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南朝 (日本)
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'''南朝'''(なんちょう)は、'''吉野朝廷'''(よしのちょうてい)とも称され、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に京都以南の[[大和国]]の[[吉野]]([[奈良県]][[吉野郡]]吉野町)、[[賀名生]](同県[[五條市]]西吉野町)、[[摂津国]]の[[住吉行宮|住吉]]([[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]])を本拠とした[[大覚寺統]]の後醍醐天皇に属する[[朝廷]]。[[1336年]]から[[1392年]]まで56年あまり存続し、[[叙位]]や[[元号]]の制定など政権としての機能を有した。 == 概要 == 京都の南にある吉野に拠点を設けたことから京都にあった北朝に対して南朝と呼ばれているがこれは後世に成立した呼び名ではなく、当時の日記などの記録においても「南朝」「南方」などの名称で呼ばれていた。また、吉野が古来より「南山」とも称された[[金峯山]]の山中にあったことから、「南山(=吉野)の朝廷」という意味もある。そのため、京都にある北朝の存在を認めない南朝の人々の間においても後者の意味により、「南朝」「南方」などの呼称が用いられた<ref>[[師成親王|恵梵]]書写『[[新葉和歌集]]』奥書、「南部文書」所収[[北畠顕信]]書状など。</ref>。なお、後醍醐天皇の在世中の[[行宮]]は[[吉野行宮]]にあったものの、以後は南朝の興隆・衰退に従って大和・[[河内国|河内]]・摂津・[[山城国|山城]]などの諸国に行宮を移転させており、南朝の歴史全体からみた場合、吉野に行宮があった期間は長くはなかった<ref>村田正志「吉野」『日本地名大辞典』第6巻(日本書房、1938年)、後 『村田正志著作集 第2巻続南北朝史論』(思文閣出版、1983年)に所収。</ref>。 == 建武政権の瓦解と北朝の成立 == 鎌倉時代に皇統は後深草系統の[[持明院統]]と亀山系統の[[大覚寺統]]のふたつに分裂する[[両統迭立]]が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。文保2年(1318年)に[[践祚]]して親政を開始した大覚寺統の[[後醍醐天皇]]は倒幕計画を企て、1331年に[[三種の神器]]を持って[[笠置山 (京都府)|笠置山]]へ入り挙兵すると、幕府の奏請により持明院統の[[光厳天皇]]が[[践祚]]する。 1333年、反幕勢力の結集により[[鎌倉幕府]]が滅亡すると後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇と正慶年号を廃して[[建武の新政]]を開始する。[[1335年]]([[建武 (日本)|建武]]2年)、7月に関東で[[中先代の乱]]が起こると後醍醐天皇は討伐に向かった[[足利尊氏]]を黙認するが、乱を平定した尊氏は[[鎌倉]]に留まり建武政権から離反する。宮方は[[京都]]に進撃してきた尊氏を撃破する。翌1336年、[[九州]]落ちしていた尊氏は[[持明院統]]の[[光厳天皇|光厳上皇]]から[[院宣]]を受けて再び東上する。宮方では[[新田義貞]]、[[楠木正成]]らを迎撃に派遣するが、5月尊氏は[[湊川の戦い]]において新田ら宮方を撃破して入京する。後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗するが、8月には光明天皇が践祚して北朝が成立し、11月に帰京した後醍醐天皇から[[三種の神器]]を接収した尊氏は京都に[[武家政権]](のちの[[室町幕府]])を成立させる。 == 南朝の成立と南北朝併立 == 後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れて朝廷を開き、光明天皇に渡した神器は偽物であると主張し、南北朝が成立する。以後、吉野の朝廷は南朝、京都の朝廷は[[北朝 (日本)|北朝]]と呼ばれる。後醍醐天皇は、[[新田義貞]]に[[恒良親王]]、[[尊良親王]]を奉じさせて北陸へ、[[懐良親王]]を九州へ派遣し、[[北畠親房]]は[[常陸国]]へ赴いて、それぞれ諸国で南朝勢力の結集を図る。新田義貞、[[北畠顕家]]らはそれぞれ撃破されて戦死し、[[1339年]]([[延元]]4年/[[暦応]]2年)には後醍醐天皇が崩御して[[後村上天皇]]が即位する。一方、尊氏は[[1338年]](延元3年/暦応元年)に北朝から[[征夷大将軍]]に任じられる。後醍醐天皇の崩御後は[[北畠親房]]などが南朝を指揮するが、[[1348年]]([[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]2年)には[[楠木正行]]らが[[四條畷の戦い]]において足利方の[[高師直]]に敗北し、さらに吉野も奪われた南朝は賀名生へ移る。 == 足利政権の分裂と正平一統 == 足利政権では将軍尊氏や足利家執事の[[高師直]]と実質的政務を任された尊氏実弟の[[足利直義]]が対立し、やがて全国的な争乱に発展する[[観応の擾乱]]が起こり、これを契機に南朝は再び勢力を回復する。1350年12月、師直の[[クーデター]]で失脚した直義は京都を脱出し、師直打倒の兵を募る。北朝は直義討伐の[[院宣]]を下し、南朝は直義の帰服に応じる。直義は師直を追い、さらに摂津で尊氏を撃破して和睦する。[[1351年]](正平6年/[[観応]]2年)、巻き返しを図る尊氏が南朝に講和条件を出して和睦し、[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]が成立して年号の統一が行われる。尊氏は鎌倉で直義を追い謀殺するが、南朝はこの機会に京と鎌倉を同時奪還する軍事的進攻を行い、北朝神器の接収、北朝の光厳・光明・[[崇光天皇|崇光]]三上皇と皇太子[[直仁親王]]の拉致を行い一統は破談となる。京と鎌倉は足利方に奪還され、北朝は神器と治天が不在であったが後光厳の践祚により再建される。 == 後村上天皇時代と南朝衰退 == この頃、九州において[[少弐氏]]に擁立されていた[[足利直冬]]は九州から駆逐され、同年11月に南朝に属して尊氏に抵抗する。[[1353年]](正平8年/[[文和]]2年)には[[楠木正儀]]、[[山名時氏]]らが二度目の京都奪還を果たすも短期間で駆逐される。翌1354年、4月には主導的人物であった[[北畠親房]]が死去、10月に[[後村上天皇]]は賀名生から河内[[金剛寺 (河内長野市)|金剛寺]]へ移る。[[1355年]](正平10年/文和4年)にも直冬を奉じた[[山名時氏]]らが京都侵攻を行うが、維持出来ずに撤退している。 [[1358年]](正平13年/[[延文]]3年)に北朝では足利尊氏が死去し、2代将軍となった[[足利義詮]]は本格的な南朝掃討をはじめる。[[1361年]](正平16年/[[康安]]元年)には足利政権において政争から失脚した執事の[[細川清氏]]が南朝に属し、楠木正儀らと4度目の京都侵攻を行い、一時的に占領する。その後、後村上天皇が[[摂津国]]の[[住吉大社]]宮司の[[津守氏]]の正印殿を約10年間、行宮([[住吉行宮]])とし、[[住吉大神]]を奉じる瀬戸内海の水軍を傘下にして、四国、九州との連絡網を確立し、南朝は各地で活動するが、1363年には[[山名氏]]や[[大内氏]]の北朝への帰順、楠木正儀の投降などで衰退し、拉致した三上皇を返還するなど講和的態度も示している。 == 長慶天皇と南朝の後退 == [[1368年]](正平23年/[[応安]]元年)には後村上天皇が住吉行宮で崩御し、同地にて[[長慶天皇]]が即位する。足利政権では有力守護の[[佐々木道誉]]、3代将軍の[[足利義満]]のもとで[[管領]]を務めた[[細川頼之]]などが南朝の楠木正儀と独自に交渉を行っていたが、長慶天皇は北朝に対して強硬的な人物であったと考えられており、和睦交渉は一時途絶し、翌[[1369年]](正平23年/応安2年)に正儀は北朝へ投降する。南朝の征西府[[懐良親王]]も[[菊池氏]]や[[阿蘇氏]]、[[筑後宇都宮氏|宇都宮氏]]の武力を背景に大宰府を有して九州を制圧していたが、[[九州探題]]として赴任した[[今川貞世]](了俊)に駆逐される。その後交渉が再開され、南朝の使者が京都へ赴いている。[[1383年]]([[弘和]]3年/[[永徳]]3年)に長慶天皇は弟の[[後亀山天皇]]に譲位する。なお、長慶天皇は即位していないという説もある。 == 後亀山天皇と南北朝合一 == [[1391年]]([[元中]]8年/[[明徳]]2年)の[[明徳の乱]]で有力守護の山名氏を弱体化させ、武家勢力を統率した義満は、[[和泉国|和泉]]・[[紀伊国|紀伊]]の[[守護]]で南朝と領地を接する[[大内義弘]]の仲介で本格的交渉を開始する。南朝から北朝への神器の引渡し、[[国衙領]]を大覚寺統、[[長講堂領]]を持明院統の領地とする事、皇位は[[両統迭立]]とする事など3か条を条件に和睦が成立し、[[1392年]](元中9年/明徳3年)に後亀山天皇は京都へ赴いて[[後小松天皇]]に神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した([[明徳の和約]])。南朝に属していた[[公家]]は一部は北朝で任官したが、官職は既に北朝の公家で占められており、多くは公家社会への復帰が適わなかったと考えられている。 == 後南朝 == 後の[[1412年]]([[応永]]19年)には後小松皇子の[[称光天皇]]が即位しており、両統迭立の条件は反故にされている。これに反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を[[15世紀]]半ばまで続けた。これを[[後南朝]]という。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[消滅した政権一覧]] * [[大覚寺統]]-[[後南朝]] * [[北朝 (日本)]] * [[多々良浜の戦い]]-[[筑後川の戦い]] * [[住吉大社]] * [[楠木氏]]-[[菊池氏]]-[[阿蘇氏]]-[[筑後宇都宮氏|宇都宮氏]]-[[伊達氏]]-[[南部氏]] * [[朝用分]] * [[南北朝正閏論]] {{DEFAULTSORT:なんちよう}} [[Category:南北朝時代 (日本)|*]] [[Category:室町時代]] [[Category:大和国]] [[Category:摂津国]] [[Category:奈良県の歴史]] [[Category:吉野町の歴史]]
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