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勝竜寺城
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{{日本の城郭概要表| img = ファイル:Syouryuuj18.jpg| img_capt = 模擬[[櫓]]と[[虎口]]跡| img_width=300px| name = 勝竜寺城| pref = 京都府| ar_called = 小竜寺城| struct = 梯郭式[[平城]]| tower_struct = [[天守]]に相当する高層建築物が存在していた| builders = [[細川頼春]]か| build_y = [[室町時代]]か[[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])| revamp = [[細川幽斎|細川藤孝]]| rulers = [[細川氏]]、[[永井氏]]他| reject_y = [[慶安]]2年([[1649年]])| remains = [[土塁]]、空[[堀]]等| cultural asset = なし| rebuilding things = 模擬[[石垣]]・櫓| location = {{ウィキ座標2段度分秒|34|55|5.21|N|135|42|2.49|E|scale:10000}}| }} '''勝竜寺城'''(しょうりゅうじじょう)は、現在の[[京都府]][[長岡京市]]勝竜寺に所在した、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[江戸時代]]初期に存在していた[[城]]である。城名は付近の同名古刹([[勝竜寺]])に由来する。 == 概要 == 勝竜寺城は[[京都盆地]]の西南部、[[小畑川]]と[[犬川]]の合流地点に位置し、[[西国街道]]と[[鳥羽街道|久我畷]]が交差する交通上の要衝で、京都では[[山崎城 (山城国)|山崎城]]につぐ防衛拠点であった。また勝竜寺城は[[古墳]]を流用して築いたのではないかと言われているが、『図説中世城郭事典』によると「主郭や沼田丸ではそれらしき痕跡は認められない」としている。 == 沿革 == [[ファイル:勝竜寺城(051125) 09.JPG|left|thumb|勝竜寺城公園の管理棟]] [[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])、[[京都]]をうかがう[[南朝 (日本)|南朝]]方に対抗するため、[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[細川頼春]]が築いた城と言われてきたが、『よみがえる日本の城』によると「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春次男頼有の末裔)」としている。この城の初見は『東寺百合文章ひ』の[[康正]]3年([[1457年]])1月19日に {{Cquote|来る二月八幡御番人夫五人、晦日勝竜寺へ早々越さるべく候|4=東寺百合文章ひ}} とあるので[[山城国|山城]][[守護]][[畠山義就]]が郡代役所として築城したと推定されている。更に[[応仁の乱]]の『野田泰忠軍忠状』の[[応仁]]2年([[1470年]])に、 {{quotation|四月十四日、勝竜寺搦手北の口に於て合戦仕り、安富又次郎相共に馬場犴びに古市を焼落とす|野田泰忠軍忠状}} と記しているので、この頃には[[軍事]]施設して使用されていた。『日本城郭大系』によると「郡代の政庁から城郭に発展した典型的な例」としている。その後有力な[[史料]]には勝竜寺城が現れてこないが、『永禄九年記』の[[永禄]]9年([[1566年]])7月17日に、 {{quotation|小竜寺城、淀城扱いに依て取り退くと云々。小竜寺は岩成、淀は日向の内衆金子これを請け取ると云々|永禄九年記}} とあるので、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期には[[淀古城]]と共に[[松永久秀]]、[[三好三人衆]]の属城となっていた。 {{See also|東大寺大仏殿の戦い#開戦までの経緯}} === 勝竜寺城の戦い === {{battlebox| |battle_name= 勝竜寺城の戦い |image = |caption = |conflict= [[攻城戦]] |date= [[永禄]]11年([[1568年]])9月26日-29日 |place= 勝竜寺城 |result= [[織田信長]]軍[[ファイル:Mon-Oda.png|20px]]の勝利 |combatant1= 織田信長軍[[ファイル:Mon-Oda.png|20px]] |combatant2= [[三好三人衆]]軍[[ファイル:Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg|20px]] |commander1= 織田信長[[ファイル:Mon-Oda.png|20px]]<br/>[[柴田勝家]]<br/>[[蜂屋頼隆]][[ファイル:Ura manji.svg|20px]]<br/>[[森可成]][[ファイル:Maru-ni Mai-zuru.png|20px]]<br/>[[坂井政尚]] |commander2= [[岩成友通]][[ファイル:Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg|20px]] |strength1= 50,000兵 |strength2= 不明 |casualties1 = 不明 |casualties2 = 50兵以上<br/>勝竜寺城落城 |campaign = |}} [[ファイル:Shingen.jpg|thumb|left|upright|織田信長像]] [[観音寺城の戦い]]で勝利した[[織田信長]]は、[[足利義昭]]を奉じて上洛する2日前の[[永禄]]11年([[1568年]])9月26日、[[柴田勝家]]、[[蜂屋頼隆]]、[[森可成]]、[[坂井政尚]]ら4人の家臣に先陣を命じ、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡河し[[三好三人衆]]の[[岩成友通]]が守る勝竜寺城を攻撃させた。 岩成友通は[[足軽]]衆を全面に押し立て応戦したが、織田軍は精鋭の[[馬廻り]]衆を乗り入れ戦いを有利に進めて首級を50余りあげ、上洛を果たしていた信長の陣所である[[東福寺]]へ届けたとされる。 自ら首改めを済ませた信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、信長自身が5万兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かった。畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆であったが、織田方の大軍を前に降伏・開城する。これは観音寺城の戦いで[[近江国|近江]]守護であった[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子が織田軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに[[観音寺城]]が落城したことが少なからず影響していたと考えられている。 その後信長は[[芥川山城]]、[[越水城]]、[[高屋城]]を攻城、降伏させていき、三人衆を[[阿波国|阿波]]に追い出し畿内から掃討することになる。{{-}} [[元亀]]2年([[1571年]])、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。同年10月14日の信長より藤孝宛ての『印判状』には {{quotation|勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し|織田信長の印判状}} とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている。この頃の勝竜寺城は[[槇島城]]と共に信長の山城の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われる。 [[ファイル:Syouryuuj9.jpg|thumb|城内にある[[細川忠興]]・[[細川ガラシャ|ガラシャ]]像]] また勝竜寺城は[[細川忠興]]・[[細川ガラシャ|ガラシャ]]夫妻ゆかりの城としても有名である。[[天正]]6年([[1578年]])8月、藤孝の嫡男忠興と[[明智光秀]]の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な[[結婚式]]を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。 細川藤孝は天正9年([[1581年]])に[[丹後国|丹後]]に入封し、代わって[[村井貞勝]]の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]によって明智光秀の属城となる。同年の[[山崎の戦い]]で敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]軍の追撃を受け、勝竜寺城から[[坂本城]]へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、[[家督]]を忠興に譲って居城を[[田辺城 (丹後国)|田辺城]]に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。 [[江戸時代]]に入った[[寛永]]10年([[1633年]])、[[永井直清]]が[[高槻藩#山岡長岡藩|山城長岡藩]]へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、[[江戸幕府]]より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。この際に不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、[[慶安]]2年([[1649年]])に直清が[[摂津国|摂津]][[高槻藩]]に転封されると同時に完全に廃城となった。 === 現在 === 本丸および沼田丸趾が[[1992年]](平成4年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、当城北東に位置する神足神社境内に空堀や土塁が残る。 また、細川忠興・ガラシャ夫妻にちなんだ「長岡京ガラシャ祭」が毎年秋に開催され、当時の様子を模した行列巡行などが行われている。 == 城郭 == [[ファイル:Syouryuuj22.jpg|300px|thumb|勝竜寺城の推定城郭部分/{{国土航空写真}}]] 勝竜寺城の主郭部分は東西120m、南北80mの長方形をしており、東、北側の幅12mの水[[堀]]を残している。また東、西、北の三面には[[土塁]]が残っている。西側の土塁は高さ10m、幅5mと大規模なものである。南側の土塁、堀は消滅してしまったが[[大正]]11年([[1922年]])の[[地図]]には記載されており、主郭部分を堀と土塁が巡っていた。またこの主郭の西側には「沼田丸」という曲輪があった。これは細川藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったのではないかと伝えられている。また大正11年の地図には沼田丸周囲にも堀が描かれていた。現在は勝竜寺城公園の駐車場がある。それ以外の曲輪として、 * 松井屋敷 * 米田屋敷 * 神足屋敷 等があった。主郭部分より北東に200mの地点に[[神足神社]]があり、そこから南側に東西に[[土塁]]と空堀がある。この空堀の中央部分には土橋が架かっており、この土橋に対して西側土塁が張り出した部分が、横矢がかかる構造となっている。大正11年の地図には、この土塁跡から[[JR京都線]]まで続いており、更に北側には並行してもう一本土塁があり、勝竜寺城の北方防御であったと思われる。『米田文章』にある元亀2年に細川藤孝が改修した「外二重堀」とは、この土塁跡の[[遺構]]を指すと思われている。主郭部分の南側は現在住宅地が密集しているが、大正11年の地図には堀や土塁らしきものがあり、『図説中世城郭事典』によると「城郭の一部であったと推定できる」としている。勝竜寺城は[[永正]]時代までは方形単郭館であったものを、元亀2年に細川藤孝が大幅に改修したと考えられている。 また『東山文庫記』によると天正2年([[1574年]])に「御主」が存在していたようで、[[安土城]]築城に先行する数少ない[[天守]]であったことを示している。現在[[石垣]]は全く認められないが[[昭和]]54年([[1979年]])の発掘調査で石仏二体と石材数個、また大量の栗石が検出され、この発掘調査以外からも勝竜寺城の大半が石垣によって築かれたことが推定されている。また[[虎口]]部分が枡形虎口となっていることも明らかにあり、織豊系城郭であることが明確になっている。{{-}} === 主郭部分 === <gallery> ファイル:Syouryuuj12.jpg|模擬隅櫓と堀跡 ファイル:Syouryuuj17.jpg|模擬塀と堀跡 ファイル:Syouryuuj12.jpg|隅櫓推定地 ファイル:Syouryuuj4.jpg|勝竜寺城公園の石標 </gallery> === 沼田丸部分 === <gallery> ファイル:Syouryuuj2.jpg|沼田丸跡/勝竜寺城公園の駐車場 ファイル:Syouryuuj21.jpg|井戸跡/沼田丸跡にある ファイル:Syouryuuj19.jpg|主郭と沼田丸を区切る西側土塁跡 </gallery> === 神足神社土塁部分 === <gallery> ファイル:Syouryuuj15.jpg|土塁登頂部部分 ファイル:Syouryuuj14.jpg|空堀 ファイル:Syouryuuj13.jpg|土塁跡 ファイル:Koutarij3.jpg|神足神社の拝殿 </gallery> == 城跡へのアクセス == * 電車でのアクセス ** [[西日本旅客鉄道|JR西日本]] [[JR京都線|京都線]] [[長岡京駅]] → 徒歩約10分 * 車でのアクセス ** [[名神高速道路]] [[大山崎インターチェンジ|大山崎IC]] → [[京都府道211号下植野長岡京線]] ** 勝竜寺城公園に数台の無料駐車場有り == 参考文献 == [[ファイル:Syouryuuj5.jpg|thumb|勝竜寺城の出土物]] * 『図説中世城郭事典』第二巻、[[新人物往来社]]、1987年6月、318頁-320頁。 * 『よみがえる日本の城(19)』学研、2005年6月 58頁。 * 『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、64-65頁。 * 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』六、新人物往来社、1989年1月、66-67頁。 * 泉秀樹『天下取り73城-信長・秀吉・家康の野望と夢のあと-』学習研究社、2005年7月、58-59頁。 * 西ヶ谷恭弘『戦国の城 中巻<西国編>』学習研究社、2005年2月、38-39頁。 == 関連項目 == * [[日本の城一覧]] * [[日本の合戦一覧]] * [[三好政権]] * [[織田政権]] * [[久米田の戦い]] * [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Shouryuuj Castle}} * [http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.91477194&lon=135.703025&sc=3&mode=map&pointer=on&home=on 勝竜寺城跡周辺地図/YAHOO!地図情報] * [http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.91659291&lon=135.70524015&sc=1&mode=map&pointer=on&home=on&hlat=34.91477194&hlon=135.703025 勝竜寺城の土塁周辺地図/YAHOO!地図情報 ] * [http://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000001138.html 勝竜寺城公園の紹介/長岡京市役所公式ホームページ] * [http://www.nagaokakyo-kankou.jp/syoryu_kouen/index.html 勝竜寺城公園/長岡京市観光協会公式ホームページ] *[http://kojodan.jp/castle/135/ 勝龍寺城の観光ガイド] {{DEFAULTSORT:しようりゆうししよう}} [[Category:京都府の城]] [[Category:長岡京市の歴史]] [[Category:山城国|城しようりゆうし]]
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