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千本資俊
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'''千本 資俊'''(せんぼん すけとし、[[大永]]2年([[1519年]]) - [[天正]]13年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]([[1586年]][[1月27日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[下野国]][[那須氏]]の家臣。常陸介。父は[[千本資次]]、子に[[千本資政]]。養子に義政([[千本義隆]])。 == 生涯 == [[那須七騎]][[千本氏]]の当主であり、本家である那須氏を主家として仰ぐ立場であったが、天文20年([[1551年]])、[[宇都宮氏]]の家臣・[[芳賀高定]]の謀略にかかり、主君・[[那須高資]]を[[千本城]]に誘殺した。そのため一時、那須氏を追われたが、高資の死によって当主の座についた[[那須資胤]]に許され帰参、腹心として権勢を振るった。[[大関高増]]らが下那須衆を扇動して[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]に寝返った時は呼応せず資胤の元に残った。 [[永禄]]9年([[1566年]])の治部内山の戦いでは佐竹家臣[[佐竹義堅 (戦国武将)|佐竹義堅]]と大関高増ら下那須衆、加えて[[宇都宮氏]]からの援兵を合わせた3,300人の兵で攻められたが資俊は数的不利を覆して連合軍を撃破し、東義堅を生け捕りにして撤退させるという功を挙げた。 しかし資胤の死後に、大関高増の娘と息子資政が離縁した事で大関氏の反感を買う。天正13年([[1585年]])12月8日、大関高増は[[那須資晴]]に千本氏を討つ事を勧め承認を得ると、資俊は子の資政と共に[[太平寺]]に誘い出され、そこで殺害された。享年67。 == 参考資料 == * [[寛政重修諸家譜]] {{DEFAULTSORT:せんほん すけとし}} [[category:戦国武将]] [[Category:千本氏|すけとし]] [[Category:1519年生]] [[Category:1586年没]]
千本資俊
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