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劉基
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{{Otheruses|中国[[元 (王朝)|元]]末期から[[明]]初期の[[軍人]]・[[政治家]]・[[軍師]]|[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[政治家]]|劉基 (呉)}} {{出典の明記|date=2012年9月|ソートキー=人1375年没}} [[File:Liu Ji.jpg|thumb|220px|劉基 『晩笑堂竹荘畫傳』より]] '''劉基'''(りゅうき、[[1311年]] - [[1375年]])は[[中国]][[元 (王朝)|元末]][[明|明初]]の[[軍人]]・[[政治家]]・[[詩人]]・[[軍師]]。[[字]]は'''伯温'''。[[諡]]は文成。[[浙江省]][[温州]][[文成県]]南田出身。出身地の文成が後に'''青田'''とよばれたことから'''劉青田'''とも称される。 ==人物== [[朱元璋]]に仕えて明を建国するに際し大きな功績を上げ、その後の明を安定させることに尽力した。また、[[宋濂]]と並んで当代随一の文筆家としても知られ、その著書として『郁離子』十巻、『覆瓿集』二十四巻、『写情集』四巻、『犁眉公集』五巻を後世に残す(ただし、この内『犁眉公集』五巻は、劉基没後、彼の長男の[[劉璉]]が父の残した草稿を集成し、名づけたものである)。中国では魔術師的な軍師として崇拝を受けており、[[諸葛亮]]と並び称され明初を舞台とする小説、戯曲等に登場することが多い。小説や戯曲ではもっぱら字で呼ばれるので、歴史上の人物であるにも関わらず字を取った劉伯温の方が親しまれている。[[二男]]は[[劉璟]]。 ==略歴== 元末の[[科挙]]に合格して[[進士]]となり、元の地方官を努めたが、上司と衝突して退官して故郷に隠棲する。[[南京市|南京]]を陥落させて[[呉]]国公となった朱元璋は当地の知識人たちを自らの幕下に招聘した<ref>中でも[[至正]]19年(1359年)に招聘した「浙東の四先生」が名高い。四先生とは、浦江の[[宋濂]]、竜泉の章溢、麗水の葉琛(玉偏に探の旁)、そして、青田の劉基をいう。</ref>。劉基は朱元璋の招聘に応じた知識人の一人であり、以後劉基は朱元璋の軍師として活躍する。 軍師としての劉基は[[紅巾の乱|紅巾軍]]の名目的な首領である[[韓林児]]に対して、「牧童に過ぎない。こんな者を奉じてどうなる!」と大喝したり、朱元璋が[[湖南省|湖南]]の[[陳友諒]]を措いて、[[蘇州市|蘇州]]の[[張士誠]]を討とうとした時に諌めて、先に陳友諒を討つべきと進言したりしている。 これらの進言に対して朱元璋も劉基を厚く信頼し「我が子房([[張良]]のこと)」と呼んでいた<ref>つまり朱元璋は自分を[[劉邦]]になぞらえているわけである。劉基は朱元璋に「劉邦のようにすれば天下を取ることができる」と進言している。</ref>。 劉基は明が成立すると[[太史令]]から御史中丞となり、主に綱紀粛正に取り組んだ。しかしそのことで[[李善長]]・[[胡惟庸]]などの他の家臣からの恨みを買い、朱元璋の耳に劉基の讒言が入る。しかしその中でも劉基は公正であり続け、李善長が罪に問われた時に李善長をかばったりもしている。 その後も讒言は止まず、退官して故郷へ引退した。猜疑心の強かった朱元璋も劉基に対する讒言には「あいつが取って代わる気があるのなら、建国以前にその機会はいくらでもあった」として相手にしなかったが、それでも讒言が続いた。このため、劉基は朱元璋の疑いを避けるために南京に逗留した。そこで病にかかり、死亡。 劉基の死後、胡惟庸に対して劉基を毒殺したとの疑惑がかけられ<ref>劉基の死因が胡惟庸による毒殺であるという説が有力である。Wikipediaにおいても[[朱元璋#粛清]]ではこの説を採用している。</ref>、これをきっかけとして[[胡藍の獄#胡惟庸の獄|胡惟庸の獄]]と呼ばれる大粛清が始まる。 ==伝説== 中国においては劉基は[[朱元璋]]と並ぶかそれ以上の知名度を誇っており、李善長や[[徐達]]と言った他の朱元璋の功臣達とは比べ物にならない。これには明代の小説や講談に劉基が主役として取り上げられたことが要因としてあり、小説や講談に登場する劉基は予言者として描かれている。劉基によるとされている予言書の中で名高いものが『焼餅歌』(シャオピングー)である。 『焼餅歌』の伝説では、ある日、朱元璋が焼餅(シャオピン) <ref>日本でいうお焼きのようなもの。油を加えて軟らかく練った小麦粉で作った皮で、ひき肉や野菜のアンを包んで鉄板の上で焼いたもの。</ref> を食べていた時に劉基が拝謁を求めて宮中を訪れた。朱元璋は食べかけの焼餅を碗に隠しておいてそれを劉基に占いで当てさせた。このときの劉基の答えは以下のように伝わっている。 <blockquote>半似日兮半似月。曾被金龍咬一缺。此食物也。<br> 日のように丸く月のように欠けている。それは金龍が一口齧ったのです。それは食べ物です。</blockquote> 伝説では、この答えに驚いた朱元璋が劉基に懇願して明の将来をも占わせ、劉基はそれに対して暗喩に満ちた詩で占った結果を述べたとされる。そのため劉基が作ったとされる予言詩全体が『焼餅歌』と呼ばれている。『焼餅歌』の解釈本は多数あり、明の将来を越えて遥か未来まで占ったと解釈しているものも多い。それらの中には[[原子爆弾]]の発明まで予言したとするものさえある<ref>[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]の中国版であるが、中国にはこのような予言詩集が複数伝わっている。『[[推背図]]』は日本でもその存在が良く知られている。</ref>。 劉基自身は儒者であったにも関わらず、このような魔術師的な軍師のイメージが増幅したため、占卜書の著者に仮託されたりした<ref>有名なものに、[[四柱推命]]の古典である「滴天髄」がある。</ref>。 劉基の人気は現代でも非常に高く、劉基を主役としたTVドラマ <ref>日本の水戸黄門のように、腕利きの供を連れて諸国を漫遊し各地で悪を懲らしめるという『劉伯温伝奇』が有名。</ref> ・ゲームなどが作られている。 『[[三国志演義]]』の[[赤壁の戦い]]の火計の描写は劉基の進言により陳友諒を火計で破った時の描写を[[羅貫中]]が参考にしたと言われており、また演義の中の諸葛亮の人物描写も劉基を元にしていると言われる。 == 脚注 == <references/> == 外部リンク == [http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/liuji.html 劉伯温(劉基)] {{DEFAULTSORT:りゆう き}} [[Category:中国の儒学者]] [[Category:中国の軍学者]] [[Category:中国の詩人]] [[Category:14世紀の学者]] [[Category:明代の人物]] [[Category:温州出身の人物]] [[Category:1311年生]] [[Category:1375年没]]
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