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北条時行
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 北条時行 | 時代 = [[鎌倉時代]]末期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] | 生誕 = 不詳 | 死没 = [[正平 (日本)|正平]]8年/[[文和]]2年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1353年]][[6月21日]]) | 改名 = 亀寿丸<ref>『[[太平記]]』・正宗寺本『北条系図』</ref>・長寿丸<ref>『[[梅松論]]』『[[桓武平氏]]系図』</ref>・勝長寿丸<ref>『[[保暦間記]]』(幼名)</ref>→時行 | 別名 = 相模二郎 | 官位 = | 氏族 = [[北条氏]]、[[得宗]] | 父母 = 父:[[北条高時]]、母:二位局 | 兄弟 = [[北条邦時|邦時]]、'''時行''' | 妻 = | 子 = [[豊島輝時]]?、[[北条行氏|行氏]]?、[[北条時満|時満]]?、[[北条惟時|惟時]]? | 特記事項 = }} '''北条 時行'''(ほうじょう ときゆき)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]である。[[鎌倉幕府]]第14代[[執権]][[北条高時]]の次男。 == 生涯 == 兄の[[北条邦時|邦時]]が[[正中 (日本)|正中]]2年([[1325年]])の生まれであるため、それ以後の誕生と考えられている。 [[後醍醐天皇]]が討幕運動を起こすと、幕府御家人であった[[足利尊氏|足利高氏]]や[[新田義貞]]らが宮方に属し、鎌倉は新田義貞に攻められて高時ら北条氏は滅亡する。この際に時行は得宗被官[[諏訪盛高]]に連れられ、叔父の[[北条泰家|泰家]]と共に鎌倉を脱出、泰家は奥州に遁れている。幕府滅亡後に後醍醐天皇による[[建武の新政]]が開始されると、時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった[[信濃国|信濃]]に移り、[[諏訪氏]]などに迎えられた。北条一族の残党は各地に潜伏して蜂起し、泰家は京都で[[西園寺公宗]]らとともに各地の北条残党と連絡を取り新政の転覆と鎌倉幕府再興を図るが失敗する。 [[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[7月 (旧暦)|7月]]、10歳前後(7歳とも)であったと考えられている時行は信濃の[[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]、[[諏訪時継]]や[[滋野氏]]に擁立されて挙兵し、足利方の信濃守護[[小笠原貞宗]]と戦って撃破し、道中建武政権に不満を持つ武士を糾合しながら[[武蔵国]]へ入り鎌倉に向けて進軍した。[[7月22日]]には女影原([[埼玉県]][[日高市]])で待ち構えていた[[渋川義季]]と[[岩松経家]]らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県[[所沢市]])で[[今川範満]]を、武蔵府中で[[下野国]]守護[[小山秀朝]]を破って、ついに尊氏の弟である鎌倉将軍府執権[[足利直義]]を町田村(現在の[[町田市]])の[[菅原神社 (町田市)|井出の沢]]の合戦で破り[[鎌倉]]を奪回した。 時行軍は逃げる直義を[[駿河国]]手越河原で撃破するが、京から直義救援に駆けつけた[[足利尊氏]]に、[[遠江国]]橋本、[[小夜の中山]]、箱根、[[相模国]]相模川、片瀬川などの戦いで連破され、時行の軍は壊滅し時行は逃亡した。時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日間であるが、先代([[北条氏]])と後代([[足利氏]])の間に立った鎌倉の一時的支配者となったことから、この乱は[[中先代の乱]]と呼ばれる。 尊氏は中先代の乱を契機に新政から離反し、宮方を破り京都に武家政権を設立する。[[後醍醐天皇]]は吉野で[[南朝 (日本)|南朝]]を開いて[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]となり、[[延元]]2年([[1337年]])時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、[[朝敵]]恩赦の[[綸旨]]を受けて南朝方に属する。時行は[[北畠顕家]]の軍に属し、顕家の2度目の西上の時に[[青野原の戦い]]などで足利方と戦う。[[観応の擾乱]]の直後の正平7年/[[文和]]元年([[1352年]])に、新田義貞の遺児[[新田義宗|義宗]]・[[新田義興|義興]]と共に[[上野国]]で挙兵するが、[[武蔵国]]で尊氏とその子[[足利基氏|基氏]]に敗れて捕らえられ、翌年5月20日に鎌倉[[龍ノ口]]で処刑された。時行の死により北条[[得宗]]家は滅亡する。 == 子孫 == [[岡野氏]]、[[横井氏]](子孫には[[横井小楠]])や[[平野氏]](尾張平野氏、子孫に[[平野長泰]])など時行の子孫を称する家系もある。なお、近年[[黒田基樹]]は[[後北条氏]]第2代に数えられる[[北条氏綱]]の正室であった[[養珠院殿]]が後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している<ref>黒田基樹「伊勢宗瑞論」(黒田 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-071-7)pp.16-17</ref>。ゆえに、あくまで可能性だが養珠院殿の子孫(子の[[北条氏康]]など)は時行の子孫であると考えることもできる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *「北条時行」「中先代の乱」([[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]) *鎌倉・室町人名事典(新人物往来社) *北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」 {{DEFAULTSORT:ほうしよう ときゆき}} [[Category:北条氏|ときゆき]] [[Category:室町・安土桃山時代の武士]] [[Category:刑死した人物]] [[Category:1320年代生]] [[Category:1353年没]]
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