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北条氏直
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 北条氏直 | 画像 = Houjou Ujinao2.JPG | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 北条氏直像([[早雲寺]]所蔵、[[土佐光起]]筆)<ref>賛に北条英孫([[北条氏治]]か?)が寄進した旨が記されている。後世の制作のためか尺の持ち方が異なるだけで、容貌・風姿共に父氏政と殆ど瓜二つに描かれている。(『特別展 後北条氏と東国文化』図録 [[神奈川県立歴史博物館]]、1989年、151頁より)</ref> | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[永禄]]5年([[1562年]]) | 死没 = [[天正]]19年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]([[1591年]][[12月19日]]) | 改名 = 国王丸(幼名)、氏直 | 別名 = 新九郎(通称)、見性斎 | 戒名 = 松巌院太円宗徹 | 墓所 = [[早雲寺]]([[神奈川県]][[箱根町]])<br/>海蔵寺([[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]) | 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[京職|左京大夫]] | 氏族 = [[後北条氏]]([[平氏|桓武平氏]]) | 父母 = 父:[[北条氏政]]、母:[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]([[武田信玄]]の娘)<br />養父:''[[今川氏真]]'' | 兄弟 = 新九郎、'''氏直'''、[[太田源五郎]]、[[太田氏房|氏房]]、[[千葉直重]]<br />[[北条直定|直定]]、妹([[千葉邦胤]]室)<br/>義妹:''[[龍寿院殿|鶴姫]]([[里見義頼]]正室)'' | 妻 = 正室:'''[[督姫]]'''([[徳川家康]]娘) | 子 = [[北条氏次|氏次]]、宝珠院殿([[池田利隆]]室)、[[北条直久|直久]]<br />摩尼珠院殿<br/>養子:'''''[[北条氏盛|氏盛]]'''''、''妹(千葉邦胤室)''}} '''北条 氏直'''(ほうじょう うじなお)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[相模国|相模]]の[[戦国大名]]で[[小田原城]]主。[[後北条氏]]の第5代当主である。父は[[北条氏政]]、母は[[武田信玄]]の娘[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。 == 生涯 == === 家督相続 === [[後北条氏]]は氏直の祖父・[[北条氏康]]の時代に[[甲斐国|甲斐]]の[[武田氏]]・[[駿河国|駿河]]の[[今川氏]]と[[甲相駿三国同盟]]を締結していたが、父の氏政はその一角である[[甲相同盟]]において武田信玄の娘黄梅院を正室としており、氏直は永禄5年(1562年)に氏政次男として小田原城で生まれる(兄は早世)。[[幼名]]は'''国王丸'''。[[仮名 (通称)|仮名]]は新九郎。[[武田義信]]・[[武田勝頼]]の甥にあたる(義信は母黄梅院の兄で、勝頼はその弟にあたる)。 永禄11年([[1568年]])末には武田・今川間の関係悪化により武田氏の駿河今川領国への侵攻が行われ([[駿河侵攻]])、氏直は没落した今川当主・[[今川氏真]](叔母の[[早川殿]]は氏真の正室だった)の猶子として家督を相続し、将来の駿河領有権を得たという(但し、駿河は武田領国化されたため現実のものとはならなかった)。[[元亀]]2年([[1571年]])には祖父が亡くなり父が当主となり、武田との甲相同盟が回復する。 [[天正]]5年([[1577年]])3月に[[元服]]し、[[古河公方]]・[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]にはじめて書状を送った。11月に[[上総国|上総]]に[[初陣]]した。この戦は氏政・氏直が優勢に戦いをすすめたとみられ、[[安房国|安房]]の[[里見義弘]]と和睦し、氏政の娘が[[里見義頼]]に嫁ぐことで北条氏と[[里見氏]]は年来の敵対関係から同盟関係に入った([[房相一和]])。 天正8年([[1580年]])8月19日、父の[[隠居]]により[[家督]]を継いで北条家の第5代当主となる(『戦国遺文』後北条氏編 - 2197号)。これは氏政出陣中に隠居を行った異例のもので、後北条氏は天正6年([[1578年]])の[[越後国|越後]][[上杉氏]]における[[御館の乱]]・[[甲越同盟]]の締結を契機に再び甲斐武田氏と敵対関係に入り、[[尾張国|尾張]]の[[織田信長]]と同盟を結び、氏直と信長の娘の婚姻を達成してさらに同盟を強固なものとして勝頼との戦いを有利に運ぶためであったといわれ、実権はなおも父が握っていた。 === 武田氏遺領争い === 天正9年([[1581年]])、叔父・武田勝頼と三島で戦ったが、決着はつかずに終わった。翌天正10年([[1582年]])3月、信長の侵攻で勝頼などが討死して武田氏が滅亡し([[甲州征伐]])、甲斐の遺領は信長の家臣[[河尻秀隆]]、[[信濃国|信濃]]の一部と[[上野国|上野]]の西部は[[滝川一益]]に与えられ、一益は[[関東管領]]を自称した。 しかし6月に信長が[[本能寺の変]]で[[横難横死|横死]]し、甲斐の河尻秀隆が土豪一揆に殺害され、同国が無主の国となると、氏直は叔父の[[北条氏邦]]らと共に4万3千を称する大軍をもって上野侵攻を開始し、[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]には倉賀野表([[群馬県]][[高崎市]])に進出する。[[本庄市|本庄]]に本営を置き、富田、石神に布陣、[[6月18日 (旧暦)|18日]]には金窪城で滝川軍と北条軍は激突し、初戦では氏邦が率いる先鋒が敗退したが、[[6月19日 (旧暦)|19日]]の[[神流川の戦い]]で氏直本軍が一益軍に勝利した。そして敗走する一益を追って上野から信濃に侵攻し、[[佐久郡|佐久]]・[[小県郡]]を支配下におさめ、諏訪へ進軍し[[諏訪頼忠]]を味方に付けた。更に[[木曾義昌]](叔母・[[真竜院]]の夫)とも連絡を取り信濃の中央部を制した。 8月には甲斐に侵攻してきた[[徳川家康]]軍と甲斐若神子において対陣した。「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」ということで領有を強く望む氏直と、徳川軍との対陣は80日間に及んだ([[天正壬午の乱]])が、一益敗退後に北条に帰参していた[[真田昌幸]]や木曾義昌が離反し、家康方の[[依田信蕃]]がゲリラ活動を行い北条軍の補給路を脅かし、別働隊の[[北条氏忠]]・[[北条氏勝]]が甲斐黒駒において徳川方の[[鳥居元忠]]らに敗退すると戦線は膠着した。その後、[[織田信雄]]・[[織田信孝|信孝]]兄弟の調停もあり、[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立する。そしてこの結果として、天正11年([[1583年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、家康の娘・[[督姫]]が氏直に嫁いだ。 === 小田原合戦から最期 === 家康と同盟を結んだ後、氏直は[[下野国|下野]]・[[常陸国|常陸]]方面に侵攻して勢力を拡大し、[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]や[[結城晴朝]]、[[太田資正]]らを圧迫した。しかし中央で信長の死後、その重臣だった[[豊臣秀吉]]が台頭し、関東[[惣無事令]]が発令されて私戦が禁止されたため、氏直は秀吉との戦いを意識して天正15年([[1587年]])から軍備増強に務めた。一方で秀吉の実力も認識していたようであり、天正16年([[1588年]])春には家康の仲介も受けて、8月に叔父の[[北条氏規]]を上洛させて秀吉との交渉に臨んだ。 なお、父や叔父の[[北条氏照]]ら強硬派が氏直・氏規ら穏健派と対立したとされているが、上野[[沼田城]]受取り後の氏政は上洛に前向きであることが各種書状で明らかとなっているため、氏政が強硬派とは一概に決めつけることはできない。また、氏規が上洛した直後に氏政が政務に一切口出しをしなくなったことが確認される。 しかし天正17年([[1589年]])の秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、[[猪俣邦憲]]による真田昌幸の支城・[[名胡桃城]]奪取事件が起きて、これが惣無事令違反であるとして、秀吉との関係は事実上破綻した。このことについて、氏直は名胡桃城は北条が乗っ取ったのではなく、既に真田に返還していることと、この件について真田方の名胡桃城主と思われる中山の書付を進上するので真理を究明してほしい旨を、秀吉側近の[[津田盛月|津田信勝]]・[[富田知信]]に対して弁明するとともに、家康に対しても同様に執り成しを依頼した。ところが家康は秀吉から[[小田原征伐]]に関する軍議に出席するよう求められたため、既に上洛しており、家康への依頼が実を結ぶことはなかった。 天正18年([[1590年]])から秀吉による小田原征伐が始まった。氏直はこれに対して領国内に動員令をかけるとともに、小田原城をはじめとする各支城を修築し、さらに野戦の場合を想定して、3月に箱根の屏風山等の陣場を巡検した。しかし[[山中城]]落城により結局小田原城で籠城することになる。籠城は4月から3カ月に及んだが、秀吉の大軍による小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、支城の陥落などに加え、重臣・[[松田憲秀]]の庶子・[[笠原政尭|笠原政晴]]が秀吉に内応しようとした(氏直が事前に政晴を成敗した)ことなどから、[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]には和議を結ぶことを決意し、[[7月5日 (旧暦)|5日]]に秀吉方の武将・[[滝川雄利]]の陣所へ赴いて、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。 しかしながら秀吉は氏直の申出について感じ入り神妙とし、家康の婿であったこともあり助命された。他方、氏政・氏照及び宿老の[[大道寺政繁]]・松田憲秀は切腹を命じられ、[[7月11日 (旧暦)|11日]]に氏政・氏照が切腹。[[7月12日 (旧暦)|12日]]に氏直は[[紀伊国|紀伊]][[高野山]]へ登ることに決まり、[[7月21日 (旧暦)|21日]]に[[太田氏房|氏房]]・[[千葉直重|直重]]・[[北条直定|直定]]・氏規・氏忠・[[北条氏光|氏光]]等の一門及び[[松田直秀]]・[[山角直繁]]・[[遠山直吉]]・[[山上久忠]]等の家臣を伴って小田原を出立し、[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]に高野山に到着した。その後、[[高室院]]にて謹慎生活を送った。以後「見性斎」と称す。 天正19年(1591年)1月から氏直は赦免活動を開始し、2月には秀吉から家康に赦免が通知される。5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]には秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ豊臣大名として復活した。さらに小田原に居住していた督姫も[[8月27日 (旧暦)|27日]]に大坂に到着し、家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理をおこなっていたが、11月4日に大坂で病死した。多門院日記によると死因は[[天然痘|疱瘡]]と記述されている。[[享年]]30。氏直の死後、従弟で氏規の嫡子である[[北条氏盛|氏盛]]が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続し、慶長3年([[1598年]])に氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、北条宗家は河内[[狭山藩]]主として幕末まで存続した。 氏直には娘が2人いたが、長女は夭折、次女は[[池田利隆]]の許婚となったが[[慶長]]7年([[1602年]])に17歳で病死している。 == 人物・逸話 == * 生存していれば翌年には秀吉より[[伯耆国|伯耆]]一国を与えられ国持大名としても復活が予定されていたと軍記物に記載があるが、裏付ける史料等はない。 * 『[[北条記]]』では、「五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちをおかしたために、ついにその家を失うこととなった」とある。 *現在のところ、氏直発行の文書は家督相続以前の物も含めて264通が確認されているが、何故か「北条」を名乗った文書は1通も存在していない(左京大夫氏直、見性斎氏直などと署名している)。 == 墓所 == [[File:Late Hōjō Clan's Graves.jpg|thumb|早雲寺の北条五代の墓。左端が氏直の墓。]] [[神奈川県]][[箱根町]]の金湯山[[早雲寺]]。 現在の早雲寺境内に残る氏直を含めた北条5代の墓所は、[[江戸時代]]の[[寛文]]12年([[1672年]])に、[[北条氏規]]の子孫で[[狭山藩]]北条家5代目当主の[[北条氏治|氏治]]が、[[北条早雲]]の命日に当たる[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]に建立した供養塔である。 氏直の本来の墓所として、[[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]草津町の海蔵寺に墓が現存しているが、真偽の程は定かでない<ref>[http://www.c-haus.or.jp/kaidou/001koikusatu.htm 西国街道を行く 己斐~草津](墓所の画像あり)</ref>。 == 偏諱を与えた人物 == *[[北条氏次|北条'''氏'''次]](長男) *[[北条直久|北条'''直'''久]](次男) *[[千葉直重|千葉'''直'''重]](実弟) *[[北条直定|北条'''直'''定]](実弟) *[[北条氏成|北条'''直'''重]](北条氏繁三男、初め氏成) *[[千葉直胤|千葉'''直'''胤]](北条氏繁四男) *[[遠山直景 (左衛門大夫)|遠山'''直'''景]] *[[遠山康英|遠山'''直'''次('''直'''昌)]](直景の父・[[遠山政景|政景]]の従兄弟) *[[遠山直吉|遠山'''直'''吉]](直次の子) *[[大藤直昌|大藤'''直'''昌]] *[[大道寺直繁|大道寺'''直'''繁]]([[大道寺政繁]]の長男) *[[大道寺直重|大道寺'''直'''重('''直'''昌)]](政繁の次男) *[[大道寺直次|大道寺'''直'''次]](政繁の四男) *[[大道寺直英|大道寺'''直'''英]](政繁の養子) *[[内藤直矩|内藤'''直'''矩]]([[内藤昌月]]の子) *[[内藤直行|内藤'''直'''行]]([[内藤綱秀]]の子) *[[垪和信之|垪和'''直'''?]](二文字目不明、父・[[垪和氏続]]と同じく初め又太郎、後に[[伊予守]]と称す<ref>[http://www.geocities.jp/kawabemasatake/ujiyasu.html こちら] より</ref>。) *[[松田直秀|松田'''直'''秀]]([[松田憲秀]]の子) *[[松田直長|松田'''直'''長]](憲秀の従兄弟・[[松田康長|康長]]の子) *[[山角直繁|山角'''直'''繁]]([[山角康定]]の子) == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * 『後北条氏家臣団人名辞典』[[東京堂出版]]、2006年、ISBN 4490106963 == 関連項目 == * [[後北条氏]] ---- {{後北条氏歴代当主||第5代:1580年 - 1591年}} {{DEFAULTSORT:ほうしよう うしなお}} [[Category:後北条氏|うしなお]] [[Category:戦国大名]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:神奈川県の歴史]] [[Category:相模国の人物]] [[Category:天然痘で死亡した人物]] [[Category:1562年生]] [[Category:1591年没]]
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