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'''周 魴'''(しゅう ほう、生没年不詳)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[武将]]・[[政治家]]。[[呉 (三国)|呉]]に仕えた。[[字]]は'''子魚'''。呉郡陽羨(現在の[[江蘇省]][[宜興市]])の人。 周賓の子で、[[京劇]]の演目の一つ「除三害」の主人公として有名な[[周処]]らの父。周圮・周札の祖父、周勰(周圮の子)の曾祖父。 == 生涯 == 若い頃から学問を好み、[[孝廉]]に推挙された。寧国[[県長]]を務め、懐安の地を治めた。銭唐の地域一帯に勢力を張る賊に彭式という者がいた。彭式は人数を多数集め乱暴を働いたが、周魴は銭唐の相に任じられると間もなくこれを鎮圧し、彭式らの首級を取った。この功績で[[丹陽]]西部[[都尉]]となった。 [[黄武]]年間、鄱陽の盗賊の大頭目の彭綺という者が反乱を起こすと、周魴は鄱陽[[太守]]に任じられ、[[胡綜]]と協力しその討伐にあたった。周魴は彭綺の身柄を拘束し、[[武昌]]に送った。この功績で、昭義[[校尉]]を加官された。 [[魏 (三国)|魏]]の[[揚州]][[牧]][[曹休]]は、[[山越]]を扇動し呉への侵攻を図っていた。孫権は曹休を油断させるための内通者を募ったが、周魴は自らその役を買って出た。周魴は曹休に対して孫権への不満を綴った書状を7通も送り、内通することを曹休に約束した。曹休は当初これを信じなかったが、周魴の元に中央から詰問の使者が送られてきたたことを知り、信じてしまった。 [[228年]]、周魴の謀略を信じ込んだ曹休は10万の軍を率いて呉領深く侵攻した。皖城において待ち伏せていた[[陸遜]]の呉軍に遭遇した曹休は、計略にかかったことに始めて気づいたが、自らの率いる大軍にまかせてそのまま決戦に及んだ。陸遜は曹休を左右から攻撃し破ったが、周魴も軍勢を率いて曹休の軍勢を分断し、勝利に貢献した。この功績により、孫権から裨将軍・[[関内侯]]の地位を与えられた([[石亭の戦い]])。 その後も周魴は、[[唐咨]]と[[吾粲]]が3千の兵を率いても降せなかった董嗣を計略で殺害し、その弟を降伏させるなど、反乱討伐に功績を挙げた。 周魴は太守の地位にあること13年で死去した。信賞必罰の方針を貫いて、郡に恩愛と威厳が行き渡っていたといわれる。 小説『[[三国志演義]]』では、周魴が剃髪して呉に攻め込んでくれるように嘆願してきたため、曹休もその偽の投降を信用したというような脚色がなされている。 == 墓 == 江蘇省宜興市には、彼と彼の一族の墓が発見されている。墓はすべて通路のある磚室墓となっており、中からは精巧な作りの[[磁器]]や金銀の服飾品など、歴史的に見て非常に貴重な副葬品が多数発掘されている。 == 参考資料 == *『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉書巻60「周魴伝」 *『図説中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明』(羅宗真著・住谷孝之訳、[[創元社]]、[[2005年]]) {{DEFAULTSORT:しゆう ほう}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:呉の人物]]
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