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'''国際地球観測年'''(こくさいちきゅうかんそくねん、'''International Geophysical Year'''、略称:'''IGY''')は、[[1957年]][[7月1日]]から[[1958年]][[12月31日]]まで続いた、国際科学研究プロジェクトの名称。[[国際年]]の第一号として数えられる。当初は[[太陽]]の[[磁気]]が地球に与える影響を研究するために設定された。 かつての[[1882年]]から[[1883年]]の[[#第1回国際極年|第1回国際極年]]と、[[1932年]]から[[1933年]]の[[#第2回国際極年|第2回国際極年]]にひき続くものである。 国際地球観測年で行われた協力は12項目があった。以下に列挙する。[[オーロラ]]、[[大気光]](夜光)、[[宇宙線]]、[[地磁気]]、[[氷河]]、[[重力]]、[[電離層]]、[[経度]]・[[緯度]]決定、[[気象学]]、[[海洋学]]、[[地震学]]、[[太陽活動]]。 [[ソビエト連邦]]と[[アメリカ合衆国]]は、国際地球観測年のために初期の[[人工衛星]]・[[スプートニク1号]]と[[エクスプローラー1号]]を打ち上げた。主な成果は、[[バン・アレン帯]]の発見、[[中央海嶺]]、[[プレートテクトニクス|プレート・テクトニクス説]]の確認作業などがある。 [[極地]]は特有の現象を持つ。空気と水は[[南極大陸]]内部に封じ込められ、そのまま数十万年の間、大陸に堆積したままになる。これらは過去の地球の気象等を知る手がかりになる。[[南極点]]でこれらを観察することは可能だが、南極点は大昔に放棄されたままで、一度きりの観察のために出かけるのには費用がかかりすぎる難点があった。国際協力により観測結果を交換しあうことにより、これらの費用は最小限に抑えることができる。この国際協力をきっかけに、[[南極における領有権主張の一覧|複数の国により領有権の主張がなされていた]]南極大陸について、今後も大陸全体を国際協力で観測できるようにするには国境線で大陸を分断しないことが重要という認識が参加国の間で広がり、[[1959年]]の[[南極条約]]へと至った。 第1回国際極年は、Georg Neumayerによって提案され、[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]将校、Karl Weyprechtによって実行された。複数の観測者が同年に異なる位置で複数種類の測定を行うことによって、結果が統合され、価値のある解釈を生むことが可能になった。 == 第1回国際極年 == [[1882年]]から[[1883年]]の第1回国際極年には、12カ国([[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[デンマーク]]、[[フィンランド]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[オランダ]]、[[ノルウェー]]、[[ロシア]]、[[スウェーデン]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]、アメリカ)が参加した。 これらの国は[[北極]]近辺の14の測候所で、[[氷床コア|氷]]、[[大気]]、[[電磁気]]、地磁気、[[曙光]]、[[海流]]、[[潮]]、構造および運動の観測を行った。このほか、世界中の40を越える[[気象台]]が、国際極年の観測に協力した。 [[第一次世界大戦]]後、[[電信]]、[[ラジオ]]、[[電話]]が発達し、[[飛行機]]などが実用化すると、これらを利用した提案が[[1927年]]に、国際気象委員会に提出された。 == 第2回国際極年 == [[1932年]]から[[1933年]]の第2回国際極年は、これらの新技術を使って気象情報を交換することが可能であるか、また、それが各国の気象予報にどれだけ有効であるかを調査する目的であった。また極地の気象観測が、気象予報にどれだけ意味を持つのかを調査する意味もあった。44カ国がこれに参加し、情報が集積された。しかし、両極地の情報は極端に少なかった。 == 国際地球観測年の提唱 == [[1950年代]]、アメリカのLloyd Berknerによって、[[ロケット]]観測などを含む第3回の国際極年が提案された。[[国際科学会議|国際学術連合]](ICSU)は、これを極地以外の総合的な地球物理学観測の計画に拡張した。70を超える国立またはそれに相当する機関が協力し、国際地球観測年委員会を組織し、実行した。 これにより、[[南半球]]の高緯度地域の高層気象データの蓄積が進み、南半球において夏の極前線の存在が確認できないことが明らかとなり、[[アリソフの気候区分]]にあるような亜南極帯と南極気団帯は存在しない、ということが判明した<ref>矢澤(1989):358 - 359ページ</ref>。 ==日本の協力== [[画像:International Geophysical Year in 1957.Japanese sttamp of 10yen.jpg|thumb|165px|right|日本が発行した国際地球観測年記念切手]] 国際地球観測年が提案された[[1951年]]、日本は独立を回復していなかった。日本はこれに参加し、国際的地位を認めてもらおうと考えた。当初、[[赤道]]観測を行う予定であったが、観測予定地の領有権を持つアメリカは、自国で観測を行うという理由で丁重にこれを断った。 そこで日本は[[南極]]観測を行うことにした。しかし、IGY南極分科会では、[[第二次世界大戦]]で日本に遺恨を持つ複数の国から強硬な反対を受けた。アメリカ、ソビエト連邦などの大国が日本支持に回り、最終的に参加が認められた。ノルウェーが国力不足を理由に南極観測を行わないと表明したため、当時ノルウェーが領有権を主張していた地域が日本に割り当てられた。日本は国際地球観測年に合わせて南極圏内の[[東オングル島]]に[[昭和基地]]を建設し、観測に協力した。昭和基地は、国際地球観測年終了とともに撤収する予定であったが、その後延長され、現在も観測が続いている。 日本は、12のすべての部門で協力を行った。 == 発行物 == *日本の発行物 **1957年7月1日、国際地球観測年記念の切手が1種(10円)、発行された。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * [[矢沢大二|矢澤大二]]『気候地域論考―その思潮と展開―』古今書院、1989年11月20日、738pp. ISBN 4-7722-1113-6 ==関連項目== *[[アムンゼン・スコット基地]] *[[ドナルド・フェイゲン]] - [[1982年]]の作品『[[ナイトフライ]]』で、この年を主題とした曲「I.G.Y.」を発表し、大ヒットとなった。 *[[鉄腕アトム]] - [[1955年]]から[[1956年]]にかけて連載された「黄色い馬の巻」は、「地球観測年」を舞台としている。 *[[カッパロケット]] ;原文 *[[:en:International_Geophysical_Year]]の翻訳 ==外部リンク== *[http://www.nas.edu/history/igy/ The International Geophysical Year] (英語) {{DEFAULTSORT:こくさいちきゆうかんそくねん}} [[Category:地球科学]] [[Category:南極の歴史]] [[Category:科学史]] [[Category:気候史]] [[Category:観測]] [[Category:1957年]] [[Category:国際年]]
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