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呂岱
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'''呂 岱'''(りょ たい、[[161年]] - [[256年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[武将]]。[[字]]は'''定公'''。子は呂凱([[蜀]]の[[呂凱]]とは別人)。広陵郡海陵の人。 == 生涯 == 郡や県の役人をしていたが、戦乱を避けて江東に疎開し、[[孫権]]の時代にその幕府に仕え、呉県の丞となった。孫権は諸県の長や丞を呼び寄せ、地方の行政について質問をすることがあったが、そのときに呂岱の受け答えを見て、わが意を得た人材と思い、幕府に呼び戻して録事とした。 のちに再び地方に出て余姚県の長となると、精鋭を募り1千人の兵士を集め配下とした。[[会稽]]、東冶など5つの県の不服従民が呂合や秦狼を首領として反乱を起こしたとき、呂岱は孫権から督軍校尉に任命され、将軍の[[蒋欽]]と協力してこれを鎮圧した。この功績により昭信[[中郎将]]に任じられた。 [[211年]]、兵士2千人を率いて西に遠征し、漢中の[[張魯]]を漢興郡のカン城に誘い出そうとしたが、張魯は警戒し道を塞いだため失敗し、孫権の命令により帰還した(『呉書』)。この帰りの途上で、蜀侵攻途上の[[劉備]]と白帝辺りで出会っている記述が残っている(「[[呉範]]伝」)。 [[215年]]、[[関羽]]との間で[[荊州]]を巡る一触即発の事態が起こったときには、[[呂蒙]]や[[孫茂]]達とともに長沙三郡([[長沙]]・[[桂陽]]・[[零陵]])を降伏させた。安成、攸、永安、茶陵の役人が反逆したため、彼等の立て籠もる陰山城を包囲し、またたくまに陥落させた。三郡が呉の支配下に収まると、呂岱は孫権により長沙にとどめられ鎮守した。 安成県の長の[[呉錫]]と中郎将の[[袁龍]]が関羽と機略を通じ反乱を起こし、それぞれ、攸と醴陵に拠った。孫権は横江将軍の[[魯粛]]に命令し攸を討たせ、呂岱には醴陵を攻撃させた。呂岱は醴陵を簡単に陥し、袁龍を斬った。この功績で廬陵太守となった。 [[220年]]、[[歩隲]]の後を継いで[[交州]][[刺史]]となった。高涼の不服住民の首領が降参してきたので、孫権に上奏して彼を高涼西部都尉とした。鬱林の異民族の不服従民は反乱し郡や県の役所に攻撃してきたため、呂岱はこれを打ち破った。桂陽や湞陽一帯を勢力に収めていた賊に[[王金]]という人物がいたが、南海郡の辺境地域で人を集めて周囲に略奪をしていた。呂岱は孫権よりの討伐の命令を受けて王金に攻撃し、王金を捕虜にし都に送り、1万ほどの反乱軍を斬るか捕虜にした。安南将軍となり、仮節を与えられ、封郷侯に封じられた。 [[226年]]、交阯太守[[士燮 (交阯太守)|士燮]]が死ぬと、孫権は士燮の子の[[士徽]]を安遠将軍に任命し九真太守とし、交阯太守は校尉の[[陳時]]をあてようとした。呂岱は孫権の許可をとり、交州を海南3郡と海東4郡とで分割し、前者を交州、後者を[[広州市|広州]]とし、交州の刺史は将軍の[[戴良]]を任命し、自身は広州の刺史となった。戴良と陳時の着任に反発した士徽はこれを妨害したため、呂岱は士徽の罪を問うため、三千の兵を率いて交阯に急行した。ある者は士一族の実力を恐れ、軍をゆっくり進めるべきだと進言したが、呂岱は士徽達が油断している隙をつくべきとだと主張した。合甫で戴良と合流し、そのまま急いで軍を進めた。さらに呂岱は、士徽に荷担しなかった[[士匡]](士徽の従兄弟)と面識があったことから、士匡に士徽らの官職は剥奪するが、生命は保障すると伝え、その説得を命じた。士徽は恐れおののき兄弟6名とともに降伏してきた。しかし呂岱は事前の約束に反し、士徽兄弟をすべて処刑し、首を孫権の下に送った。その後、士氏の残党の[[甘醴]]や[[桓治]]らの抵抗を退け、交州を平定した。番禺侯に封じられた。広州は廃止され、再び交州となった。 その後も呂岱は南方の九真を討伐し、数万人を討ち取ったり捕虜にしたりした。さらに南方の国々に役人を送り、呉の宣伝を行った。これにより、遠くの[[扶南]]・[[林邑]]・[[堂明]]の王達も使者を送り貢ぎ物を献上してきた。これらの功績により呂岱は鎮南将軍に任じられた。 [[231年]]、交州から長沙に任地を移された。武陵の異民族が不穏な動きをするようになったので、太常の[[潘濬]]達とともに武陵の異民族を討伐し、平定した。 [[234年]]、[[潘璋]]が死去すると、呂岱がその兵士を引き継ぎ、陸口の守備にあたることになった。呂岱は駐屯地を蒲圻に移転させている。 [[235年]]、廬陵や会稽、南海で反乱が勃発すると、孫権は呂岱にその鎮圧を命令し、呂岱はただちに軍を向け、首領達を斬るか投降させるかして、反乱を鎮めた。孫権は呂岱を褒め、自由な裁量で行賞を行っても良いと許可を与えた。 [[239年]]、潘濬が死去すると、呂岱が荊州の公文書の決裁の職に就き、[[陸遜]]とともに武昌の守備にあたることになった。蒲圻の駐屯軍の指揮は引き続き任された。 零陵、蒼梧、鬱林で状勢が不穏になると、呂岱は上奏すると同時に軍勢を率い鎮圧に向かった。孫権は交州牧の職を追って与え、後から将軍や兵士を呂岱の下へ次々に派遣させた。一年で反乱を沈め、反乱者達を斬り、武昌に帰還した。 [[245年]]、陸遜が死に、[[諸葛恪]]が陸遜の職務を引き継ぐことになったが、孫権は武昌の軍権を二つに分割し、呂岱を右部の総監とし、武昌から蒲圻までの指揮を委ねた。呂岱は上[[大将軍]]となり、子の呂凱も副軍校尉となり蒲圻に兵士の監督に従事した。 [[251年]]、孫権が危篤となると、諸葛恪達とともに後事を託された。呂岱はこの頃には「呂侯」といわれて呉の元老であった。 同役の諸葛恪を戒めて、「今まさに多難の時代だ。どんなことでも10回考えてやりなさい。」と教えたが、剛腹な諸葛恪は「論語でも2度考えれば十分だと言っているのに、10回なんて、私をバカにしているんですか!」と言い返した。 さすがの呂岱もこの発言には驚き沈黙した。世間の人々ははじめは諸葛恪の当意即妙を褒め称え、呂岱の失言をけなしたが、やがて諸葛恪が任務に失敗して暗殺されると、暗殺の予兆だったと思ったという。(司馬光『資治通鑑』魏紀嘉平3年条) [[孫亮]]が皇帝となると呂岱は[[大司馬]]に任命された。[[256年]]に死去。96歳という長寿であった。葬式は質素にとりおこなうよう遺言した。 == 人物 == 呂岱は80歳になっても、質素な生活で仕事をし、職務に励んだので、奮威将軍の[[張承 (孫呉)|張承]]は手紙を送り呂岱を褒め称えた。 しかし、あくまで質素であることに努め、仕事にも熱心であったため、交州に赴任していたときは、家族に何年も仕送りもせず、家族達は困窮した。 そのことに気づいた孫権は、呂岱ではなく臣下達を責め、銭や米や反物を年毎に呂岱の家族の元に送らせたという。 友人である[[徐原]]は意見をづけづけ言う性格であったが、呂岱はそれを喜び、彼の栄達のための便宜をいろいろと働き、彼が死ぬと痛惜したという。二人の友情は美談として世間の評判となった。 小説『[[三国志演義]]』では孫権から後事を託される場面に名前が見えるのみである。 {{people-stub}} {{Chinese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:りよ たい}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:漢代の人物]] [[Category:呉の人物]] [[Category:161年生]] [[Category:256年没]]
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