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和田惟政
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 和田惟政 | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[享禄]]3年([[1530年]])?<ref>[[寛政重修諸家譜]]、諸家系図などによる没年齢42歳からの逆算</ref> | 死没 = [[元亀]]2年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1571年]][[9月17日]]) | 改名 = | 別名 = 弾正忠、紀伊入道 | 諡号 = | 戒名 = | 霊名 = | 墓所 = [[伊勢寺]] | 官位 = 弾正忠、伊賀守、紀伊守 | 幕府 = [[室町幕府]] 摂津半国[[守護]] | 主君 = [[六角氏]]、[[足利義輝]]、[[足利義昭]]<br />[[織田信長]] | 氏族 = [[近江和田氏|和田氏]] | 父母 = 和田宗立(惟助) | 兄弟 = '''惟政'''、[[和田惟増|惟増]]、[[和田定利|定利]]、[[和田定教|定教]] | 妻 = '''[[高山友照]]の娘''' | 子 = [[和田惟長|惟長]] | 特記事項 = }} [[ファイル:Escape of Ashikaga Yoshiaki.JPG|thumb|250px|足利義昭を救出する惟政([[歌川豊宣]]画)]] '''和田 惟政'''(わだ これまさ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[室町幕府]]末期の幕臣である。父は[[和田宗立]](惟助)。 == 生涯 == [[近江国]][[甲賀郡]]和田村([[滋賀県]])の有力[[豪族]]であった。はじめは[[六角氏]]および室町幕府13代将軍・[[足利義輝]]の幕臣として仕える。 [[永禄]]8年([[1565年]])、義輝が家臣の[[松永久秀]]らによって暗殺されると、軟禁されていた義輝の弟・覚慶([[足利義昭]])を仁木義政とともに[[一乗院]]より救い出して一時は自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従っている。[[越前国]]の[[朝倉義景]]、[[尾張国]]の[[織田信長]]の援助を得て[[還俗]]した義昭が15代将軍に就任すると、信長によって[[摂津国]][[芥川山城]]、のちに[[高槻城]]を与えられ、足利義昭からは[[池田勝正]]、[[伊丹親興]]とともに摂津国の守護の1人として任命され「[[摂津三守護]]」と称された(『足利季世記』)。 以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、[[織田氏]]家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。特に[[永禄]]12年([[1569年]])10月には、信長に援軍を要請した[[播磨国]]の[[赤松氏]]の援軍として、[[備前国]]の[[浦上氏]]攻めに参加している。 その後、惟政は所用で[[美濃国]]にいる信長のもとへ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。[[ルイス・フロイス]]によれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。フロイスはこれを[[朝山日乗]]が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。惟政はこれに剃髪して抗議した。 [[元亀]]元年([[1570年]])、惟政は京で[[金ヶ崎の戦い|越前攻め]]に向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。6月28日の[[姉川の戦い]]には織田氏方として参加したようである<ref>ただし、この姉川の戦いに参加したとする記録は宣教師の記録にあるのみで、合戦の同日に摂津国内で惟政が出した寺社への禁制の文書(今西文書)が存在する事や、他の公方衆も参戦していない事などから、実際に参加したかどうかは疑わしい。ただ、永禄12年(1569年)10月の浦上攻め後から、元亀元年(1570年)3月まで信長関係の資料に一切登場しなくなるのは事実であり、信長と義昭の対立の中で一時存在を疎まれたのは事実のようである。</ref>。 11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、[[三雲成持]]・[[三雲定持]]宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも一役買っていたものらしい。 元亀2年([[1571年]])、松永ら[[三好三人衆]]と手を結んだ[[池田知正]]を討つため、伊丹氏や[[茨木氏]]と共に摂津国[[白井河原の戦い]]([[茨木川]]畔)で[[池田氏]]家臣の[[荒木村重]]に敗れ戦死。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死んだという、壮絶な最期であった。<ref>フロイス日本史より</ref> 惟政の没後まもなく、子の惟長は[[高山友照]]、[[高山右近|右近]]父子により追放され、まもなく死亡し、和田氏は没落することになる。 == 惟政とキリスト教 == [[ファイル:Wada.jpg|250px|thumb|惟政の墓]] 惟政は[[キリスト教]]を自領内において手厚く保護したことが、ルイス・フロイスの『[[フロイス日本史|日本史]]』に詳細に書かれている。フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の[[綸旨]]を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。しかし、惟政自身は[[洗礼]]の儀式を受ける前に戦死したために、その死をフロイスは大変嘆いた。なお、キリスト教と出会う前は[[禅宗]]に属していたといわれる。 墓所は[[大阪府]][[高槻市]]の[[伊勢寺]]。[[享保]]年間(1716 - 36年)に高槻城を改修したときに墓石が発見され、移されたといわれている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[野田城・福島城の戦い]] * [[筒井城の戦い]] * [[吹田城]] {{DEFAULTSORT:わた これまさ}} [[Category:近江和田氏|これまさ]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:1530年生]] [[Category:1571年没]]
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