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'''喜代姫'''(きよひめ、[[文政]]元年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]([[1818年]][[8月9日]]) - [[明治]]元年([[1868年]])[[12月24日 (旧暦)|12月24日]])は、[[江戸時代]]後期の5代[[姫路藩]]主・[[酒井忠学]]の正室。11代将軍[[徳川家斉]]の二十五女。12代将軍[[徳川家慶]]の異母妹。母は側室の八重の方([[皆春院]])。諱は'''都子'''(みやこ)。院号は'''晴光院'''。 == 生涯 == [[文政]]4年(1823年)4月、[[御台所]][[広大院|茂姫]]御養となる。文政5年([[1822年]])6月21日に[[姫路藩]]主[[酒井忠実]]の養嗣子・与四郎(忠学)と婚約がなり、[[天保]]3年([[1832年]])12月1日、姫路藩上屋敷に建てられた御住居に引移(輿入り)した。喜代姫の御住居に建てられた中仕切門は、酒井家の格式を越えているということで輿入れの数日前に取り壊された。 忠学との間には天保5年([[1834年]])3月2日に女子・喜曽姫が誕生し、長じて分家から酒井家を継いだ6代藩主[[酒井忠宝 (姫路藩主)|酒井忠宝]]の正室となる。また天保6年9月13日に男子・徳太郎が生まれたが、こちらは翌7年11月に夭折した。 天保15年([[1844年]])10月、夫・忠学が死去。その後[[姫路市|姫路]]に移り、同地で死去した。墓所は姫路市の景福寺。 現在、姫路を代表する地元の名菓「[[伊勢屋本店|玉椿]]」は、忠学と喜代姫の婚礼に合わせて考案された。また、喜代姫輿入れの際に酒井家上屋敷中庭(現在の[[皇居]]前、[[パレスホテル]]がある付近)に建てられた門が、明治時代初期に[[西教寺 (文京区)|西教寺]]に移築され、表門として伝わっている。 == 参考文献 == *『徳川将軍家墓碑総覧』(秋元茂陽、[[2008年]]) *『徳川幕府家譜』 {{DEFAULTSORT:きよひめ}} [[Category:徳川家斉の子女]] [[Category:酒井氏]] [[Category:江戸時代の大名の正室]] [[Category:幕末姫路藩の人物]] [[Category:1818年生]] [[Category:1868年没]]
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