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北涼
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{{基礎情報 過去の国 |略名 = 北涼 |日本語国名 = 北涼 |公式国名 = 建康→涼→張掖→河西<ref name="民族大移動151">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P151</ref> |建国時期 = [[397年]][[5月]]<ref name="民族大移動151"/> |亡国時期 = [[439年]][[9月]]<ref name="民族大移動151"/> |先代1 = 後涼 |先旗1 = Flag of None.svg |先代2 = 南涼 |先旗2 = Flag of None.svg |先代3 = 西秦 |先旗3 = Flag of None.svg |次代1 = 北魏 |次旗1 = Flag of None.svg |公用語 = 漢語([[中国語]]) |首都 = [[建康]]→[[張掖]]→[[姑臧]]<ref name="民族大移動184">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P184</ref> |元首等肩書 = [[建康公]]→[[涼王]]→[[張掖公]]→[[河西王]]<ref name="民族大移動175">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P175</ref> |元首等年代始1 = [[397年]][[5月]] |元首等年代終1 = [[400年]][[6月]] |元首等氏名1 = [[段業]] |元首等年代始2 = [[400年]][[6月]] |元首等年代終2 = [[433年]][[4月]] |元首等氏名2 = [[沮渠蒙遜]] |元首等年代始3 = [[433年]][[4月]] |元首等年代終3 = [[439年]][[9月]] |元首等氏名3 = [[沮渠牧犍]] |変遷1 = 建国 |変遷年月日1 = [[397年]][[5月]] |変遷2 = [[北魏]]に降伏・滅亡 |変遷年月日2 = [[439年]][[9月]] }} '''北涼'''(ほくりょう、[[397年]][[5月]] - [[439年]][[9月]])は、[[五胡十六国時代]]に[[甘粛省]]に存在した国。建国者は[[段業]]だが、実質的な創始者は盧水胡の[[沮渠蒙遜]]である。国号は'''涼'''(りょう)。 == 歴史 == === 建国期 === 北涼の実質的な建国者である沮渠蒙遜ははじめ[[後涼]]に属しており、[[匈奴]]系であるとも[[月氏]]系であるともいわれ諸説存在する。 397年[[4月]]、後涼の天王[[呂光]]は[[西秦]]討伐に失敗し、その責任を[[尚書]]の[[沮渠羅仇]]と三河太守の[[沮渠麹粥]]兄弟に取らせて処刑した<ref name="民族大移動135">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P135</ref>。これに激怒した兄弟の甥である沮渠蒙遜は2人の葬儀の際に集結した一族万余を前にして後涼からの自立を宣言し、[[臨松]](現在の[[甘粛省]][[張掖市]])を陥落させて金山に駐屯した<ref name="民族大移動135"/>。これに対して呂光は討伐軍を送り、沮渠蒙遜は敗北したが、酒泉に駐屯していた沮渠蒙遜の従兄弟の[[沮渠男成]]が呼応して勢いを取り戻し、5月には建康に迫って後涼から建康太守に任命されていた漢族の段業を涼州牧・建康公に擁立して[[神璽]]と建元し、事実上の北涼建国を成し遂げた<ref name="民族大移動135"/>。建国者は擁立された段業だが、実質的な権力は沮渠蒙遜と沮渠男成の両者が掌握した<ref name="民族大移動136">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P136</ref>。 沮渠蒙遜は[[398年]][[4月]]に[[西郡]](現在の甘粛省[[永昌県]])や[[晋昌]](現在の甘粛省[[安西県]])、敦煌などを陥落させ、6月には沮渠男成が張掖を落とし、ここを北涼の首都とした<ref name="民族大移動136"/>。こうして北涼は後涼の西部をほぼ支配下に置くことになり、段業は[[399年]][[2月]]に涼王を称した<ref name="民族大移動136"/>。 === 沮渠蒙遜の時代 === [[400年]][[11月]]、北涼の漢人で敦煌太守であった[[李暠]]が自立して[[西涼]]を建国したため、北涼は西部の領土失陥と漢人の離反が進むことになった<ref name="民族大移動136"/>。さらに段業と沮渠蒙遜との間で対立が発生し、沮渠男成が段業を支持したため、沮渠蒙遜は[[401年]][[4月]]に沮渠男成に謀反の罪ありとでっちあげて段業に殺害させ、さらにその後弔い合戦として段業をも葬り、6月に沮渠蒙遜は涼州牧・張掖公として北涼の君主となった<ref name="民族大移動136"/>。 だが西涼の自立で北涼の領域はかなり限定的な上<ref name="民族大移動137">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P137</ref>、周辺には後涼や[[北魏]]、[[南涼]]などが控え<ref name="民族大移動137"/>、さらに段業や沮渠男成ら実力者を葬ったためにその実力はかなり衰えており、北涼の存続には外交が欠かせなくなった。沮渠蒙遜はまず南涼と同盟を結ぶが、401年7月に[[後秦]]が後涼を攻撃するとその圧力を恐れて使者を派遣して従属し、後涼が滅亡した直後の[[403年]][[8月]]には後秦の[[沙州]][[刺史]]・西海侯に封じられて自ら後秦の藩を称して南涼や西涼と対立した<ref name="民族大移動137"/>。その内の南涼とは[[406年]]、[[407年]]、[[409年]]と連年にわたって戦い、[[410年]][[3月]]には遂に南涼の首都姑臧を包囲したが、この時には姑臧を落とせずに撤退し、[[411年]][[1月]]に姑臧を落として[[412年]][[10月]]に遷都した<ref name="民族大移動137"/>。沮渠蒙遜は南涼をその後も圧迫し、南涼は最終的に[[414年]]に西秦が滅ぼしたが、この南涼と連携していた西涼に対して今度は圧力をかけ、[[417年]][[2月]]に李暠が死去した混乱にも恵まれて、4月から大規模な攻勢をかけて[[420年]][[7月]]に[[酒泉]]を落とし、[[421年]][[3月]]までに西涼を滅ぼして敦煌を取り戻した<ref name="民族大移動137"/><ref>京大東洋史辞典編纂会『新編東洋史辞典』東京創元社、1990年、p894</ref>。こうして北涼は河西全土を支配する強国となり、以後は西域諸国とも交易・交渉を行って全盛期を迎える<ref name="民族大移動137"/>。 しかし南涼の滅亡により西秦との対立が開始され、西秦が北魏と結ぶと北涼は[[夏 (五胡十六国)|夏]]と結んで対立した<ref name="民族大移動137"/>。西涼を滅ぼした沮渠蒙遜は主力軍を西秦に向け、[[421年]][[6月]]と[[422年]][[7月]]には大規模な西秦攻撃を行うも撃退された<ref name="民族大移動138">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P138</ref>。逆に[[424年]]に北魏との連携を強化した西秦に攻められたため、沮渠蒙遜は夏の年号を奉じて服属する事でその支援を得たため、何とか西秦の攻勢を防いだ<ref name="民族大移動138"/>。一方で沮渠蒙遜は江南の[[東晋]]に[[418年]]に従属して涼州刺史に任命され、[[劉宋]]にも服属して[[422年]]に涼州刺史・張掖公、[[423年]]に涼州牧・河西王と江南王朝の官爵を得る事で北魏など周辺諸国と対抗した<ref name="民族大移動138"/>。 だが[[431年]]に西秦・夏が相次いで滅亡すると北涼は北魏の圧力をもろに受け始める事になり、沮渠蒙遜は8月に息子の[[沮渠安周]]を北魏に入侍させて北魏に事実上従属した<ref name="民族大移動139">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P139</ref>。以後、北涼は江南外交から北魏外交に転換し、北魏も劉宋との関係から北涼を厚遇して沮渠蒙遜は北魏より涼州牧・涼王に封じられた<ref name="民族大移動139"/>。[[433年]][[4月]]に沮渠蒙遜は病死した<ref name="民族大移動139"/>。 === 北涼の滅亡 === 沮渠蒙遜が死去すると、北魏はその葬儀を監護する使者を派遣した上、北涼の後継者には劉宋が認めた[[沮渠菩提]]を廃してその兄である[[沮渠牧犍]]を擁立するなど、すでに北魏の内政干渉をもろに受ける立場にまで追い込まれていた<ref name="民族大移動139"/>。[[沮渠牧犍]]は文物を劉宋に送る<ref name="goryou">尤明智『五涼史略』甘粛人民出版社、1988年、ISBN 7-226-00243-4</ref>など文治を盛んにした。一方で北涼は[[沮渠牧犍]]の妹を北魏皇帝の[[太武帝]]に入嫁させ、太武帝の妹の武威公主を北涼に入嫁させるという二重の通婚関係を結ぶなど強い友好関係を結んだ<ref name="民族大移動139"/>。 439年9月、華北統一を目指す北魏の太武帝は[[親征]]して北涼の首都姑臧に迫り、その圧力に屈した[[沮渠牧犍]]は北魏に降伏し、北涼は滅亡した<ref name="民族大移動139"/>。 === 北涼その後 === 北涼君主の[[沮渠牧犍]]は北魏の首都[[平城]]に送られ、[[447年]]に謀反の罪で自殺を命じられた<ref name="民族大移動139"/>。 北涼滅亡後、[[沮渠牧犍]]の弟である[[沮渠無諱]]と沮渠安周は[[442年]][[9月]]に酒泉・敦煌・[[高昌]]と西遷して自立し、[[高昌北涼]]を建国した<ref name="民族大移動139"/><ref name="民族大移動162">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P162</ref>。沮渠氏は河西王として[[宋 (南朝)|劉宋]]に封ぜられるが、沮渠氏が西遷するまで高昌を支配していた唐契の一族が結んでいた[[柔然]]が高昌に来寇したため、高昌北涼は2代で滅亡したが、[[高昌国]]自体は[[唐]]に支配されるまでの約200年間にわたり続いた<ref name="民族大移動139"/><ref name="民族大移動162"/>。 == 北涼の君主 == *[[段業]](在位[[397年]] - [[400年]]) *文王[[段業]](在位[[400年]] - [[401年]]) *#太祖武宣王([[沮渠蒙遜]]、在位[[401年]] - [[433年]]) *#哀王([[沮渠牧犍]]、在位[[433年]] - [[439年]]) * 段業は397年から建康公を称した<ref name="民族大移動175"/>。 * 段業は[[399年]]から涼王と称した<ref name="民族大移動175"/>。 * 沮渠蒙遜は400年から涼王と称した<ref name="民族大移動175"/>。 * 沮渠蒙遜は401年から張掖公と称した<ref name="民族大移動175"/>。 * 沮渠蒙遜は[[412年]]から河西王を称し、以後の北涼君主は河西王を称した<ref name="民族大移動175"/>。 * 沮渠蒙遜は[[431年]]からは北魏に任命された涼王・涼州牧であった<ref name="民族大移動139"/>。 * 沮渠蒙遜の武宣王は北魏から贈られた号である<ref name="民族大移動139"/>。 == 高昌北涼の君主 == #拓王[[沮渠無諱]](在位[[443年]] - [[444年]]) #武拓王[[沮渠安周]](在位[[444年]] - [[460年]]) == 北涼の元号 == # [[神璽]] ([[397年]] - [[399年]]) # [[天璽 (北涼)|天璽]] ([[399年]] - [[401年]]) # [[永安 (北涼)|永安]] ([[401年]] - [[412年]]) # [[玄始]] ([[412年]] - [[428年]])元始とも書かれる # [[承玄]] ([[428年]] - [[431年]]) # [[義和 (北涼)|義和]] ([[431年]] - [[433年]]) # [[承和 (北涼)|承和]] ([[433年]] - [[439年]])永和とも書かれる 以下、高昌北涼 # [[承平 (北涼)|承平]] ([[443年]] - [[460年]]) ==北涼主要年表== * [[397年]] - 沮渠蒙遜が臨松に兵を起こす。段業が建康郡に兵を起こして涼州牧、建康公を称し、[[神璽]]と建元する。 * [[398年]] - 沮渠蒙遜が後涼に侵攻し、[[晋昌]]太守・[[王徳]]、[[敦煌]]太守・[[孟敏]]を降す。 * [[399年]] - 段業が涼王を称し、[[天璽 (北涼)|天璽]]と改元する。 * [[400年]] - 晋昌太守・[[唐瑤]]が敦煌太守・[[李暠]]を冠軍大将軍・沙州刺史・涼公に推して[[西涼]]を建国する。 * [[401年]] - 沮渠蒙遜が段業を弑殺し、[[梁中庸]]らに推され大都督・大将軍・涼州牧・張掖公に就き[[永安 (北涼)|永安]]と改元する。 * [[402年]] - 沮渠蒙遜が後涼の[[姑臧]]に侵攻する。後涼は南涼に援兵を求める。蒙遜は敗退するが、南涼兵が姑臧で略奪を行う。西郡太守・梁中庸が反乱し、西涼に出奔する。 * [[403年]] - 南涼と結んで後涼を攻めた結果、後涼は[[後秦]]に降り、後涼が滅亡する。沮渠蒙遜は弟の[[沮渠挐]]を後秦に[[入貢]]させ、後秦からの使者、[[梁构]]を受け入れる。蒙遜は後秦の西海侯に封じられる。 * [[410年]] - 南涼が北涼の臨松郡に侵攻する。また北涼が南涼に侵攻し、南涼王[[禿髪ジョク檀|{{lang|zh-tw|禿髪傉檀}}]]・[[太尉]][[倶延]]らを破った。この際に南涼の[[姑臧]]で内乱が起きたため、ここを攻めた。 * [[411年]] - 姑臧を支配下に収め、南涼の[[楽都]]を包囲する。南涼は{{lang|zh-tw|禿髪傉檀}}の子・[[禿髪安周]]を人質として差し出したため兵を退く。また西涼にも侵攻したが大敗し、[[沮渠百年]]が戦死する。 * [[412年]] - 姑臧に遷都する。沮渠蒙遜が河西王に就き、[[玄始]]と改元し、百官を置く。 * [[413年]] - [[沮渠政徳]]を世子とし、大将軍・[[録尚書事]]を加鎮する。南涼が北涼に侵攻するが撃退し、更に南涼に侵攻する。楽都を包囲された{{lang|zh-tw|禿髪傉檀}}は倶延を人質として差出し、兵を引き上げる。また、西の[[卑和]]・[[烏啼]]の二部を破っている。 * [[415年]] - 前年南涼が降った[[西秦]]の広武郡を攻めて敗れる。西秦は北涼の湟河郡を攻めて奪う。 * [[416年]] - 西秦と和平を結ぶ。 * [[417年]] - 烏啼・卑和の二部を破る。 * [[418年]] - [[東晋]]から涼州刺史の位を受ける。 * [[420年]] - 西涼を攻め君主の[[李歆]]を戦死させる。[[酒泉]]に入城したが略奪を禁じ、西涼の臣下で才能のあるものはこれを採用した。 * [[421年]] - 西涼の敦煌を攻め、西涼を滅ぼす。また、西秦に侵攻する。[[宋 (南朝)|劉宋]]から鎮軍大将軍・開府儀同三司・涼州刺史の位を受ける。西涼の晋昌太守だった[[唐契]]が晋昌で反乱を起こす。 * [[422年]] - 西秦に侵攻するが将の[[沮渠成都]]が捕らえられ敗れる。 * [[423年]] - 劉宋に入貢する。劉宋から都督・涼秦河沙四州諸軍事・驃騎大将軍・涼州牧・河西王の位を受ける。世子・沮渠政徳が晋昌を攻めて破る。唐契とその弟[[唐和]]、甥[[李宝 (西涼)|李宝]]は西涼の遺民を引き連れて[[哈密|伊吾]]に向かい、そこで[[柔然]]の臣下となった。柔然は唐契に伊吾王の称号を与えた。柔然は北涼を攻め、沮渠政徳が戦死したため、次子の[[沮渠興国]]を世子とした。 * [[425年]] - 西秦に攻め込まれ、将軍・[[沮渠白蹄]]が捕らえられる。 *[[426年]] - 西秦に攻め込まれた北涼は[[夏 (五胡十六国)|夏]]に救援を要請した。夏軍に[[南安]]を攻められた西秦は兵を退いた。[[北魏]]が夏・西秦に侵攻しているとの報を受けた沮渠蒙遜は北魏に畏れの意を表す使者を差し向けた。 * [[428年]] - [[承玄]]と改元する。 * [[429年]] - 西秦に侵攻するが敗れ、沮渠興国が捕らえられる。沮渠興国は西秦から帰国を許されず、世子に[[沮渠菩提]]が立てられる。劉宋に入貢する。 * [[430年]] - 北魏に入貢する。 *[[431年]] - 沮渠安周を遣使として北魏に入貢する。北魏は[[李順]]を派遣し、沮渠蒙遜を[[侍中]]・都督・涼州西域羌戎諸軍事・[[太傅]]・行征西大将軍・涼州牧・涼王・武威張掖酒泉西海金城西平七郡王に任じられる。[[義和 (北涼)|義和]]と改元する。 * [[433年]] - 沮渠蒙遜の病が重く、幼弱だった沮渠菩提に代わって[[沮渠牧犍]]が世子に立てられる。沮渠蒙遜が崩御し、沮渠牧犍が王位に就く。その妹[[興平公主]]は北魏に[[後宮]]に送られ[[昭儀|右昭儀]]となった。沮渠牧犍は[[劉昞]]を国師とした。[[永和 (北涼)|永和]]と改元される。沮渠牧犍が劉宋から都督涼沙河三州西域羌戎諸軍事・車騎将軍・開府儀同三司・涼州刺史・河西王に任じられる。 * [[437年]] - 北魏・[[太武帝]]の妹、[[武威公主]]が沮渠牧犍の后となる。 * [[439年]] - 武威公主が毒殺され、北魏がその犯人と目される沮渠牧犍の嫂・李氏の身柄を要求するが、沮渠牧犍は断った。北魏は沮渠牧犍の12の罪状を宣布し、姑臧を潰滅させる。 * [[440年]] - 沮渠無諱が酒泉で反乱を起こす。張掖まで攻め上るが陥落させられず、北魏と停戦する。 * [[441年]] - 北魏は沮渠無諱を征西大将軍・涼州牧・酒泉王に任じる。沮渠唐児が沮渠無諱に反乱して挙兵するが、敗死する。北魏は酒泉に兵を差し向けるが、沮渠無諱は糧秣欠乏の為、西遷を考え、弟の[[沮渠安周]]に軍勢を与え[[鄯善]]に派遣する。 * [[442年]] - 沮渠無諱が敦煌に遷る。高昌の唐契を倒す。高昌に遷り、劉宋から都督涼河沙三州諸軍事・征西将軍・涼州刺史・河西王に任じられる。沮渠安周に鄯善が降る。 * [[443年]] - 高昌に本拠を構え、[[承平 (北涼)|承平]]と建元する。 * [[444年]] - 沮渠無諱が崩御し、沮渠安周が即位する。改元は行われなかった。沮渠安周が劉宋から都督涼河沙三州諸軍事・涼州刺史・河西王に任じられる。 * [[445年]] - [[車師]]を攻撃する。 * [[459年]] - 沮渠安周が劉宋から征虜将軍を加えられる。 * [[460年]] - 柔然が高昌を攻め、沮渠安周が殺害される。柔然によって高昌王に[[カン伯周|闞伯周]]が就けられる。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 引用元 === <references/> == 参考文献 == * [[尤明智]]『五涼史略』甘粛人民出版社、1988年、ISBN 7-226-00243-4 * [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月) {{DEFAULTSORT:ほくりよう}} [[Category:五胡十六国の王朝]] [[Category:甘粛省の歴史]]
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