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台与
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{{基礎情報 君主 | 人名 = 臺與 | 各国語表記 = | 君主号 = 邪馬台国王 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 在位 = | 戴冠日 = | 別号 = | 全名 = | 出生日 = [[235年]] | 生地 = | 死亡日 = 不明 | 没地 = | 埋葬日 = | 埋葬地 = | 継承者 = | 継承形式 = | 配偶者1 = | 配偶者2 = | 配偶者3 = | 配偶者4 = | 配偶者5 = | 配偶者6 = | 配偶者7 = | 配偶者8 = | 配偶者9 = | 配偶者10 = | 子女 = | 王家 = | 王朝 = | 王室歌 = | 父親 = | 母親 = | 宗教 = | サイン = }} '''臺與'''(生没年不詳)は、日本の[[弥生時代]][[3世紀]]に『[[三国志 (歴史書)]]』、[[魏志倭人伝]]中の[[邪馬台国]]の女王[[卑弥呼]]の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性・壹與のことである。魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『[[梁書]]』『北史』では「臺與」と記述されている。 「台与」は「臺與」の代用。臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。 == 表記・読み == === 壹與 === 『三国志』魏書東夷傳の倭人之条、(通称[[魏志倭人伝]]、[[陳寿]]編纂、3世紀・晋代)では2[[写本]]系統とも「壹與」と記載されている。発音は「い(ゐ)よ」か?。代用表記は「壱与」。 === 臺與 === 『[[梁書]]』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、[[636年]]・唐代)、『北史』東夷伝(李延寿編纂・唐代)などに記述<ref>[http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/ryo-syoi.html#wakok 梁書諸夷伝] </ref>。代用表記は「台与」。 ==== 発音に関する議論 ==== 「臺與」を「とよ」と読むのが[[通説]]となっているが、これには議論がある。 *「臺」の文字は中国の時代ごとにより、また地方ごとにより異なる。昔はdəと表現していた時もあった。「ト」「ド」の音韻の音節があるとすればこれに該当する。但し一般には「ダ」が主流であり、隋の時代に「ダイ」に変化し、それがそのまま今の日本の発音になり、中国ではその後に「タイ」と変化していった。 *「台」であれば、「と」と読めるということに異論は無いようである。しかし、「臺」と「台」は異なる文字である<ref>「壹」と「壱」の場合は単に新旧の字体の違いで済むのだが、「臺」と「台」は元々別々の文字で後から「台」が「臺」の代替字となったに過ぎない。</ref><ref>[[国語国字問題|漢字制限]]([[当用漢字]]、[[常用漢字]]、[[教育漢字]])のため教科書等では使用せざるをえない。</ref>。 *「臺」を「と」と読む根拠は、例えば[[藤堂明保]]『国語音韻論』<ref>江南書院 [[1957年]]</ref>に、「魏志倭人伝で、『ヤマト』を『邪馬臺』と書いてあるのは有名な事実である」と記載されていることに求められているが、これはすなわち「邪馬臺=ヤマト」という当時の通説に基づいた記述に過ぎないとする指摘がある<ref>『邪馬一国への道標』[[古田武彦]]、[[講談社]] 1978年</ref>。もしこの意見が妥当なら、漢和辞典の記載を根拠に「『邪馬臺』はヤマトと読める、『臺與』はトヨと読める」と言ったところで、大元にある通説の同義反復に過ぎないことになるが、「臺」の発音に関する中国語音韻論による議論はこの意見とは無関係である<ref>藤堂明保編『漢和大字典』によると、「臺與」の[[上古音]]はdəg-ɦiag、[[中古音]]はdəi-yio、「邪馬臺」の上古音はŋiǎg-mǎg-dəg、中古音はyiǎ-mǎ-dəiとなる。</ref>。また、そもそも「魏志倭人伝」には「邪馬臺」とは書かれておらず、「邪馬壹」(=邪馬壱)と書かれており、前提からして誤っている。 * 邪馬臺(邪馬台)の発音をヤマドとする説がある<ref>長田夏樹「邪馬台国の言語」等</ref>。 魏志の編纂が後者二書に比べ大きく先行している。三書はいずれも『[[魏略]]』<ref>魏代に編纂</ref>を元にしていると考えられる。『魏略』には他の書に引用された逸文<ref>通称、逸文魏略</ref>が残っているが、そこには該当部分は存在しないため正確にはどう書いてあったのか不明である。 == 事跡 == 魏志倭人伝によると、 {{Quotation| 女王[[卑弥呼]]が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國<ref>「魏志倭人伝」の版本での表記。[[邪馬台国]]参照。</ref>の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。[[正始 (魏)|正始]]8年([[248年]])に邪馬壹國と[[狗奴国]]間の紛争の報告を受け、同年[[倭]]に派遣された[[帯方郡]]<ref>[[朝鮮半島]]にあった魏の領土</ref>の塞曹掾史[[張政]]は、檄文をもって壹與を諭した。ただし張政の派遣は、正始4年の朝貢の返しとして6年に出された詔によるものである。 }} とされる。このことから、卑弥呼の死と壹與の王位継承とは、張政が倭に渡った248年からそれ程年月が経っていないと思われる。その後、 {{Quotation| 壹與は[[掖邪狗]]ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。 }} とされる。 『[[日本書紀]]』の神功紀に引用される『[[晋書]]』起居註に[[泰始 (晋)|秦始]]2年([[266年]])に、倭の女王の使者が[[朝貢]]したとの記述がある。[[卑弥呼#神功皇后説]]にもあるように、江戸時代にはこの女王は[[卑弥呼]]と考えられていたが、[[卑弥呼]]は[[250年]]までに死去してしまっていることから、近年ではこの[[倭国]]女王は'''台与'''のことであると考えられている。 なお、この年は、中国では曹操に始まる[[魏 (三国)|魏]]の曹一族から、司馬氏が建てた[[晋 (王朝)|晋]]に禅譲革命が行われた翌年であった。 この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の[[義熙]]9年([[413年]])の倭王讃の朝貢([[倭の五王]])である。 台与と後の[[ヤマト王権]]との関係は諸説あってはっきりしない。人物の比定については諸説ある([[#人物の比定についての議論]]を参照)。 == 人物比定 == 台与を誰に比定するかという議論は、[[卑弥呼]]が誰であるかという議論、邪馬台国がどこにありどんな国家に受け継がれていったかと言う議論と、切り離すことができない。 === 豊鍬入姫命説 === [[崇神天皇]]の皇女である[[豊鍬入姫命]]に比定する説。天皇の命で天照大神を祭った初代[[斎宮]]が臺與に当たるという説であり、この説の場合は[[卑弥呼]]を[[倭迹迹日百襲媛命|ヤマトトトヒモモソヒメノミコト]]と比定することが前提<ref>[[小路信次]]『卑弥呼 千七百年の謎を解く―日本書紀には年代改変前の原形が残されている』近代文芸社 2005年</ref>だが、[[卑弥呼]]を[[倭迹迹日百襲媛命|ヤマトトトヒモモソヒメノミコト]]に比定する説は[[箸墓古墳]]の研究などから勢いを増している。 === 豊姫説 === 神功皇后の妹の豊姫。 戦前は多数の文献に姿を現していた有名人で人気者だった。肥前国風土記の神名帳頭注より「人皇卅代欽明天皇の廾五年(564年)甲申、肥前國佐嘉郡、與止姫神鎭座。一名豐姫。」とある。故に神功皇后の宋女にも当てはまる。なお神功皇后は30代の時に夫である仲哀天皇を失ってずっと未亡人であり夫がいない状態でこれも魏志倭人伝と記紀の記述と合致する。弟も息長日子王で特定されていた。但し卑弥呼は神功皇后ではなく、残りのこの残された二人のお后のどちらかであるという説がある。江戸時代から明治の時代そして第二次世界大戦前までは神功皇后は実在の人物として教科書などに記載されていた。しかし敗戦後にGHQの指導の下で神功皇后が教科書からその名を一斉に削除された。今では教科書に載る事はなく知名度もほとんどない神功皇后と共に架空説が唱えられている。 === 2人のアマテラス説 === 一説には、「[[日本神話]]の[[岩戸隠れ|天の岩戸伝説]]の前後の[[アマテラス|天照大神]]は別の人物であり、それぞれ卑弥呼と台与である」として「アマテラスを誰に比定するか」という議論とともに考えようとするものがある<ref>[[井沢元彦]]『[[逆説の日本史]]』小学館 1993年</ref>{{信頼性要検証|date=2012年11月}}。卑弥呼没年前後の[[皆既日食]]<ref>毎日新聞(関西)朝刊 1995年7月25日、8月5日</ref>によって岩戸隠れの故事を説明しようとする説である。 === 万幡豊秋津師比売説 === 卑弥呼を[[アマテラス]]に比定する場合の説。[[栲幡千千姫命|万幡豊秋津師比売]](ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)は高御産巣日神([[タカミムスビ]])の娘。アマテラスの息子[[アメノオシホミミ]]と結婚し、[[アメノホアカリ]]と[[ニニギ]]の母となった。アマテラスの極めて近い親族で名前の中に「トヨ」の文字がある彼女を臺與に比定する説で、[[安本美典]]が『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書)で述べている。彼女はアマテラスが主祭神である伊勢神宮の内宮の相殿神の一人であり<ref>[[伊勢神宮#祭神]]参照</ref>、安本はそれをこの説の根拠のひとつとしている。 === 天豊姫命説 === 尾張氏、海部氏の祖彦火明、七世孫建諸隅命の子、天豊姫を臺與とする説。この人の二世代前に卑弥呼と思われる、日女命がある。<ref>[http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/4-2-toyo.html 『勘注系図』に見る、台与の系譜]</ref> == 台与(壱与)が登場する作品 == === 小説 === * [[定金伸治]]『[[kishin -姫神-]]』(集英社/[[集英社スーパーダッシュ文庫]]、[[2001年]]) === 漫画 === * [[寺島優]](原作)、[[藤原カムイ]](作画)『[[雷火]]』(初出は[[スコラ]]・現出版元は[[角川書店]]/Kamui Collection、[[2000年]] - [[2001年]]・連載は『[[コミックバーズ|コミックバーガー]]』[[1987年]] - [[1997年]]) * [[矢吹健太朗]]『[[邪馬台幻想記]]』([[集英社]]/[[ジャンプ・コミックス]]、[[1999年]]・連載は『[[週刊少年ジャンプ]]』1999年12号 - 同年29号) * [[山岸凉子]]『[[青青の時代]]』([[潮出版社]]/[[希望コミックス]]、1999年 - 2000年・連載は『[[コミックトム|comicトムプラス]]』[[1998年]]5月号 - 2000年2月号) == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[卑弥呼]] * [[邪馬台国]] == 外部リンク == *{{Yahoo!百科事典|壹与|author=[[関和彦]]}} *{{Kotobank|壱与|2=デジタル版 日本人名大辞典+Plus}} *{{Kotobank|台与|2=朝日日本歴史人物事典}} {{DEFAULTSORT:とよ}} [[Category:弥生時代の人物]] [[Category:古墳時代以前の女性]] [[Category:倭人伝]] [[Category:邪馬台国]] [[Category:日本の君主]] [[Category:女性君主]] [[Category:235年生]]<!--247年即位説。248年即位だと236年生-->
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