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[[File:Hijikata Yoshi.JPG|thumb|250px|1948年]] '''土方 与志'''(ひじかた よし、[[1898年]]([[明治]]31年)[[4月16日]] - [[1959年]]([[昭和]]34年)[[6月4日]])は日本の[[演出家]]である。[[伯爵]]。[[築地小劇場]]を拠点に[[新劇]]運動を興した。[[東京]]生まれ。本名は'''久敬(ひさよし)'''。 ==来歴== 祖父[[土方久元|久元]](1833-1918年)は[[土佐藩]]出身で、維新後は[[宮内大臣]]・宮中顧問官・[[枢密顧問官]]・[[國學院大學]]学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、与志が生まれて間もない1898年に拳銃で自殺している。祖父没後の[[1918年]]に襲爵した。 学習院から[[東京大学|東京帝国大学]]国文科に進むが中退。[[山田耕筰]]の紹介で演出家[[小山内薫]]に師事し、小山内の助手として商業演劇に関わり舞台演出を学んだ。小規模ながら回り舞台や照明設備を備えた舞台設備を自宅内に造り、仲間とともに研究に励んだ。1922年、[[三島通庸]]の孫・梅子と結婚した。 ===築地小劇場の開設と劇場附属劇団の分裂=== 1922年、演劇研究のためドイツに留学。1923年9月の[[関東大震災]]の報を聞いた土方は、予定より早く同年暮れに帰国。震災復興のため一時的に建築規制が緩められたことから、仮設[[バラック]]劇場の建設を思いつき、[[小山内薫]]に相談し、計画を進めた。1924年始めより劇場建設と劇団の育成に取り掛かり、6月13日に[[築地小劇場]]を開設した。電気を用いた世界初の照明室を備えていた。建設のため土方が出資した費用は、のちの諸出費も合わせると30数万円といわれる(21世紀初頭の貨幣価値では約7億円とされる)<ref>小山内富子『小山内薫 近代演劇を拓く』、慶應義塾大学出版会、2005年、192ページ</ref>。 築地小劇場は[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]や[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]などの翻訳劇を中心に新劇運動の拠点となった。 [[1928年]]12月に小山内が急逝した後、しばらくすると劇場附属劇団内に内紛が起こり、「自治会」と称する反土方グループが生まれた<ref>久保栄『小山内薫』1947年。よく土方の左翼思想への反発と言われるが、久保によれば、実際は土方が「人減らし」を口にしたことを不安に思った劇団員が土方排撃に回ったのだという。</ref>。このため、[[1929年]][[3月25日]]には土方を支持する[[丸山定夫]]、[[山本安英]]、薄田研二、伊藤晃一、高橋豊子、細川知歌子(のち[[細川ちか子]])らが脱退し、築地小劇場は分裂した。脱退組は4月に[[新築地劇団]]を結成し、より〈プロレタリア・リアリズム〉に基づく演劇を志向した。残留組(築地小劇場に残ったメンバー)は、翌[[1930年]]8月に解散し、劇団新東京になった。 ===新築地劇団と亡命=== [[新築地劇団]]はプロレタリア文学の代表作である<!---[[日本プロレタリア作家同盟]](1929年[[2月10日]]結成)の--->[[小林多喜二]]の『[[蟹工船]]』(1929年3月に完成)を『北緯五十度以北』という題で、同年7月に[[帝国劇場]]で上演した。以降、[[久板栄二郎]]の『北東の風』や[[久保栄]]の『火山灰地』など盛んにプロレタリア演劇を上演していった。しだいに官憲の弾圧が激しくなり、[[1932年]]に土方は検挙を受けた。 翌[[1933年]][[2月20日]]、小林多喜二は[[治安維持法]]違反容疑で逮捕、築地警察署において[[特別高等警察]]による拷問で死亡。[[3月15日]]には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。 [[プロレタリア文学|日本プロレタリア演劇同盟]]の代表として、妻・梅子や[[佐野碩]]とともにソ連を訪問。第1回ソヴィエト作家同盟で日本代表として小林多喜二虐殺や日本の革命運動について報告を行った(1934年8月28日)。その内容はまもなく日本に伝わり、同年9月に爵位を剥奪された。土方は帰国せず、そのままソ連に亡命。 ===粛清・帰国後=== [[1937年]]8月、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]粛清が本格化したことで、土方は妻、佐野碩とともに国外追放処分を受け、モスクワからパリに亡命移住する。この間、日本国内では[[1940年]]8月、劇団員のほとんどが検挙され新築地劇団は解散。劇場は[[11月1日]]には国民新劇場と改称された。[[1941年]]、土方は逮捕覚悟で帰国。直ちに治安維持法違反で検挙され、5年の実刑を受けた。 終戦後は、出獄し[[日本共産党]]に入党。[[前進座]]や[[舞台芸術学院]]で演劇活動を再開。[[コンスタンチン・スタニスラフスキー|スタニスラフスキー]]の[[スタニスラフスキー・システム]]を、日本の演劇界に導入することにも熱心であった。 == 親族 == *叔父(久元の弟の子)に当たる[[土方久功]](1900年~1979年)は、東京美術学校彫刻科卒業。[[築地小劇場]]のマーク(一房の葡萄)をデザインした。 *長男[[土方敬太|敬太]](1920年~1992年)は[[ロシア文学者]]兼映画研究家、二男[[土方与平|与平]](1926~2010年)も演劇制作者として、劇団[[青年劇場]]顧問をつとめた。幼少期に、父与志の[[ソビエト]]亡命生活に同行している。 ==著書== *『なすの夜ばなし』河童書房 1947 のち影書房、1998 *『演劇の話』ナウカ社 1950 *『演出者の道 土方与志演劇論集』未来社 1969 ===翻訳=== *スタニスラフスキイ『俳優と劇場の倫理』未来社 てすぴす叢書 1952 *スタニスラフスキイ『身体的行動』未来社 てすぴす叢書 1953 *[[シーモノフ]]『ロシア問題』早川書房 1953 *『スタニスラフスキイ・システム論争 スタニスラフスキイの遺産に深く学び,創造の上に発展せしめよ』編訳 未来社 1955 == 関連文献 == * 土方梅子 『土方梅子自伝』 早川書房、1976年、早川文庫、1986年。 * 土方与志 『土方与志演劇論集 演出家の道』 未來社、1969年。 *土方与志『なすの夜ばなし』 新版影書房 1998年 初版河童書房、1947年 *尾崎宏次、茨木憲 『土方与志 ある先駆者の生涯』 筑摩書房、1961年。 * [[加藤哲郎 (学者)|加藤哲郎]] 『モスクワで粛清された日本人』 青木書店、1994年。 * 小林俊一・加藤昭 『闇の男――野坂参三の百年』 文藝春秋、1993年。 == 脚注・出典 == <references/> {{DEFAULTSORT:ひしかた よし}} [[Category:日本の演出家]] [[Category:日本の伯爵]] [[Category:共産主義者]] [[Category:日本共産党の人物]] [[Category:日本の社会主義の人物]] [[Category:日本の社会主義の文化]] [[Category:日本の亡命者]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1898年生]] [[Category:1959年没]]
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