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善阿弥
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'''善阿弥'''(ぜんあみ、[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年([[1386年]])? - [[文明 (日本)|文明]]14年([[1482年]])?)は[[室町時代]]の[[庭師]]。[[河原者]]という被差別身分の出身ながら、[[室町幕府]]の八代将軍[[足利義政]]に重用された。 善阿弥作と伝えられるものに、[[長禄]]2年(1458年)の[[相国寺]]蔭涼軒、[[寛正]]2年(1461年)の[[花の御所]]泉殿、その翌年の高倉御所泉水、[[文正]]元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒がある。[[応仁の乱]]の最中は[[奈良]]に移り、[[興福寺]]大乗院なども手掛けた。生年は、没時に97歳とあることからの推測で、[[明徳]]4年([[1393年]])とも。 興福寺中院の作庭においての待遇は「毎日三十疋、引物二千疋、手の物十一人、毎日人別二十疋宛、引物惣中五百疋」というものだった(『[[経覚私要鈔]]』)。睡隠軒の作庭を見た[[季瓊真蘂]]は「少岳を築るを見る。善阿の築く所、その遠近峯礀、尤も奇絶たるなり。これに対するに飽かず。忽然として帰路を忘るなり。」と賞賛した。晩年の善阿弥が病床に伏した際には、義政は使者を遣わして見舞い、高貴な薬を届けたという。 子の小四郎らも庭師として仕え、[[慈照寺]](銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品である。善阿弥などの作庭に携わった者や、作業を行った熟練した技術を持つ河原者たちを、特に山水河原者とも称する。 ==演じた人物== *[[高品格]]→[[織本順吉]] ([[花の乱]]、1994年、[[NHK大河ドラマ]]) == 関連項目 == *[[旧大乗院庭園]] ==参考文献== *[[横井清]]『東山文化』[[教育社]] 1979年 [[Category:作庭家]] [[Category:日本の造園家]] [[Category:被差別部落]] [[Category:室町時代の人物]] {{DEFAULTSORT:せんあみ}} {{japanese-history-stub}}
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