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周作人
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{{中華圏の人物 | 名前=周 作人 | 画像=[[ファイル:Zhou Zuoren2.jpg|180px]] | 画像の説明= | 出生=[[1885年]][[1月16日]]<br/>([[清]][[光緒]]10年12月初1日) | 死去=[[1967年]][[5月6日]]<br/>[[File:Flag of the People's Republic of China.svg|25px]] [[中華人民共和国]][[北京市]] | 出身地={{QIN1890}}[[浙江省]][[紹興市|紹興府紹興県]] | 職業=作家 | 簡体字={{lang|zh-hans|周作人}} | 繁体字={{lang|zh-hant|周作人}} | ピン音={{lang|zh-hant|Zhōu Zuòrén}} | 通用= | 注音= | 注音二式= | 和名=しゅう さくじん | 発音=ジョウ ズオレン | ラテン字=Chou Tso-jen }} '''周 作人'''(しゅう さくじん、[[1885年]][[1月16日]] - [[1967年]][[5月6日]])は現代中国の散文作家、翻訳家。 就学時につけられた名は'''櫆寿'''。[[魯迅]]の弟。 == 生涯 == [[浙江省]]紹興(会稽)で地主の旧家に生まれる。家は幼年時代に没落し、12歳で父を失う。四書五経を学んだあと、[[科挙]]第一段階の県試を途中まで受けてみたが落ちたので、[[1901年]]に南京にある江南水師学堂へ進み、管輪班に所属した。ここで西欧の訳書や維新派の雑誌類にふれ、『アラビアン・ナイト』のアリババと盗賊の話、[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]の旧式な翻訳書が彼の最初の本となった。 [[1906年]]、海外留学試験に合格したが、近視のために土木工学の学習を命じられ、仙台医専を退学し再来日する魯迅とともに、[[日本]]へ渡る。[[法政大学]]予科で予備教育を受け、[[1908年]]に[[立教大学]]に入学し英文学と古典[[ギリシャ語]]を学ぶ。同じ時期に兄と同郷の有志と毎週日曜日に開かれる、[[章炳麟]]の『説文』講義に列席する。[[1909年]]、下宿の賄い婦に雇われていた羽太信子と結婚し、また兄弟で中国最初の本格的な翻訳小説集『域外小説集』を第二冊まで発表する。同じ年に兄は帰国するが、彼は[[日本語]]の勉強に本腰を入れ、日本文学にもようやく関心を示し出す。 [[1911年]]に帰国し、翌年には[[浙江省]]軍政府の省視学として[[杭州市|杭州]]へ赴任。[[1913年]]より省立第五中学の教員と紹興県教育会長を兼任する。[[1917年]]、[[北京大学]]の[[蔡元培]]に招かれて国史編纂処員に任命され、まもなく文科教授となり、それ以後は北京に在住する。北京大学赴任直後、[[胡適]]の言文一致提唱に共鳴し、当時北京の教育部(文科省)にいた魯迅とともに「思想革命」の趣旨を掲げて、雑誌『新青年』を根城に活発な論陣を張った。[[1923年]]に兄・魯迅と私的には絶交したが、魯迅の学問と教養について貴重な記録を書き残している。[[1925年]]、大学に「東方文学系」という日本文学専攻コースを設置した。 [[1937年]]、日本軍が北京に入城した後、北京大学は[[長沙]]・[[昆明]]に移転したが、自身の病弱と係累のために周作人は残留した。[[1938年]]5月、日本側が設定した「更生中国文化建設座談会」に出席・発言し、抗戦陣営の中国知識人に衝撃を与え、[[重慶市|重慶]]の論壇を代表する[[茅盾]]ら18名連署による「中華全国文芸界抗敵協会」の公開状が発せられた。[[1939年]]元旦、自称李なる青年に自宅で狙撃されるが、後でこれは日本軍の手先が脅しに来たものと作人は考えた。同じ年8月に臨時政府の[[湯爾和]]の勧誘を受け、北京大学(中国側は「偽」北京大学と呼ぶ)教授と文学院長に就任する。[[1941年]]1月「偽」華北政務委員会の常務委員・教育総署督弁に就任し、10月には「偽」東亜文化協議会会長を兼ねる。[[1943年]]6月にはさらに「偽」華北総合調査研究所副理事長、[[1944年]]5月「偽」華北新報経理と報道協会理事、「偽」中日文化協会理事となる。 [[1945年]]に日本が降伏した後の12月に、北京の対日協力者250名の一人として逮捕され、そのうちの12名とともに[[1946年]]5月に空路で南京へ送られ、7月に国民政府高等法院で公判に付される。[[11月16日]]に「懲役14年」の刑が確定し、減刑嘆願は認められなかった。 [[1949年]]に中国共産党の南京解放により出獄し、人民共和国成立後は北京の旧邸において、変則的で自由な蟄居を営むことになる。[[文化大革命]]では、「実権派」罪状の中に「漢奸」周作人を庇護厚遇したことが数えられ、魯迅未亡人・[[許広平]]の攻撃を受けるという不遇の中で没する。 == 著述と評価 == 周作人の主な著書は約20冊の散文集をはじめ、詩集・文学詩論・魯迅についての回想と資料、自伝などがあげられる。翻訳は日本・ロシア・ポーランドの近代小説、日本とギリシャの古典文学など、多数が残されている。 中国・日本・ヨーロッパに渡る広い知識を駆使した周作人の随筆は、[[郁達夫]]に「散漫支離、繁瑣に過ぎるかと思わせるが、仔細に見ればそのうちから一語を除いてもいけないことがわかり、も一度読み返したくなる。後には、古渋蒼老、爐火純青、古雅遒勁な趣を増した」と評された。作人自身は「自分の畑は文芸」であり、「随筆」を本領とし、''「前人の言論を渉猟して、これに弁別を加え、砂を吹き分けて金を選び、杵ほどの鉄から針を研ぎ出すこと」''とした。文章については「載道(道理を説くこと)」と「言志(自己を表出すること)」に分け、後者を良しとした。 周作人の教養は[[四書五経]]から『[[西遊記]]』『[[儒林外史]]』『[[聊斎志異]]』などの雑書におよぶ。幼時には『鏡花縁』をもっとも好んでいたという。中国の随筆家では[[郝懿行]]を尊敬している。彼や魯迅の世代のような漢籍による深い教養は、[[文化大革命]]以後の中国では求めて得られず、日本の作家でも[[中島敦]]を最後に([[高橋和巳]]のような中国文学者を除けば)絶えて見られなくなった。もっとも影響を受けた書物はイギリスの著作家[[ハヴェロック・エリス]]([[:en:Havelock Ellis|Henry Havelock Ellis]])だと「周作人自述」に書いている。日本人の作家では[[佐藤春夫]]を愛し、夏目漱石・[[島崎藤村]]などを中国に紹介している。『[[古事記]]』『狂言十番』『浮世風呂』『[[枕草子]]』などの翻訳もある。 以下の著作が本国で出版されている。 *『夜読抄』1966年、香港實用 *『談虎集』1967年、実用書局 *『談龍集』1972年、実用書局 *『沢潟集』1972年、匯文閣 *『知堂書話』1986年(岳麓・編) *『雨天的書』1987年(岳麓・編) *『知堂序跋』1987年(岳麓・編) *『知堂集外文』1988年(岳麓・編) *『知堂書信』1996年(黄開発・編) :日本では、彼の随筆が以下のように公刊されている。 *『北京の菓子』1936年、山本書店 *『周作人随筆集』1938年、改造社 *『中国新文学の源流』1939年、文求堂 *『周作人文芸随筆抄』1940年、冨山房 [[松枝茂夫]]訳 :*『周作人随筆』1996年、冨山房百科文庫 *『瓜豆集』1940年、創元社 *『結縁豆』1944年、実業之日本社 *『魯迅の故家』1955年、筑摩書房 *『日本文化を語る』1973年、筑摩書房 :*『日本談義』2002年、[[平凡社東洋文庫]] *『水の中のもの―周作人散文選』1998年、駿河台出版社 *『魯迅小説のなかの人物』2002年、新風舎 == 研究書 == *[[劉岸偉]]『東洋人の悲哀―周作人と日本』 (1991年、[[河出書房新社]]) *同『周作人伝』ミネルヴァ書房、2011 *方紀生『周作人先生のこと』(1995年、大空社・伝記叢書) *于耀明『周作人と日本近代文学』(2001年、翰林書房) *[[木山英雄]]『周作人「対日協力」の顛末』(2004年、[[岩波書店]]) *止庵『周作人伝』(2009年、[[山東画報出版社]]) == 参考文献 == *<span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 劉寿林ほか編|title = 民国職官年表|year = 1995|publisher = [[中華書局]]|isbn = 7-101-01320-1}}</span> {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! [[File:Flag_of_the_Republic_of_China-Nanjing_(Peace,_Anti-Communism,_National_Construction).svg|25px]] 南京国民政府([[汪兆銘政権]]) {{先代次代|[[華北政務委員会]]<br>教育総署督弁|<small>[[1940年]]11月 - [[1943年]]2月</small>|[[湯爾和]]|[[蘇体仁]]}} |} {{DEFAULTSORT:しゆう さくしん}} [[Category:中華民国の人物 し|ゆう さくしん]] [[Category:中国の翻訳家]] [[Category:随筆家]] [[Category:日本文学の翻訳者]] [[Category:中華民国期親日政府の人物]] [[Category:日本留学経験者]] [[Category:紹興出身の人物]] [[Category:1885年生]] [[Category:1967年没]]
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