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'''北添 佶摩'''(きたぞえ きつま、[[天保]]6年([[1835年]])-[[元治]]元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1864年]][[7月8日]]))は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[尊皇攘夷]]派[[志士]]。'''佶麿'''(よしまろ)、'''源五郎'''とも。変名は'''本山七郎'''。 [[土佐藩]]高岡郡岩目地(いわめじ)村の庄屋北添与五郎の五男。16歳で庄屋職をつぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となる。 [[開国]]に反対して攘夷を唱え、[[文久]]3年([[1863年]])、本山七郎を名乗って[[江戸]]へ出て、[[大橋正寿]]の門人となり同志と共に学ぶ。その後、[[安岡直行]]、能勢達太郎、小松小太郎と共に[[奥州]]や[[蝦夷地]]などを周遊して北方開拓を発案。これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した[[屯田兵]]と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。なお、この策には[[坂本龍馬]]が一枚かんでいたとみられ、事実、龍馬は計画実現のために[[大久保一翁]]などに働きかけている。 その後、所属していた[[神戸海軍操練所]]の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の[[望月亀弥太]]らと[[京都]]へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)の[[池田屋事件]]に遭遇し死亡した。この際、[[新選組]]によって殺害されたと思われていたが、近年の研究によって自害して果てたことが判明している。享年30。 [[明治]]24年([[1891年]])、従四位を贈られる。 {{デフォルトソート:きたそえ きつま}} [[Category:土佐勤王党の人物]] [[Category:1835年生]] [[Category:1864年没]]
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