コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
加藤嘉明のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
加藤嘉明
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 加藤 嘉明 | 画像 = Katō Yoshiaki.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 加藤嘉明像(藤栄神社蔵) | 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[永禄]]6年([[1563年]]) | 死没 = [[寛永]]8年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]([[1631年]][[10月7日]]) | 改名 = 茂勝(初名)→嘉明 | 別名 = 孫六(通称) | 戒名 = 松光院殿 | 墓所 = [[京都府]][[京都市]][[東山区]]の大谷祖廟 | 官位 = [[従五位]]下、[[従四位]]下、左馬助、[[侍従]]<br />贈[[従三位]] | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]] | 藩 = [[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]主→[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]主 | 氏族 = [[加藤氏]] | 父母 = 父:[[加藤教明]]、母:堀部氏 | 兄弟 = '''嘉明'''、[[加藤忠明|忠明]] | 妻 = 正室:[[堀部市右衛門]]の娘 | 子 = '''[[加藤明成|明成]]'''、[[加藤明信|明信]]、[[加藤明利|明利]]、娘([[松下重綱]]室)、娘([[南部重直]]正室)、娘([[池田長政]]室、のち[[日野光慶]]室) }} '''加藤 嘉明'''(かとう よしあき/よしあきら)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]主、のち[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]初代藩主となる。 [[賤ヶ岳の戦い#賤ヶ岳の七本槍|賤ヶ岳の七本槍]]・[[七将]]の一人。通称は孫六。'''嘉明'''は晩年の名乗りで、はじめ'''繁勝'''を名乗る。 == 生涯 == === 秀吉時代 === 永禄6年(1563年)、[[三河国]]の[[徳川家康|松平家康]]の家臣である[[加藤教明]](岸教明)の長男として生まれる。生まれた年の[[三河一向一揆]]で、父が一揆側に属して家康に背き、流浪の身となったため、嘉明も放浪する。 やがて[[尾張国]]で、[[加藤景泰]]([[加藤光泰]]の父)の推挙を受けて羽柴秀吉([[豊臣秀吉]])に見出され、その[[小姓]]として仕えるようになる。[[織田信長]]死後の[[天正]]11年([[1583年]])には、秀吉と[[織田氏|織田家]]筆頭家老の[[柴田勝家]]との間で行われた[[賤ヶ岳の戦い]]で、[[福島正則]]、[[加藤清正]]らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。 秀吉は信長の統一政策を継承し、嘉明は天正13年([[1585年]])の[[四国攻め]]、天正15年(1587年)の[[九州征伐]]、天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]などに[[水軍]]を率いて参加した。それらの武功から、天正14年([[1586年]])には[[淡路国|淡路]]志智において1万5,000石を与えられ、大名となっている。 [[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では、[[水軍]]を統率して[[李舜臣]]指揮の[[李氏朝鮮|朝鮮]]水軍と戦った。その功績により、文禄4年([[1595年]])には、[[伊予国]]正木([[愛媛県]][[松前町 (愛媛県)|松前町]])に6万石を与えられている。その後、[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]においては、[[漆川梁海戦]]で[[元均]]率いる朝鮮水軍を壊滅させ、[[蔚山城の戦い]]では[[明]]・朝鮮軍の包囲で篭城し、食糧の欠乏に苦しんだ[[蔚山倭城|蔚山城]]([[倭城]])の清正を救援する武功も立て、10万石に加増されている。 === 関ヶ原 === 慶長3年([[1598年]])8月に秀吉が死去すると帰国し、[[豊臣政権]]における[[五奉行]]の[[石田三成]]らと[[五大老]]の徳川家康の争いでは家康派に属する。 慶長4年([[1599年]])、五大老の一人[[前田利家]]の死後に加藤清正らが三成殺害を企てた事件には、嘉明も襲撃メンバーに参加している。 [[ファイル:Matsuyama castle(Iyo)5.JPG|thumb|right|250px|[[松山城 (伊予国)|松山城]](麓に二之丸(史跡庭園)、山頂に本丸、その間を結ぶ「[[登り石垣]]」(右側))]] 慶長5年([[1600年]])、家康が会津の[[上杉景勝]]の謀反を主張して討伐を発令すると、嘉明も従軍する。家康らの[[大坂城|大坂]]留守中に三成らが挙兵し、引き返した東軍(徳川方)と[[美濃国|美濃]]で衝突して[[関ヶ原の戦い]]に至ると、嘉明は前哨戦である[[岐阜城の戦い|岐阜城攻め]]や[[大垣城]]攻めにおいて戦い、本戦では石田三成の軍勢と戦って武功を挙げた。留守中の伊予本国でも家臣の[[佃十成]]が[[毛利輝元]]の策動を受けた侵攻軍を撃退している([[関ヶ原の戦い#伊予方面]])。 戦後、その功績により伊予松山20万石に加増移封され、[[松山城 (伊予国)|松山城]]の建築を開始する(完成は[[蒲生忠知]]の時代) === 江戸大名として === 豊臣恩顧の大名であったため、慶長19年([[1614年]])からの豊臣氏との戦いである[[大坂の陣|大坂冬の陣]]では[[江戸城]]留守居を務め、慶長20年([[1615年]])の[[大坂の陣|大坂夏の陣]]では2代将軍・[[徳川秀忠]]に従い、同じく[[七将]]の[[黒田長政]]と陣を敷き参戦した。 [[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])には、福島正則の[[改易]]で[[広島城]]の接収を行った。 [[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])には、[[徳川家光]]の[[鎧着初]]で、介添役を務めた。 [[寛永]]4年([[1627年]])、会津の[[蒲生忠郷]]死後の騒動で[[蒲生氏]]が減転封となって[[伊予松山藩]]へ移り、入れ替わりで嘉明が[[会津藩]]40万石に加増移封された。寛永8年(1631年)9月12日に江戸で死去した。享年69。 == 子孫 == 嘉明の死後、家督は嫡男の[[加藤明成|明成]]が継いだが、明成が暗愚なために家中で[[堀主水]]立ち退き事件が起こって[[江戸幕府]]の介入を招き、減封、嗣子を立てて家名存続との裁定となる。しかし明成が、正室をはばかって子息はないと頑固に主張したため改易され、[[庶子]]の[[加藤明友|明友]]が[[近江国|近江]][[水口藩]]2万石に封じられることで名跡が保たれた。 == 人物・逸話 == === 武略 === 加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳七本槍の一人として名を馳せた。武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将であり、「沈勇の士」とその活躍ぶりを謳われている。 関ヶ原の前哨戦である[[岐阜城の戦い|岐阜城攻防戦]]では、[[井伊直政]]が「岐阜城など一気に総攻めにして抜くべき」と述べたのに対して「岐阜城は堅固な城。一気に抜くことなど不可能で、精々根小屋を焼き払えるくらいだ」と述べて反対した。このため作戦をめぐって口論となり、刀に手をかけるまでになったが、諸将が抑えてその場は落着した。だが嘉明は「敵は守りを充分に固めておらず一気に抜くことができる」と戦場を見て冷静に分析した。そして攻め寄せた[[池田輝政]]と福島正則によって、東軍はほとんど兵を損なわずに岐阜城を陥落せしめ、諸将は嘉明の作戦能力を賞賛したという([[真田増誉]]の『[[明良洪範]]』)<ref name="世界人物逸話大事典P260">[[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 平成8年2月、P260</ref>。 === 政治 === 築城や城下町の建設などにも力量を発揮した。愛媛県においては、現在でも松山城築城の評価は高く、嘉明の騎馬に乗った銅像が建立されている。 === 家臣に対する対応 === 嘉明は「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である」と発言している。力が弱かったとしても、団結力と連携を活かせば恐るべき抵抗力を発揮するから、との理由である。逆に豪傑肌の人間は「勝っているときは調子がいいが、危機には平気で仲間を見捨てる」と手厳しい。[[塙直之]]との確執も、この人間観に起因している部分が大きい。 嘉明の家中では槍の柄は、長短いずれであっても可とされたが、槍穂の長さは4寸(約12センチ)と定められていた。つまり短すぎると、甲冑・具足を貫くことができても身体にまで届かぬことがあるため「己を慎む者に失敗は無い。何事にも馴れたつもりで功者ぶる者は必ず仕損ずる者である」と嘉明は常に言っていたという。加藤家は平素からの躾を大切にすることが、一旦急の場合でもまごつかず失敗せぬものとされていた([[山鹿素行]]の『[[武家事紀]]』)<ref name="世界人物逸話大事典P260"/>。 寛大な一面もあった。嘉明は[[南蛮人|南蛮]]渡来の焼物を多く持っており、その中に虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品があった。ある日、客を饗応する準備の最中に、嘉明の近習が誤って1枚を割ってしまった。それを聞いた嘉明は、近習を叱るどころか、残り9枚の小皿をことごとく打ち砕いた。そして言うには「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。およそ着物・草木・鳥類を愛でる者はそのためにかえって家人を失う。主たる者の心得るべきことである」と述べている(真田増誉の『明良洪範』)<ref name="世界人物逸話大事典P260"/>。 あるとき、小姓らが主君の不在をよいことに、囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに嘉明がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て嘉明は、素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てたという([[真田増誉]]の『明良洪範』)<ref name="世界人物逸話大事典P260"/>。 == 家臣 == * [[佃十成]] * [[塙直之]] * [[足立重信]] == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == ;書籍 * [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]] ;史料 == 関連作品 == ; 小説 * [[徳永真一郎]]「加藤左馬助嘉明」(『賤ヶ岳七本槍』(PHP文庫)収録) * [[南条範夫]]「口惜しや忰の愚昧-加藤左馬助嘉明」(『おのれ筑前、我敗れたり』(文春文庫)収録) {{伊予松山藩主|[[加藤氏|加藤家]]||1600年 - 1627年}} {{会津藩主|加藤氏|初代|1627年 - 1631年}} {{DEFAULTSORT:かとう よしあきら}} [[Category:三河加藤氏|よしあきら]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:外様大名]] [[Category:会津藩主|加01]] [[Category:伊予松山藩主|加]] [[Category:三河国の人物]] [[Category:水軍]] [[Category:1563年生]] [[Category:1631年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:伊予松山藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:会津藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
加藤嘉明
に戻る。
検索
検索
加藤嘉明のソースを表示
話題を追加