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'''厳 顔'''(げん がん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将。[[益州]]巴郡臨江県の人。<ref>《[[華陽国志]]》</ref> ==経歴== [[劉焉]]、次いで[[劉璋]]に仕え、巴郡の[[太守]]を務めていた。[[211年]]、[[劉備]]が劉璋の招きで入蜀すると、「一人で奥山に座し、猛[[トラ|虎]]を放って我が身を守るようなものだ」と嘆息したという。 翌年、劉備が益州を奪い取ろうと攻めて来た時に巴郡を守っていたが、劉備軍の[[張飛]]の攻撃に遭って捕らえられた。しかし、捕虜になったのだから自分に跪けと言う張飛に対し「あなた方は無礼にも、我が州を侵略した。我が州に首を刎ねられる将軍はいても、降伏する将軍はいない。早く首を斬れ」と、堂々と言い放った。これに張飛は感嘆し、厳顔の縄を自ら解き、厚く持て成したといわれている。このため厳顔も降伏し、以後は劉備の家臣となった。 ==『三国志演義』など== 小説『[[三国志演義]]』では、厳顔は老将と設定されている。張飛に降伏した後、自ら他の守将に降伏勧告を行なっている。その後は[[黄忠]]と共に老将コンビを結成して大いに活躍しているが、[[三国志 (歴史書)|正史]]における厳顔の記述は少なく、老将であったとは書かれていない。ただ、戦いに敗れて捕らえられた時、張飛に言い放った言葉だけは正史にも明確に記述されている。この言葉が厳顔の存在を際立たせているとも言える。 [[南宋]]末期の宰相[[文天祥]]が作った[[漢詩|詩]]「[[s:正気の歌|正気の歌]]」にも、[[蘇武]]・[[張巡]]ら歴代の忠臣義士と並んで厳顔が登場する。生没年も不明で、最終的には帰順した人物が[[張良]]・[[諸葛亮]]・蘇武といった顔触れとともに登場するのも、ひとえに張飛に言い放った言葉の強い印象故と言えよう。 [[重慶市]][[忠県]]で三国時代の墓が発見された際、地元の言い伝えを根拠に厳顔の墓であると主張された事があった。<ref>[http://hi.baidu.com/%C8%FD%B9%FA%D6%BE%CE%C4%BB%AF/blog/item/1387a538f79285c6d4622514.html]</ref> ==注釈== <references/> [[Category:三国志の登場人物|けん かん]]
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