970年)</br>『[[死靈]]』(しれい)(1945-95年-死去直前、未完) | awards = [[谷崎潤一郎賞]](1970年)</br>[[日本文学大賞]](1976年)<br/>[[藤村記念歴程賞]](1990年) | debut_works = 『不合理ゆえに吾信ず』(1950年) | spouse = | partner = | children = | relations = | influences = [[マックス・シュティルナー|シュティルナー]]<br/>[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]<br/>[[イマヌエル・カント|カント]]<br/>[[アナキズム]] | influenced = | signature = | website = | footnotes = }} '''埴谷 雄高'''(はにや ゆたか、[[1909年]]([[明治]]42年)[[12月19日]] - [[1997年]]([[平成]]9年)[[2月19日]])は、日本の[[政治]]・[[思想]][[評論家]]、[[小説家]]。本名'''般若豊'''(はんにゃ ゆたか)[http://art-random.main.jp/samescale/080/087-y-haniwa-1.jpg]。 == 来歴・人物 == [[台湾]]の[[新竹市|新竹]]に生まれる。子供の頃から身体が弱く、常に死を身近に感じていたという。子供心に台湾において「支配者としての日本人」を強く意識し、罪悪感を覚えていた。 青年期に思想家[[マックス・シュティルナー]]の主著『唯一者とその所有』の影響を受け、[[個人主義]]的[[アナキズム]]に強いシンパシーを抱きつつ、[[ウラジーミル・レーニン]]の著作『[[国家と革命]]』に述べられた[[国家]]の消滅に一縷の望みを託し、[[マルクス主義]]に接近、[[日本共産党]]に入党し、もっぱら地下活動(農民団体「[[全国農民組合全国会議派|全農全会派]]」のオルグ活動)に従事。検挙後は未決囚として[[豊多摩刑務所]]に収監され、形式的な[[転向]]によって釈放された。 獄中では[[イマヌエル・カント|カント]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]から圧倒的な影響を受けたという([[ロシア文学]]については早くから影響を受け思索を強めていたものの、この時期を経てドストエフスキーを第一に挙げるようになり、実際に多くのドストエフスキー論を著している)。出獄後は経済雑誌の編集に携わり、敗戦を迎えた。元[[マルクス主義|マルクス主義者]]、主義からの転向者と呼ばれることが多いが、シュティルナーの「[[創造]]的虚無」を自己の思考の根底に据えることは、終生変わることがなかった。 代表作は、[[存在]]の秘密や大宇宙について語りつくさんとし、第一章が『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』創刊号(昭和20年12月30日付)に掲載された大長篇小説『'''[[死靈]]'''(しれい)』。全12章予定で未完作となったが幾度かの空白を挟み書き続け、死の直前まで第9章までを書き継いだ。ほぼ全編を、物語でなく観念的議論によって進行する世界文学史においても未曾有の[[形而上学]]的思弁小説であり、この一作で比類ない評価を受けた。他に自身が決定的な影響を受けたドストエフスキー論が著名。 彼の没した日には、有志によって「アンドロメダ忌」という記念会が催されている。 == 経歴 == * [[1909年]]([[明治]]42年)[[12月19日]](戸籍上は[[1910年]](明治43年)[[1月1日]])、[[台湾]]の[[新竹市|新竹]]に生まれる<ref name="zenshu">『埴谷雄高全集・別巻』「年譜」13-18p.(講談社、2001年)</ref>。本籍は[[福島県]][[相馬郡]][[小高町]] (現・[[南相馬市]] )<ref name="zenshu"/>。父三郎の実家・般若家は代々[[相馬氏#奥州相馬氏|奥州相馬氏]]に仕え、[[磐城国]][[相馬中村藩]]士(剣道指南役)として[[明治維新]]を迎えた<ref name="zenshu"/>。三郎は税務官吏として台湾に渡り、後台湾精糖株式会社に勤務した<ref name="zenshu"/>。母方の曽祖父は[[薩摩藩]]の[[陽明学]]者の[[伊東祐之 (薩摩藩士)|伊東猛右衛門]]<ref name="zenshu"/>。父の転勤に伴い、幼少期を[[屏東市|屏東]]で過ごす<ref name="zenshu"/>。 * [[1923年]]([[大正]]12年)、[[東京]]に引っ越す。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)3月、[[目白中学校 (旧制)|目白中学]]卒業。 * [[1928年]](昭和3年)、[[日本大学]][[大学予科|予科]]に編入学。 * [[1930年]](昭和5年)、日本大学を[[退学]]。 * [[1931年]](昭和6年)、[[日本共産党]]に入党。 * [[1932年]](昭和7年)、[[逮捕]]。独房で[[イマヌエル・カント|カント]]の『[[純粋理性批判]]』を読み、終生影響される。 * [[1933年]](昭和8年)、出所。 * [[1942年]](昭和17年)、『ダニューブ』を[[翻訳]]。 * [[1943年]](昭和18年)、『偉大なる憤怒の書』を翻訳。 * [[1946年]](昭和21年)、[[山室静]]・[[平野謙 (評論家)|平野謙]]・[[本多秋五]]・[[荒正人]]・[[佐々木基一]]・[[小田切秀雄]]とともに雑誌『近代文学』を創刊。畢生の大作『[[死靈]]』を連載開始。 * [[1950年]](昭和25年)、『不合理ゆえに吾信ず』を刊行。この年腸結核を患い、4年間の療養生活を送る。 * [[1970年]](昭和45年)、『闇のなかの黒い馬』を刊行。同作で、第6回[[谷崎潤一郎賞]]を受賞。 * [[1971年]](昭和46年)、『埴谷雄高作品集』を刊行。 * [[1975年]](昭和50年)、26年ぶりに『死靈』の第五章を発表。 * [[1976年]](昭和51年)、『死靈』全五章で[[日本文学大賞]]を受賞。 * [[1981年]](昭和56年)、『死靈』の第六章を発表。 * [[1984年]](昭和59年)、『死靈』の第七章を発表。 * [[1986年]](昭和61年)、『死靈』の第八章を発表。 * [[1990年]]([[平成]]2年)、これまでの業績により、[[藤村記念歴程賞]]を受賞。 * [[1995年]](平成7年)、『死靈』の第九章を発表。 * [[1997年]](平成9年)[[2月19日]]、[[吉祥寺]]の自宅で逝去。[[青山墓地]]に葬られる。埴谷雄高忌は「[[アンドロメダ]]忌」と称されている。 * [[1998年]](平成10年) 『埴谷雄高全集』刊行開始(‐[[2001年]])。 == 評価・批判 == 埴谷雄高研究者としては、[[立石伯]]、[[柘植光彦]]、[[白川正芳]]、[[川西政明]]、[[鹿島徹]]らが一般的に著名。 新人作家の発見や紹介推薦に優れた力を発揮したことで知られる。無名時代の[[安部公房]]の才能を、[[石川淳]]とともに見出して文壇に推したのは埴谷である。それ以外にも、[[高橋和巳]]、[[辻邦生]]、[[倉橋由美子]]、[[北杜夫]]、[[加賀乙彦]]などの新人作家の才能を発見して育成している。 一般的には批評や創作自体の評価よりも(そもそも創作自体が非常に寡作であるが)「『[[死靈]]』の作者」との認識が強く、また実際に『死靈』自体の評価は非常に高いのだが、それ以外は今日あまり顧みられていないのが現状である。しかし往時は新左翼系の読者までも多く抱え、独自の視点から(例えば[[鶴見俊輔]]は埴谷を「国家の形と見あう一定の型」からはずれている、と評した)の提言に対する評価は高かった。 [[三島由紀夫]]は「埴谷氏の文学は日本の戦後の夜を完全に支配した」として埴谷を絶賛している。また[[吉本隆明]]は、埴谷の文学作品と政治理論の双方を非常に高く評価し、「死霊」第五章を、「死というものを瞬間的にでなく、段階的・思索的にとらえた日本近代文学史上はじめての作品」とし、またその政治理論についても「革命家は行動を起こさなければいけないという観念論ではなく、未来のビジョンを示せばよいということを示したコペルニクス的回転である」とした。なお吉本・埴谷の両者は、後述のように1980年代に関係が断絶してしまうが、両者ともに相手を本質的に評価しつづける姿勢は関係断絶後も不変で、埴谷の死後の[[「群像」]]の追悼特集で、吉本は埴谷を、日本史上稀有の文学者であり思想家であったと追悼している。文学者以外からの評価も高く、たとえば[[池田晶子]]は埴谷の作品の哲学的センスを哲学専門家の立場から大きく認めている。 これに対し[[蓮實重彦]]は、「[[学生運動]]ほか」をめぐる座談で、構築する意思を見せるが実際に構築を完遂することもなく、結局のところ(非常に手広いものの)人間関係しか残らない程度の作業しかしておらず、「なにが偉いのかまったくわからない」と埴谷を断じた。なおこの座談の参加者であった[[上野昂志]]・[[スガ秀実]]もおおむね蓮實の批判に同意している<ref>「1968-知の攻略11.思想読本」所収(作品社 2005年)</ref>。また[[江藤淳]]は、埴谷の「死霊」を、「読んでいてところどころ眠くなる作品」として、埴谷の存在を「昭和10年代左翼の延長」としてとらえるべきだ、と否定的見解を示している。[[柄谷行人]]も、埴谷の思考の徹底性を認めつつも、全体的には埴谷の存在に批判的な論考を多く記している。 [[笠井潔]]は埴谷について、カントの影響を受けたと自称しているが実際は彼は獄中で徹底した[[ヘーゲル]]主義者に転じたと考えられるとしている。無限の未来の視点を所有していると観念的に自負している埴谷の思考スタイルは、20世紀的現実の制約を受けていないぶん、マルクス主義よりさらに危険なものであると笠井はいう。したがって埴谷の[[スターリン主義]]批判や[[花田清輝]]批判には根本的な陥穽がある、と笠井は批判している。 == 逸話 == * [[結核]]に罹患していたために、[[徴兵]]を免れた。<br/> * 話をするときに手に持っているもので机やテーブルを叩く癖があり、メガネを200個以上も壊したという。<br/> * [[武蔵野市]][[吉祥寺]]の自宅の両隣と向かいに家作を持っていた。転向による釈放後、息子がまともに就職出来ないであろうと思った母親が購入したもので、戦前の埴谷は、一時経済新聞への勤務歴はあったものの、主にこの家作からの家賃や売却益で生活していた。大岡昇平との対談集『二つの同時代史』によると、[[結核]]が発覚した[[1950年]]までにこれらは全て売り払ったという。<br/> * 腸結核が発覚した1950年から約4年間、生活のために自宅で賄い付き下宿を営んでいた。発覚時、埴谷は夫人の勧めにもかかわらず療養所への入院を拒み、自宅を売って転地療養すると主張していた。当時『近代文学』の編集を手伝っていた[[平田次三郎]]がそれを知り、埴谷に強く勧めたもので、下宿生には[[一橋大学]]の学生が多かったという。翻訳家の[[常盤新平]]も埴谷家に寄宿した一人である。<br/> * [[北杜夫]]は1960年代に埴谷の自宅を訪れた際、ラジオのチューンをさまざまに調整しては各球場の経過を聴いていたプロ野球好きの埴谷の姿をエッセイに書いている。北は無名時代の自分を認めてくれた埴谷を生涯にわたって尊敬しており、ときどき埴谷の自宅に遊びに行ったが、ある日埴谷が不在で、埴谷夫人に「主人はいま駅前のパチンコにいってますよ」といわれ驚き、「埴谷さんの難解高尚な文学のイメージとパチンコがどうしても噛み合わない」と思いながらそのパチンコ屋にむかった。「埴谷さんのような類稀なる大文学者は不器用で、パチンコではすってばかりいるだろう」と思いきや埴谷の席にいくと、大当たりの連続でパチンコ玉の箱が何杯も積み上げられており、北は再び驚いた、というエピソードも書いている。埴谷は株式取引にも非常に詳しく、北が株に手を出して損をしたときに適切なアドバイスをしてくれたり、また埴谷が北の家に出向いたとき、埴谷の多面にわたる博識に感心した高校生の北の娘の[[斎藤由香]]が、高卒で終わるのではなく大学に進学し勉強することをその晩に決意し北を感激させたというようなこともあった(北杜夫『マンボウ交友録』)このような博識で多趣味な人物であったことも、埴谷が多くの作家や編集者に慕われる理由であった。なお北は埴谷と二冊の対談集を出している。 * [[ハンガリー]]産の[[トカイワイン]]、特に「アスー3プットニョシュ」を愛飲していた。かなりの酒豪で、晩年になっても明け方まで都内を飲み歩くことがしばしばだった。 * [[武田泰淳]]、[[大岡昇平]]、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]、[[井上光晴]]、[[小川国夫]]、[[島田雅彦]]らとの親交を中心に、文壇全体と広い交友があった。晩年は[[吉本隆明]]と、[[コム・デ・ギャルソン]]論争で激しく対決した。これは1982年の反核アピールを吉本が批判したところに端を発したものだが、同じ頃、埴谷に日頃批判的な[[中上健次]]が早朝埴谷に電話をかけてきて「お前を殺してやる」と言ったという。これに対し普段は温厚な埴谷が「お前になんか殺されてたまるか!」と電話口で激怒すると、その中上の電話は不意に切れたという(『文學界』1986年3月)。 * 他の作家や編集者から「埴谷[[先生]]」と呼ばれると、「私は人にものを教えている訳ではありませんから、先生ではありません。『埴谷さん』でいいです」と常に答えていたという。<br/> * 文庫本は発表後[[1世紀]]以上を経た作品のみにすべきとの考えから、自分の作品は文庫化しないと公言していた。事実、生前には文庫本は一切出される事はなく、没後『死靈』と『埴谷雄高評論選』が文庫化された。<br/> * 埴谷は妻の死後武蔵境の自宅を講談社の音羽建設へ売却。その売却益で生計をたてていた。そして「群像」へ「死霊」の原稿を書き告ぐ約束でそのまま武蔵境の自宅に住み続けた。 == 著書 == === 単著 === * ダニューブ[翻訳・原書:エミール・レンギル](伊藤敏夫名義) 地平社 1942 * 偉大なる憤怒の書―ドストイェフスキイ「悪靈」研究 [翻訳・原書:A・L・ウォリンスキー] 興風館 1943<br> 復刻版「ドストエフスキイ文献集成.第16巻」 大空社 1996 ** ドストエフスキイ [同上] [[みすず書房]] 1959 ** 偉大なる憤怒の書 ドストエフスキィ『[[悪霊 (ドストエフスキー)|悪霊]]』研究 みすず書房 1970 ** ドストエフスキイ、[[大島かおり]]訳「『[[白痴 (ドストエフスキー)|白痴]]』研究」と、川崎浹訳「『[[カラマーゾフの兄弟]]』研究」を併せ、みすず書房 1987 * [[フランドル]]画家論抄 (宇田川嘉彦名義) 洸林堂書房、1944 ** [[オーギュスト・ロダン|ロダン]] (作品編著、宇田川嘉彦名義) 洸林堂書店、1942 * '''死靈''' 第1 真善美社 1948 * 不合理ゆえに吾信ず Credo, quia absurdum.[[[アフォリズム]]集] 月曜書房 1950、現代思潮社 1961・新版1975 * 濠渠と風車[評論集] 未來社 1957 * 鞭と独楽[評論集] 未來社 1957 * 幻視のなかの政治[評論集] [[中央公論社]] 1960、未來社 1963・改訂版2001 * 虚空[小説・戯曲] [[現代思潮社]] 1960、新版1973 * 墓銘と影絵[評論集] [[未來社]] 1961 * 罠と拍車[評論集] 未來社 1962 * 垂鉛と弾機[評論集] 未來社 1962 * 闇のなかの思想-形而上学的映画論 三一新書 1962、改訂版.潮出版社 1978 * 甕と蜉蝣[評論集] 未來社 1964 * 振子と坩堝[評論集] 未來社 1964 * ドストエフスキイ-その生涯と作品 日本放送出版協会〈NHKブックス〉 初版1965-重版多数 * 弥撒と鷹[評論集] 未來社 1966 * 影絵の世界-ロシア文学と私 [[平凡社]] 1967、筑摩叢書 1991、[[平凡社ライブラリー]] 1997-自伝エッセイ * 渦動と天秤[評論集] 未來社 1968 * 闇のなかの黒い馬 夢についての九つの短篇[小説] 河出書房新社 1970、限定版1971、新装版1981・1994ほか * 姿なき司祭-ソ聯東欧紀行 河出書房新社 1970 * '''埴谷雄高作品集''' 全15巻別巻1 [[河出書房新社]] 1971-1981 ** 埴谷雄高作品集 10巻.ドストエフスキイ論集 1987 * 欧州紀行 [[中公新書]] 1972 * 埴谷雄高評論選書 全3巻 講談社 1973 ** 第1巻:政治論集、第2巻:思想論集、第3巻:文学論集 * '''死靈 定本'''(1-5章) 講談社 1976 * 石棺と年輪-影絵の世界[評論集] 未來社 1976 * 戦後の文学者たち[作家・評論集] 構想社 1976 * 影絵の時代[随筆集] 河出書房新社 1977、新装版1997 * 蓮と海嘯[評論集] 未來社 1977 * 薄明のなかの思想 宇宙論的人間論 [[筑摩書房]](ちくまぶっくす) 1978 * 埴谷雄高ドストエフスキイ全論集 講談社 1979-限定版も刊 * 光速者 宇宙・人間・想像力[評論集] 作品社 1979 * 埴谷雄高'''準'''詩集 水兵社 1979 * 内界の青い花 病と死にまつわるエッセイ[随筆集] [[作品社]] 1980 * 天頂と潮汐[評論集] 未來社 1980 * 死靈 六章 講談社 1981 ** 死霊Ⅰ、死霊Ⅱ 講談社 1981-同時期に刊(1-3章と4-6章) * 戦後の先行者たち 同時代追悼文集 影書房 1984 * 暈と極冠[評論集] 未來社 1984 * 死靈 七章 講談社 1984 * 死靈 八章 講談社 1986 * ラインの白い霧とアクロポリスの円柱[紀行・評論集] [[福武書店]] 1986 * 謎とき『大審問官』[評論集] 福武書店 1990 * 雁と胡椒[評論集] 未來社 1990 * 滑車と風洞[評論集] 未來社 1991 * 虹と睡蓮[評論集] 未來社 1995 * 螺旋と蒼穹[評論集] 未來社 1995 * 死靈 九章 講談社 1995 ** 死霊Ⅲ 講談社 1996-(7-9章) ; 没後刊行 * 埴谷雄高 エッセンス (編・石井恭二) 河出書房新社 1997 * 散歩者の夢想 角川春樹事務所(ランティエ叢書) 1997 * 影絵の時代(抄)・内界の青い花 (作家の自伝.100)[[日本図書センター]] 1999 * '''埴谷雄高全集''' 全19巻別巻1 [[講談社]] 1998-2001 * 死霊 全3巻 [[講談社文芸文庫]] 2003 * 埴谷雄高思想論集 講談社文芸文庫 2004 * 埴谷雄高文学論集 講談社文芸文庫 2004 * 埴谷雄高政治論集 講談社文芸文庫 2004-各.[[立石伯]]編 * 幻視の詩学 わたしのなかの詩と詩人 詩の森文庫003.[[思潮社]] 2005-新書判 * 埴谷雄高集 戦後文学エッセイ選3.影書房 2005 === 対談 === * 架空と現実[対話集] 南北社 1968、[[未來社]] 1969 * 凝視と密着[対話集] 未來社 1969 * 兜と冥府[対話集] 未來社 1970 * 橄欖と瑩窟[対話集] 未來社 1972 * 黙示と発端[対話集] 未來社 1974 * 鐘と遊星[対話集] 未來社 1975 * 天啓と窮極[対話集] 未來社 1976 * 微塵と出現[対話集] 未來社 1982 * 単独と永劫[対話集] 未來社 1983 * 覚醒と寂滅[対話集] 未來社 1986 * 無限と中軸[対話集] 未來社 1990 * 重力と真空[対話集] 未來社 1991 * 超時と没我[対話集] 未來社 1996 * 跳躍と浸潤[対話集] 未來社 1996 * 瞬発と残響[対話集] 未來社 1996 * 意識革命宇宙 対談:[[吉本隆明]] 河出書房新社 1975 新装版1997 * 思索的渇望の世界 聞き手:吉本隆明・[[秋山駿]] 中央公論社 1976 * さびしい文学者の時代 「妄想病」対「躁鬱病」 対談:[[北杜夫]] 中央公論社 1982、中公文庫 2009 * 難解人間vs躁鬱人間 対談:北杜夫 中央公論社 1990、[[中公文庫]] 2009 * 闇のなかの夢想-映画学講義 小川国夫 朝日出版社〈Lecture books〉 1982 * 隠された無限-往復書簡<終末>の彼方に [[小川国夫]] 岩波書店 1988 * 二つの同時代史 対談:[[大岡昇平]] 岩波書店 1984、岩波現代文庫 2009 * 幻視者宣言-映画・音楽・文学([[丸山眞男]]との対談ほか) 三一書房 1994 * 埴谷雄高語る (聞き手・[[栗原幸夫]]) 河合文化教育研究所 1994 * 生老病死 ([[樋口覚]]対談) 三輪書店 1994 * 生命・宇宙・人類 (聞き手・[[立花隆]]) [[角川春樹事務所]] 1996 * 無限の相のもとに ([[立花隆]]対話) 平凡社 1997 * 埴谷雄高は最後にこう語った (聞き手・[[松本健一]]) [[毎日新聞社]] 1997 * 埴谷雄高独白 「死霊」の世界 (責任編集・白川正芳) [[日本放送出版協会]] 1997 === 編著 === * [[戦後日本思想大系]].6 革命の思想 筑摩書房 1969 * [[高橋和巳]]論 河出書房新社 1972 * [[武田泰淳]]研究 筑摩書房 1973 (武田泰淳全集 別巻) * 内ゲバの論理 テロリズムとは何か 三一書房〈三一新書〉 1974 * 『青年の環』論集 河出書房新社 1974 * 精神のリレー(講演集) [[島尾敏雄]]ほか全6名 河出書房新社 1976 * 日本の名随筆14.夢 [[作品社]] 1984 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://homepage3.nifty.com/h_yoshi/products.htm 埴谷雄高の書誌、文章辞典、書籍、「死霊」キーワード等の紹介] * [http://yumesoso.jp/item.php?itemid=283 相双ビューロー 「埴谷島尾記念文学資料館」] * [http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/itohsukeyuki.html 埴谷雄高の母方の祖父の伊東猛右衛門の紹介] {{Normdaten|TYP=p|GND=119012200|LCCN=n/81/11223|NDL=00007088|VIAF=108226811}} {{DEFAULTSORT:はにや ゆたか}} [[Category:日本の小説家]] [[Category:日本の無政府主義者]] [[Category:日本の社会主義の人物]] [[Category:日本共産党の人物]] [[Category:谷崎潤一郎賞受賞者]] [[Category:新竹市出身の人物]] [[Category:1909年生]] [[Category:1997年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Infobox 作家
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Normdaten
(
ソースを閲覧
)
埴谷雄高
に戻る。
検索
検索
埴谷雄高のソースを表示
話題を追加