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{{基礎情報 過去の国 |略名 = 南宋 |日本語国名 = 南宋 |公式国名 = 宋 |建国時期 = [[1127年]] |亡国時期 = [[1279年]] |位置画像 = 宋・金時代.PNG |位置画像説明 = 南宋・金 |先代1 = 北宋 |先旗1 = |先代2 = 楚 (金国の傀儡) |先旗2 = |次代1 = 元 (王朝) |次旗1 = |首都 = 臨安 (現[[杭州市]])<small><br/>([[1127年]] – [[1276年]])</small> }} '''南宋'''(なんそう、[[1127年]] - [[1279年]])は、[[中国]]の[[王朝]]の一つ。[[趙匡胤]]が建国した[[北宋]]が、[[女真|女真族]]の[[金 (王朝)|金]]に[[華北]]を奪われた後、南遷して[[淮河]]以南の地に再興した政権。首都は臨安(現[[杭州市|杭州]])であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは[[北宋]]・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を[[宋 (王朝)]] で解説することとする。 <small>この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。</small> == 歴史 == {{中国の歴史}} === 南遷 === [[靖康]]元年([[1126年]])、北宋最後の皇帝[[欽宗]]が[[金朝|金]]によって[[開封]]から北に連れ去られ([[靖康の変]])、北宋が滅亡した後、欽宗の弟趙構([[高宗 (宋)|高宗]])は南に移って、翌年の[[建炎]]元年([[1127年]])に[[南京 (曖昧さ回避)|南京]](現在の[[商丘市]])で即位し、宋を再興した。はじめ[[岳飛]]・[[韓世忠]]・[[張俊 (武将)|張俊]]らの活躍によって金に強固に抵抗するが、[[秦檜]]が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。 和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。[[紹興 (宋)|紹興]]10年([[1140年]])には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年([[1142年]])、宋と金の間で和議([[紹興の和議]])が成立し、[[淮河]]から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。 === 孝宗の治世 === 秦檜の死後に金の第4代皇帝[[海陵王]]が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、{{仮リンク|采石磯の戦い|en|Battle of Caishi}}(紹興31年、[[1161年]])で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、[[世宗 (金)|世宗]])が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して[[太上皇]]となり、養子の趙慎([[孝宗 (宋)|孝宗]])が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ([[隆興の和議]]、または[[乾道の和議]]とも言う)。 金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。 孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子([[紙幣]])の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。 === 韓{{lang|zh|侂}}冑時代 === 孝宗は[[淳熙]]16年([[1189年]])に退位して上皇となり、[[光宗 (宋)|光宗]]が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、皇后李氏の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相[[趙汝愚]]・[[韓タク冑|韓{{lang|zh|侂}}冑]]などにより光宗は退位させられた。韓{{lang|zh|侂}}冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓{{lang|zh|侂}}冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓{{lang|zh|侂}}冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓{{lang|zh|侂}}冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、[[慶元]]元年([[1195年]])、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年には趙汝愚に与した周必大、留正、王藺、[[朱熹]]、彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。その翌年には朱熹の[[朱子学]](当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を[[慶元の党禁]]という。 韓{{lang|zh|侂}}冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた皇后と皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方の[[タタール]]などの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓{{lang|zh|侂}}冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、[[開禧]]2年([[1206年]])に[[北伐]]の軍を起こす([[開禧の北伐]])。 しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧3年([[1207年]])、金は早期和平を望んで韓{{lang|zh|侂}}冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎(文部大臣)の[[史弥遠]]により韓{{lang|zh|侂}}冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の[[嘉定 (南宋)|嘉定]]元年(1208年)に再び和議がもたれた([[嘉定の和議]])。 === モンゴルの脅威 === 韓{{lang|zh|侂}}胄を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北の[[モンゴル高原]]には[[モンゴル帝国]]が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した[[紹定]]6年([[1233年]])にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝[[哀宗 (金)|哀宗]]を宋軍と協力して追い詰めて、翌年に金は滅びた。 その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して[[洛陽]]・[[開封]]を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は[[1235年]]に南進を開始する。だが、名将として知られた[[孟キョウ|孟珙]]の前に苦戦することになり、[[1239年]]に[[襄州区|襄陽]]を南宋に奪還されると、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。 やがて、[[開慶]]元年([[1259年]])に{{仮リンク|釣魚城の戦い|zh|釣魚城之戰}}が行なわれ、[[モンケ]]親征軍が出陣した。 === 滅亡へ === {{main|モンゴル・南宋戦争}} しかしモンケはこの遠征途中で病死する。この時に[[クビライ]]が攻めていた[[鄂州]]([[武昌]])に援軍にやってきた[[賈似道]]はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとの間に密約があったと後にささやかれることになる)。 モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。 しかしモンゴル平原で[[アリクブケ]]を倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした[[襄州区|襄陽]]を、[[1268年]]から[[1273年]]までの5年間にわたる包囲戦([[襄陽・樊城の戦い]])で陥落させると、南宋には最早抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。 [[徳祐]]2年([[1276年]])、モンゴルの[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]に臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、[[張世傑]]・[[陸秀夫]]ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。[[祥興]]2年([[1279年]])に彼らは[[広州湾]]の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた([[崖山の戦い]])。忠臣の鑑と称えられる[[文天祥]]も2年以上各地で抵抗戦を続けたが、[[景炎]]3年([[1278年]])に[[元 (王朝)|元]]に捕えられ、獄中で『[[s:正気の歌|正気の歌]]』を詠み、元の[[至元 (元世祖)|至元]]19年([[1282年]])に刑死した。 南宋の滅亡時に国に殉じた忠臣は他の王朝に比べてはるかに多かったが、元の統治下で宋の遺民として生き続けた[[士大夫]]もおり、『[[文章軌範]]』を編纂した[[謝枋得]]、『[[十八史略]]』を著した[[曾先之]]、『資治通鑑音注』(『[[資治通鑑]]』の注釈書)を著した[[胡三省]]など、文学・史学で名を残した宋の遺民も多い。 == 政治 == 中央官制のみの記事になっているが、これ以外では北宋とさほど大きな違いは無い。であるのでそのほかのことについては[[北宋#政治]]を参照のこと。 === 官制 === 南宋の官制は北宋の元豊体制([[元豊の改革]]を参照)を基本的に引き継いでいる。 元豊体制での宰相は尚書左僕射兼門下侍郎・尚書右僕射兼中書侍郎の2人で、徽宗代にこの2つを大宰・小宰と改名されたが、南宋になってから一時[[同中書門下平章事]]・[[参知政事]]が復活されたりし、最終的に孝宗の[[隆興]]元年([[1163年]])に左僕射を左丞相・右僕射を右丞相として2人の宰相とし、副宰相として参知政事を付けた。 南宋の官制というよりは、南宋の政治史の特徴として「独裁宰相」の時代が非常に長かったことが挙げられる。南宋初の[[秦檜]]・孝宗時代を挟んで[[韓タク冑|韓{{lang|zh|侂}}冑]]・韓{{lang|zh|侂}}冑を殺した[[史弥遠]]・そして南宋末の[[賈似道]]である。この4人が政権を握っていた時代は南宋150年のうち70年近くにわたる。もっとも、南宋は北宋時代に引き続いて出身地や思想・学問上の対立などが絡んだ党派対立が激しく、こうした「独裁宰相」に対する悪評も反対派およびこれをもてはやす当時の民衆の感情に由来するところが大きく、また諌官・御史台系の言論を職務とする官僚の進言によって皇帝がしばしば人事や政策をひっくり返してきた宋代において、政敵の徹底的排除なくして政権を保つことができなかった実情も無視することはできない。南宋時代に長期政権を維持した他の宰相([[王淮]]・[[史嵩之]]・[[丁大全]]など)にも類似の傾向をみることができる<ref>衣川強「秦檜の講和政策と南宋初期の官界」『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)所収、同書「結び」も参照</ref>。 これ以外の点では元豊体制とほぼ変わらず、2人の丞相の下に来るのが実務機関たる六部([[戸部 (六部)|戸部]]・[[吏部]]・[[刑部]]・[[兵部]]・[[礼部]]・[[工部 (六部)|工部]])である。ただ唐代には人事権が吏部の元に集約されていたが、宋では高級文武官の人事は中書と[[枢密院 (中国)|枢密院]]、特に中書の手に握られていたことが大きな違いである。 更に言えば戸部・吏部・刑部の三者に比して兵部・礼部・工部の三者の重要性が著しく劣るということは特筆すべきことと思われる。兵部は枢密院が存続しているために実質的に取り扱うことは少なく、礼部・工部は元より重要性が低い。そのため例えば礼部尚書として他の戸部尚書などと同格として扱われているものの実質的にはその権能は限られたものであり、いわゆる「伴食大臣」となっていたのである。 一見すると「伴食大臣」を朝廷に置いておくことは無意味に思える。しかしこれら「伴食大臣」に実務能力は低いものの硬骨な人物を置いておき、いわばこれを「御意見番」として取り扱うことが朝廷のバランスを取る上で一定の意味があったと考えられるのである<ref name>この節は特に注記が無い限りは宮崎1963・『中国歴代職官事典』を参照。</ref>。 == 経済 == [[宋 (王朝)#経済・財政]]を参照。 == 社会 == [[宋 (王朝)#社会]]を参照。 == 文化 == [[宋 (王朝)#文化]]を参照。 == 国際関係 == === 概説 === 南宋の外交相手として最も重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した[[金 (王朝)|金]]、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした[[元 (王朝)|元]]([[モンゴル帝国]])である。北宋時代に関係があった[[高麗]]や[[西夏]]などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海上技術が進んだこと、[[平清盛]]の登場などにより[[日本]]との関係は盛んになる。 宋を従えた金は高麗・西夏・大理国なども従え[[東アジア]]の覇者となった。しかしその経済的地盤は弱く、宋からの歳貢が無ければその経済活動を支えきれず、その歳貢にしても宋からの輸入品に対する決済で使い果たされる状態であった。 宋と金とは約100年にわたって中国を二分していた。両国の間では金から宋に対しては馬・絹などが、宋から金に対しては銀・銅銭・陶磁器・香料・書画・書物などが交易でやり取りされた。ここで特筆すべきことがこの交易品目は北宋代に華北と江南でやり取りされていたものとほとんど同じであるということである。つまり北と南で治める国が異なるとはいえ、江南の物資が華北を支えるという中国の経済システムはほとんど変わりなく、更に発展を遂げていたのである。その後の元、更には[[明]]・[[清]]の経済システムも基本的にはこの延長線上にあるものである。 === 各国との関係 === ==== 金 ==== [[1127年]]、金軍は[[開封]]を包囲陥落させ、[[欽宗]]・[[徽宗]]以下官僚・皇族数千人を北へ連れ去り、開封には傀儡として宋の大臣[[張邦昌]]を皇帝に据え、楚と号させることにした([[靖康の変]])。 金軍が引き上げた後、張邦昌は今後の対応を[[哲宗 (宋)|哲宗]]の皇后であった孟氏の薦めにより、皇帝を退位し欽宗の弟趙構を南京応天府(現[[商丘市]])にて帝位に迎えた([[高宗 (宋)|高宗]])。[[1132年]]に高宗は金の追撃を避けて杭州へと逃げ込み、ここを仮の首都として臨安と称した。 [[1130年]]に金は[[粘没喝|宋翰]]の主導の下、宋の地方知事であった[[劉豫]]を傀儡の皇帝に据え、斉と号させた。金と斉は宋を何度も攻撃するが、宋の側もある程度の体勢を整え、軍閥勢力を中心とした軍をもって金・斉軍に対抗したため膠着状態に陥った。ここで宋翰の政敵である[[撻懶]]は方針を転換、捕らえていた[[秦檜]]を解放し、宋を滅ぼすのではなく有利な条件での和約を望むようになった。 撻懶の思惑通り秦檜は宋の朝廷で力を発揮し和平論を進め、[[1138年]]に #斉は解体し、その領土は宋のものとする。 #宋帝は金帝に対して臣礼をとる。 #宋から金に銀25万両・絹20万匹を歳貢として送る。 などの条件で和約が結ばれた。 その直後に撻懶が宋翰らにより殺され、和約は一旦破棄され、金軍は再び宋を攻撃するが、岳飛らの奮闘により戦線は一進一退の様相を呈した。秦檜は早期の再びの和約を望んで岳飛ら軍閥勢力を押さえ込み、[[1141年]]に絹5万匹の増額・「宋が金に対して臣節をとる」などの条件変更で再び和約が締結された([[紹興和約]])。 銀絹25万という額は巨額に思えるが、宋の財政規模からいえばさほど大したものではない。それよりも金に対して臣とし、歳貢を送るとなっていることが重要である。[[遼]]に対しても弱い立場であった宋であったが遼に対して兄と一応上の名分を保持しており、遼に対して送る財貨も幣(対等な相手に対する贈り物の意)とされていた。ところが金に対しては臣として仕えねばならず、送る財貨も貢(主君に対する貢物の意)とされたことは名分を強く重んじる[[宋 (王朝)#儒教|宋学]]的考えからは到底認めがたい物であり、南宋を通じて[[北伐]]論は止むことが無かった。 [[1149年]]に金の3代[[熙宗 (金)|熙宗]]を殺して新たに帝位に就いた[[海陵王]]は[[1161年]]に再び和約を破棄し、南宋へと侵攻した。しかし強引に金国内を統制していたため遠征を契機として反乱が続出し、最終的に海陵王は殺され、新たに[[世宗 (金)|世宗]]が擁立された。世宗は国内統制に忙しいため宋に対して #国境は現状維持。 #金が君・宋が臣の関係から金を叔父・宋を甥の関係にする。 #歳貢を歳幣に改め、銀絹それぞれ5万の減額。 とかなり宋に譲歩した和約を結んだ([[乾道和約]])。 宋の孝宗・金の世宗の2人の名君の下で両国の間は平和な時代を迎えたが、北方でモンゴルの動向が激しくなり、金はモンゴルの侵攻に苦しむようになる。[[寧宗 (宋)|寧宗]]朝で専権を振るった[[韓タク冑|韓{{lang|zh|侂}}冑]]は金の窮状を好機と捉え、[[1206年]]に北伐を開始する([[開禧用兵]])。しかしこの出兵は失敗に終わり、韓{{lang|zh|侂}}冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。 宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルでは[[チンギス・カン]]が登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から[[契丹]]人が離反、[[1214年]]に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化した金に対する歳幣を停止し、金は宋を攻撃するが、これを撃退した。 追い詰められた金に対してモンゴルは宋に共同戦線を持ちかけてきた。宋朝廷ではかつて金と結んで遼を滅ぼし、自らも滅ぼされた[[海上の盟]]のことを思い出せとの慎重論もあったが、主戦論が大勢を占め、金への攻撃が決定された。そして[[1234年]]、金の最後の皇帝[[哀宗 (金)|哀宗]]は自殺し、金は完全に滅亡した。 === モンゴル・元 === 金が滅ぼされるとその領土は蔡州(現[[河南省]][[汝南県]])と陳州(現河南省[[淮陽県]])とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした。 背信に怒ったモンゴル皇帝[[オゴデイ]]は宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。更に[[1241年]]にオゴデイが崩御し、その後継を巡って[[グユク]]と[[モンケ]]の間で争いが起こり、最終的に[[1251年]]にモンケが反対派を粛清して国内を治めた。 国内を安定させたモンケは弟[[クビライ]]に対して[[大理国]]の征伐を命じ、クビライはこれに応えて[[1253年]]に征服を完了。モンケ自身も[[1258年]]に親征し、クビライ・[[ウリヤンカタイ]]を別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。 しかしその翌年にモンケが崩御。後継を巡ってクビライと末弟の[[アリクブケ]]の間で争いとなり、[[1264年]]にアリクブケが降伏してクビライが勝利。その後しばらくはクビライは国内統制に力を取られるが、[[1267年]]になって宋に対する再侵攻を開始。宋も抵抗を続けるが、[[1276年]]に臨安を占領され、更に[[1279年]]に最後の皇帝[[祥興帝|衛王]]も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。南宋の皇族は大都に送られ、丁重に扱われたが、一部の遺臣は数年間反抗を続けた。 === 日本 === ''[[日宋貿易]]も参照'' 長い間、宋が能動的・日本が受動的で進められていた日宋貿易であったが、日本国内の経済的発展により、貴族たちの物質的豊かさに対する欲求は増加し、朝廷・大宰府による貿易統制はなし崩しに崩れていった。その流れは[[平氏政権]]の成立と共に更に加速し、[[平清盛]]は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時[[福原京]]に遷都した。 一方、宋側の態度は北宋時代と同じく民間交易は認め、それに課税して収入とするというものである。 交易される物品は宋から日本へは絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅銭など、日本から宋へは金・銀・真珠・硫黄・工芸品などである。 航海技術に不安のあった日本商船は最初は[[高麗]]へ訪れ、経験を積んだ後に南宋へと訪れていった。日本船が宋の記録に初めて現れるのが[[紹興 (宋)|紹興]]15年([[久安]]元年、[[1145年]])に「日本商人男女19人が温州に漂着した。」<ref>『[[建炎以来繋年要録]]』</ref>)というのが最初で、南宋末までに10数例がある。ただしこれは記録に残すような特別な事例がこれだけということであって、実際の数はこれよりもはるかに多かったと推察される。 平氏政権が倒れ、[[鎌倉幕府]]が成立すると民間による交易は認めるが、清盛のように自ら交易に乗り出すことは無くなり、不干渉の態度を取った。そのため民間交易は一層進展し、[[源実朝]]は宋の僧侶の話を聞いて宋へと渡ることを企図したといい、当時宋へと渡ることの危険性がかなり減少していたことをうかがわせる。また、鎌倉幕府も[[御分唐船]]という直営の交易船を出すようになったと言われているが、詳細については不明である。 鎌倉時代の中期頃になると幕府は海外交易に対して次第に統制をかけるようになり、[[建長]]6年([[1254年]])に唐船は5隻までそれ以上は破却せよという命令を出している<ref>『[[吾妻鏡]]』</ref>。その命令の前後より宋は[[モンケ]]の親征(1253年 - 1259年)を受けた。 [[咸淳]]2年([[1266年]]、元[[至元 (元世祖)|至元]]3年、日本[[文永]]3年)には元から日本へ使節が送られているが、その主な目的は日本と南宋との繋がりを絶って、南宋攻略への足がかりにすることにあったと考えられる。更に[[クビライ]]の親征(1268年 - 1279年)に代わって、[[1279年]]の[[崖山の戦い]]でついに滅亡した。 宋が滅んだ後、[[元寇]]などがあって日本と元政府との間は緊張状態にあったが、民間交易はなおもって盛んであり、日宋貿易は基本的に[[日元貿易]]へと引き継がれた<ref>この節は木宮1955・森1948a・1948b・1948c・1950を参照</ref>。 == 南宋の皇帝と元号 == [[ファイル:宋帝国系図.PNG|thumb|right|360px|宋帝国系図]] #[[高宗 (宋)|高宗]] [[1127年|1127]]-[[1162年|1162]] ##[[建炎]] [[1127年|1127]]-[[1130年|1130]] ##[[紹興 (宋)|紹興]] [[1131年|1131]]-[[1162年|1162]] #[[孝宗 (宋)|孝宗]] [[1162年|1162]]-[[1189年|1189]] ##[[隆興]] [[1163年|1163]]-[[1164年|1164]] ##[[乾道 (宋)|乾道]] [[1165年|1165]]-[[1173年|1173]] ##[[淳熙]] [[1174年|1174]]-[[1189年|1189]] #[[光宗 (宋)|光宗]] [[1189年|1189]]-[[1194年|1194]] ##[[紹熙]] [[1190年|1190]]-[[1194年|1194]] #[[寧宗 (宋)|寧宗]] [[1194年|1194]]-[[1224年|1224]] ##[[慶元]] [[1195年|1195]]-[[1200年|1200]] ##[[嘉泰 (宋)|嘉泰]] [[1201年|1201]]-[[1204年|1204]] ##[[開禧]] [[1205年|1205]]-[[1207年|1207]] ##[[嘉定 (南宋)|嘉定]] [[1208年|1208]]-[[1224年|1224]] #[[理宗]] [[1224年|1224]]-[[1264年|1264]] ##[[宝慶]] [[1225年|1225]]-[[1227年|1227]] ##[[紹定]] [[1228年|1228]]-[[1233年|1233]] ##[[端平]] [[1234年|1234]]-[[1236年|1236]] ##[[嘉熙]] [[1237年|1237]]-[[1240年|1240]] ##[[淳祐 (南宋)|淳祐]] [[1241年|1241]]-[[1252年|1252]] ##[[宝祐]] [[1253年|1253]]-[[1258年|1258]] ##[[開慶]] [[1259年|1259]] ##[[景定]] [[1260年|1260]]-[[1264年|1264]] #[[度宗]] [[1264年|1264]]-[[1274年|1274]] ##[[咸淳]] [[1265年|1265]]-[[1274年|1274]] #[[恭帝 (宋)|恭帝]] [[1274年|1274]]-[[1276年|1276]] ##[[徳祐]] [[1275年|1275]]-[[1276年|1276]] #[[端宗 (宋)|端宗]] [[1276年|1276]]-[[1278年|1278]] ##[[景炎]] [[1276年|1276]]-[[1278年|1278]] #[[祥興帝|衛王]] [[1278年|1278]]-[[1279年|1279]] ##[[祥興]] [[1278年|1278]]-[[1279年|1279]] == 年表 == {| class="wikitable" style="text-align:center; vertical-align:middle; background-color:white; |- ! 年 !! 皇帝 !! colspan="2" | 元号 !! 国内 !! 国外 |- | [[1127年|1127]] || ! style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="13" | [[高宗 (宋)|高宗]] || rowspan="3" | [[建炎]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)'''[[靖康の変]]。北宋滅ぶ。'''徽宗・欽宗、北方に連れ去られ、[[張邦昌]]が金により[[楚]]皇帝に立てられる。'''趙構、南京で即位する'''('''高宗''') |- | [[1129年|1129]] || 3 || colspan="2" | (宋)(金)金軍、杭州を陥れる。 |- | [[1130年|1130]] || 4 || colspan="2" | (宋)(金)高宗、金の攻撃を避けて[[温州]]へ逃れる。[[劉豫]]が金により[[斉]]皇帝に立てられる。[[秦檜]]、帰還して礼部尚書とされる。 |- | [[1131年|1131]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="10" | [[紹興 (宋)|紹興]] || 元 || 秦檜、宰相となる。 || |- | [[1132年|1132]] || 2 || 高宗、臨安へ帰還する。 || (遼)[[遼]]の皇族[[耶律大石]]が[[西遼]]を建国。 |- | [[1135年|1135]] || 5 || 徽宗、北方の地で死去する。 || (金)[[太宗 (金)|太宗]]崩御し、[[熙宗 (金)|熙宗]]立つ。 |- | [[1137年|1137]] || 7 || || (金)金が斉を廃して直接支配に切り替える。 |- | [[1142年|1142]] || 12 || colspan="2" | (宋)(金)'''宋と金で和約がなる([[紹興和約]])。''' |- | [[1149年|1149]] || 19 || || (金)'''熙宗を弑逆して[[海陵王]]が帝位に就く。''' |- | [[1153年|1153]] || 23 || || (金)[[上京会寧府|会寧府]]から燕京へと遷都する。 |- | [[1156年|1156]] || 26 || || (日本)[[保元の乱]]。 |- | [[1159年|1159]] || 29 || || (日本)[[平治の乱]]。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1161年|1161]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 31 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" |(宋)(金)'''海陵王、親征して南宋を征服せんとするが、国内に反乱頻発し、部下により暗殺される。代わって[[世宗 (金)|世宗]]が立つ。'''(宋)'''高宗、退位して[[太上皇|上皇]]となり、[[孝宗 (宋)|孝宗]]が立つ。''' |- | [[1165年|1165]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="6" | [[孝宗 (宋)|孝宗]] || rowspan="3" | [[乾道 (宋)|乾道]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)'''宋と金で和約がなる([[乾道和約]])。''' |- | [[1167年|1167]] || 3 || || (日本)[[平清盛]]、[[太政大臣]]となる。 |- | [[1168年|1168]] || 4 || || (日本)日本僧[[栄西]]が入宋。 |- | [[1175年|1168]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="3" |[[淳熙]] || 2 || [[朱熹]]と[[陸象山|陸九淵]]の[[鵞湖の会]]がもたれる。 || |- | [[1185年|1185]] || 12 || || (日本)[[平氏]]滅亡。[[鎌倉幕府]]の成立。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1189年|1189]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 16 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''孝宗、退位して上皇となる。[[光宗 (宋)|光宗]]が立つ。''' || style="border-bottom:3px solid #100" | |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1194年|1194]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[光宗 (宋)|光宗]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[紹熙]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 5 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''光宗、[[趙汝愚]]、[[韓タク冑|韓{{lang|zh|侂}}冑]]らにより退位させられ[[寧宗 (宋)|寧宗]]が立つ。''' || style="border-bottom:3px solid #100" | |- | [[1200年|1200]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="8" | [[寧宗 (宋)|寧宗]] || [[慶元]] || 6 || 朱熹、死去。 || |- | [[1206年|1206]] || rowspan="2" | [[開禧]] || 2 || colspan="2" | (宋)(金)韓侂冑主導で北伐が実行される。(モンゴル)'''テムジンが[[チンギス・カン]]となる。''' |- | [[1207年|1207]] || 3 || 韓{{lang|zh|侂}}冑、[[史弥遠]]により殺される。 || |- | [[1208年|1208]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="5" | [[嘉定 (南宋)|嘉定]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)和約を結び直す。史弥遠、宰相となる。 |- | [[1211年|1211]] || 4 || ||(金)(モンゴル)モンゴル、金を攻撃。契丹の[[耶律留哥]]、金に反旗を翻す。 |- | [[1215年|1215]] || 8 || ||(金)(モンゴル)金、モンゴルの攻撃を避けて中都から開封へと遷都。モンゴル、中都を陥落させる。 |- |- | [[1221年|1221]] || 14 || || (日本)[[承久の乱]]。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1224年|1224]] || style="border-bottom:3px solid #100" |17 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''寧宗崩御。[[理宗]]が立つ。'''|| style="border-bottom:3px solid #100" | |- | [[1227年|1227]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="10" | [[理宗]] || [[宝慶]] || 3 || || (モンゴル)モンゴルに降伏し、[[西夏]]滅ぶ。'''チンギス崩御。[[オゴデイ]]立つ。''' |- | [[1233年|1233]] || [[紹定]] || 6 || 史弥遠、死去。|| |- | [[1234年|1234]] || rowspan="2" | [[端平]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)(モンゴル)'''宋・モンゴル、共同して金を攻撃し、金滅ぶ。'''宋、開封・洛陽を回復するが、モンゴルに奪い返される。 |- | [[1235年|1235]] || 2 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)モンゴルの大軍が宋に侵攻する。 |- | [[1241年|1241]] || rowspan="2" | [[淳祐 (南宋)|淳祐]] || 元 || || (モンゴル)オゴデイ崩御。[[グユク]]が立つが、その継承を巡ってモンゴル国内は争いとなる。 |- | [[1251年|1251]] || 11 || || (モンゴル)後継争いを収めて[[モンケ]]が立つ。 |- | [[1257年|1257]] || [[宝祐]] || 5 || colspan="2" |(宋)(モンゴル)モンゴル軍、三方に分かれて宋を攻める。 |- | [[1259年|1259]] || [[開慶]] || 元 || colspan="2" |(宋)(モンゴル)'''宋攻撃中にモンケが崩御。モンゴル軍は引き上げて[[クビライ]]と[[アリクブケ]]の継承争いとなる。''' |- | [[1263年|1263]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="2" | [[景定]] || 4 || [[賈似道]]により[[公田法]]が行われる。 || |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1264年|1263]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 5 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''理宗、崩御。[[度宗]]が立つ。''' || style="border-bottom:3px solid #100" | (モンゴル)クビライ、アリクブケを降し、正式にモンゴル皇帝となる。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1274年|1274]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[度宗]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[咸淳]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 10 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''度宗崩御。[[恭帝 (宋)|恭帝]]が立つ。''' || style="border-bottom:3px solid #100" |(モンゴル)(日本)[[元寇|文永の役]] |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1276年|1276]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[恭帝 (宋)|恭帝]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[徳祐]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 2 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" | (宋)(元)'''臨安陥落。恭帝が降伏し宋事実上の滅亡。'''一部の宋残党により[[端宗 (宋)|端宗]]が擁立される。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1278年|1278]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[恭帝 (宋)|恭帝]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[景炎]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 3 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" | (宋)(元)端宗崩御。[[祥興帝|衛王]]が擁立される。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1279年|1279]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[祥興帝|衛王]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[祥興]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 2 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" | (宋)(元)衛王入水。宋完全滅亡。 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 全般・通史 === * 『世界歴史大系・中国史3』([[梅原郁]]他、山川出版社、[[1997年]] ISBN 4634461706) * 『五代と宋の興亡』([[周藤吉之]]・中島敏、[[講談社学術文庫]]、[[2004年]] ISBN 4061596799) * 「南宋政治史概説」([[宮崎市定]]、『支那地理歴史体系』4、[[白揚社]]、[[1941年]])、『アジア史研究』2・全集の10に所収。 * 『世界の歴史6 東アジア世界の変貌』([[堀敏一]]他、[[筑摩書房]]、[[1961年]]) * 『図説 中国の歴史 宋王朝と新文化』([[梅原郁]]、[[1977年]]、[[講談社]]) * 『民族の世界史5 漢民族と中国社会』([[斯波義信]]他、[[山川出版社]]、[[1983年]]、ISBN 4634440504) * 『中国の歴史07・中国思想と宗教の奔流』([[小島毅]]、[[講談社]]、[[2005年]] ISBN 4062740575) === 論集 === * 『[[岩波講座世界歴史|岩波講座・世界歴史]]9 内陸アジア世界の展開1、東アジア世界の展開1』([[佐伯富]]他、[[岩波書店]]、[[1970年]]) * 『東洋史学論集-宋代史研究とその周辺-』([[中島敏]]、[[汲古書院]]、[[1988年]]) * 『戦後日本の中国史論争』、[[谷川道雄]]編、[[河合文化教育研究所]]、1993年、ISBN 487999989X) === 政治 === * [[宮崎市定]] *#『宮崎市定全集10』([[岩波書店]]、ISBN 4000916807) *##[[1963年]]「宋代官制序説」([[佐伯富]]編『宋史職官志索引』、[[東洋史研究会]]) * [[日中民族科学研究所]] *#『中国歴代職官事典』([[国書刊行会]]、[[1980年]]) === 国際関係 === * [[木宮泰彦]] *#[[1955年]]『日華文化交流史』([[冨山房]]) *#*『日支交通史』として[[1940年]]に発表されたものの改訂版。 * [[外山軍治]] *#[[1963年]]『金朝史研究』([[同朋社]]) * [[森克己]] *#[[1948年]]-a『日宋貿易の研究』([[国立書院]]、ISBN 9784585032007) *#*-b『続日宋貿易の研究』 *#*-c『続々日宋貿易の研究』 *#[[1950年]]『日宋文化交流の諸問題』([[刀江書院]]) ** 以上4冊は『森克己著作選集』(国書刊行会)1-4巻として[[1975年]][[8月]]に発行。 {{DEFAULTSORT:なんそう}} [[Category:宋朝|*2なんそう]] [[Category:中国の歴史]] [[en:Song Dynasty#Southern Song, 1127–1279]]
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