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劉知幾
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'''劉 知幾'''(りゅう ちき、[[661年]]([[龍朔]]元年) - [[721年]]([[開元]]9年))は、[[中国]][[唐]]代の[[歴史家]]。 [[徐州]][[彭城]]([[江蘇省]][[徐州市]])の生まれで、[[字]]は子玄、名の「知幾」と[[玄宗 (唐)|玄宗]]の[[諱]]である「隆基」との音が近く通ずるので避け、字の劉子玄の方が著聞している。彭城の劉氏は、[[漢]]の[[宣帝 (漢)|宣帝]]の子に当たる楚の孝王の末裔とされる土地の名族である。父は、侍御史であった劉蔵器であり、伯父は国史の編纂に関与した。そのような家庭環境に育ったため、劉知幾も古典・史書の研究に励んだ。 20歳で[[進士]]に及第した後は、史学の研究に専心し、42歳の時に著作佐郎を任命されて、修史の任に与った。ただ、史書の編纂において、自己の史学研究の成果を発揮できなかったため、自著である『[[史通]]』20巻をものして世に問うた。本書は、中国における史学批判および史学理論の最初の書とされる。よって、中国での純粋な[[歴史学]]の創始者は、劉知幾であるとされる。 後世、『史通』は歴史研究者の必読の書となったが、文章が難解であるため、[[清]]の浦起龍の注釈書である『史通通釈』20巻によって読まれることが多い。 劉知幾は、正三品下という左散騎常侍にまで栄達したが、その長男である劉貺(りゅう きょう)が罪を犯したことに連坐し、安州別駕という地方の属官に降格され、61歳で不遇のうちに病死した。没後、主著の『史通』が玄宗の前で講じられ、玄宗の心を動かしたことで、罪を赦され工部尚書を追贈された。 劉知幾が関わった史書には、『高宗実録』『則天大聖皇后実録』『中宗実録』『三教珠英』『姓族系録』等があり、著書には『劉氏家史』『劉氏譜考』『劉子玄集』等があったというが、散佚して伝わらない。 == 伝記資料 == * 『[[旧唐書]]』巻102 * 『[[新唐書]]』巻132 * 傅振倫『劉知幾年譜』([[1934年]]) {{DEFAULTSORT:りゆう ちき}} [[Category:近代以前の中国の歴史家]] [[Category:7世紀の学者]] [[Category:8世紀の学者]] [[Category:唐代の人物]] [[Category:徐州出身の人物]] [[Category:661年生]] [[Category:721年没]]
劉知幾
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