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{{基礎情報 過去の国 |略名 = 前趙 |日本語国名 = 前趙 |公式国名 = 漢→趙 |建国時期 = [[304年]] |亡国時期 = [[329年]] |先代1 = 南匈奴 |先旗1 = blank.png |先代2 = 西晋 |先旗2 = blank.png |次代1 = 後趙 |次旗1 = blank.png |位置画像 = Map of Sixteen Kingdoms 1.png |位置画像説明 = 前趙の領域。 |公用語 = 漢語([[中国語]])、{{仮リンク|匈奴語|zh|匈奴语}} |首都 = 左国城<br/>蒲子<br/>平陽<br/>[[長安]] |元首等肩書 = 漢王→[[皇帝]] |元首等年代始1 = [[304年]][[10月]] |元首等年代終1 = [[310年]][[6月]] |元首等氏名1 = [[劉淵]] |元首等年代始2 = [[310年]][[6月]] |元首等年代終2 = [[310年]][[7月]] |元首等氏名2 = [[劉和]] |元首等年代始3 = [[310年]][[7月]] |元首等年代終3 = [[318年]][[7月]] |元首等氏名3 = [[劉聡]] |元首等年代始4 = [[318年]][[7月]] |元首等年代終4 = [[329年]][[8月]] |元首等氏名4 = [[劉粲]] |元首等年代始5 = [[318年]][[10月]] |元首等年代終5 = [[328年]][[12月]] |元首等氏名5 = [[劉曜]] |元首等年代始6 = [[328年]][[12月]] |元首等年代終6 = [[329年]][[9月]] |元首等氏名6 = [[劉煕]] |変遷1 = 漢の建国 |変遷年月日1 = [[304年]] |変遷2 = 国号を趙に改める |変遷年月日2 = [[319年]] |変遷3 = [[後趙]]によって滅亡 |変遷年月日3 = [[329年]] }} '''前趙'''(ぜんちょう、[[拼音]]:Qiánzhào、[[304年]] - [[329年]])は、[[中国]]の[[五胡十六国時代]]に存在した国。建国者は[[劉淵]]。当初の国号は'''漢'''であり、劉曜の時代に'''趙'''に改めたため、'''漢趙国'''ともいわれる<ref name="民族大移動60">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P60</ref>。同時代に[[石勒]]が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を[[後趙]]と呼んで区別している。 == 歴史 == === 建国期 === [[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]は[[匈奴]]や[[鮮卑]]などの周辺民族を傭兵として雇い入れていた。[[後漢]]末期に服属した[[南匈奴]]の[[単于]]の末裔である劉淵は、[[西晋]]から匈奴の五部大都督に任じられていた。 西晋では[[290年]][[4月]]に[[司馬炎]](武帝)が崩御すると皇族による内紛、いわゆる[[八王の乱]]が起こり、劉淵は匈奴の兵力を利用しようとした[[成都]]王[[司馬穎]]により[[ギョウ|鄴]](現在の[[河南省]][[臨ショウ県|臨漳県]])に留められて行寧朔将軍・輔国将軍・冠軍将軍に任命された<ref name="民族大移動57">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P57</ref>。しかし八王の乱が激化すると匈奴内部では自立を図る声が大きくなり、劉淵の従祖父である[[劉宣]]は劉淵を大単于に推戴した<ref name="民族大移動57"/>。司馬頴は鮮卑や鳥桓を動かして対立していた東海王[[司馬越]]・[[司馬騰]]兄弟や安北将軍[[王浚]]に対抗するため<ref name="民族大移動57"/>、304年8月に劉淵を山西に戻したが、間もなく劉淵は離石(現在の[[山西省]][[呂梁市]][[離石区]])で大単于を称して自立した<ref name="民族大移動58">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P58</ref>。司馬穎が司馬越らに敗れて[[洛陽]]に逃れると、10月には漢王を自称し、独自の元号を建てて事実上独立し、漢(前趙)を建国した<ref name="民族大移動58"/>。国号を漢としたのは、劉淵の祖と漢室の婚姻関係により、また三国時代の[[蜀]]の最後の皇帝[[劉禅]]に孝懐皇帝と追尊して、さらに[[前漢]]の高祖[[劉邦]]らの神主を祭って自ら前漢・後漢・蜀漢の後継者と称し、直接的には劉禅の後継者と称した<ref name="民族大移動58"/>。 === 劉淵から劉聡へ === 劉淵は息子の[[劉聡]]、親族の[[劉曜]]を従えて司馬騰を破り、河東地域を占領した<ref name="民族大移動58"/>。この勢力拡大の過程で羯族の[[石勒]]や[[漢民族]]の名族の[[王弥]]・[[劉霊]]などを従えて[[山西省|并州]]を攻略するだけではなく有能な人材も手に入れている<ref name="民族大移動58"/>。[[308年]][[10月]]には[[蒲子]]において劉淵は皇帝に即位し、[[309年]][[1月]]には[[臨汾市|平陽]]に遷都した<ref name="民族大移動58"/>。劉淵は西晋を滅ぼすべく[[洛陽]]に何度も攻め入った。だが[[306年]][[12月]]に西晋も東海王司馬越の下で懐帝が擁立されて八王の乱は平定されており<ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>、漢軍は劉聡を中心にして西晋を攻撃したが、その都度司馬越に敗れて勢力拡大を阻まれていた。 [[310年]][[6月]]に劉淵が病死し、長男の[[劉和]]が継いだ。だが、暴君の劉和には人望が無く兄弟を排除して地位の安定を図ったため、7月に弟の楚王劉聡が謀反を起こし、劉和は母方の叔父の[[呼延攸]]と共に劉聡と内通した部下によって殺された<ref name="民族大移動59">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P59</ref>。 === 華北の覇者 === 劉聡は西晋を滅ぼすべく、現在の[[河北省]]・[[山東省]]方面の経略に力を注いだ<ref name="民族大移動59"/>。[[311年]]になると西晋内部では懐帝と司馬越が対立し、遂に懐帝は司馬越討伐の勅命を発するに至り、司馬越は逃亡先で間もなく憂憤の内に病死<ref name="民族大移動48"/>。この混乱の隙を突いて配下の石勒は司馬越軍10万余を殺害し、西晋の抵抗力と統治力を完全に破壊した。そして6月、劉聡は劉曜・王弥・石勒に命じて[[洛陽市|洛陽]]を陥落させて宮殿や宗廟を焼き払い、3万人以上を殺し、[[懐帝 (西晋)|懐帝]]を捕らえて平陽に連行し、西晋を実質的に滅ぼした([[永嘉の乱]])<ref name="民族大移動48"/><ref name="民族大移動59"/>。この直後に劉聡は王弥と対立したが、王弥は石勒に殺害された<ref name="民族大移動59"/>。 西晋の残党は懐帝の甥[[愍帝 (西晋)|愍帝]]を擁立してなおも漢に抵抗していたが、劉聡は劉曜に命じて[[長安]]を攻撃させ、[[316年]][[11月]]に長安は陥落して愍帝は平陽に拉致され、[[317年]]12月に劉聡は処刑して西晋を完全に滅ぼした<ref name="民族大移動49">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49</ref><ref name="民族大移動59"/>。こうして漢は華北の主要地域を支配下に置く<ref name="民族大移動59"/>覇者となった。なお、これ以降は[[五胡十六国時代]]と呼ばれ、生き残った晋の皇族は[[東晋]]を建国した。 === 異常事態 === 華北の覇者となった劉聡であるが、華北全土を統一していたわけではなかった。河北にはまだ[[劉琨]]や王浚ら西晋の残党や[[前涼]]が割拠していたからである<ref name="民族大移動60"/>。これらの内、劉琨や王浚は石勒により平定され、今度は石勒の権力が漢内部で強大化するようになった<ref name="民族大移動60"/>。また、劉聡は華北の覇者になった頃から酒と女に溺れ出し、かつての英明さを失いだした。その一例が皇后鼎立一件に現れた(詳しくは後述)。劉聡は皇后の呼延氏が死去すると、複数の皇后を取り立てて後宮を拡大するなどしたため、[[外戚]]や[[宦官]]の政治介入を招いて乱脈政治を横行させ、同時期に起こった平陽方面の飢饉も漢の衰退を助長した<ref name="民族大移動60"/>。 [[318年]][[7月]]に劉聡が死去すると、息子の[[劉粲]]が跡を継ぐが、8月に外戚の[[キン準|靳準]]が反乱を起こして劉粲を殺害し、さらに平陽にいた劉氏一族をも殺害した上で、靳準は漢天王を自称して東晋に投降を申し入れた事により、漢はいったん滅亡した<ref name="民族大移動60"/>。 === 劉曜の再興と挫折 === 318年10月、漢の[[相国]]・都督中外諸軍事として長安に駐屯していた劉曜は、[[蒲阪]](現在の[[山西省]][[永済市]])で皇帝に即位し、漢を再興した<ref name="民族大移動60"/>。12月には石勒と協力して平陽の靳準を滅ぼし、長安に遷都して国号を趙と変更した<ref name="民族大移動60"/>。この際、石勒は趙公に封ぜられたが、[[319年]][[11月]]に自立し襄国(現在の[[河北省]][[邢台]])で大単于・趙王を称して[[後趙]]を建国した<ref name="民族大移動60"/>。このため、華北は西に劉曜の前趙、東に石勒の後趙が二分して争う事態となった<ref name="民族大移動60"/>。 劉曜は北や西に割拠する前涼や[[仇池|前仇池]]に対して勢力を拡大して後趙に対抗したが、後趙は石勒の下で急速に国力を増強し、次第に押されるようになる<ref name="民族大移動61">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P61</ref>。[[328年]][[7月]]、劉曜は後趙の攻撃を撃退し、洛陽を奪回するために[[親征]]した<ref name="民族大移動61"/>。これに対して後趙も石勒自らが迎撃し、双方10万を超える大軍で激戦を繰り広げたが、劉曜は敗れて石勒の従子[[石虎]]に捕らえられ、処刑された<ref name="民族大移動60"/><ref name="民族大移動65">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P65</ref>。 === 滅亡 === 劉曜の死後、[[皇太子]]の[[劉煕]]が跡を継いだ<ref name="民族大移動61"/>。しかし後趙に攻められて長安を放棄して西に逃亡する<ref name="民族大移動61"/>。しかし[[329年]][[9月]]、現在の[[甘粛省]][[天水市]]において石虎に殺され、前趙は完全に滅亡した<ref name="民族大移動61"/>。 == 統治機関 == 劉淵は皇帝に即位すると同時に[[大司馬]]・大[[司空]]・大[[司徒]]・相国・[[御史大夫]]・[[太尉]]などの中国王朝官制を整備した<ref name="民族大移動58"/>。 [[314年]]、劉聡の時代には国土の大幅な拡大もあって官職の整理が行なわれ、漢族に対しては左右司隷を設置して20数万戸を統括し、五胡に対しては単于左右輔を置いてそれぞれ10万落を統括させた<ref name="民族大移動59"/>。これは以前から行われていた次期皇帝予定者を大単于とする制度とともに、五胡と漢族両世界に目を配った二重統治体制あるいは民族分治であり、それまでの中国王朝や遊牧国家には見られない画期的な新体制で以後の王朝のモデルにもなった<ref name="民族大移動59"/>。しかし劉聡の晩年、皇后が死去すると漢人名族の[[劉胤]]の娘2人と孫娘4人を貴人に取り立て、さらに上左右の3皇后制度を制定し、さらに靳準の娘を上皇后・右皇后に取り立てて後宮の拡大を行ない、遂には3人の皇后の他に皇后の璽綬を持つ者が7人にも及ぶという異常事態となり、かつての前漢・後漢・蜀漢のように外戚や宦官の政治介入を招いて国家の衰亡を招いた<ref name="民族大移動60"/>。 劉曜の時代には漢の国号を廃してかつての民族性を取り戻すため、[[冒頓単于]]を天に配して匈奴民族主義の強化を図った<ref name="民族大移動60"/>。ただし劉曜は漢人の文化にも理解を示し、大学・小学を建て、国子祭酒・崇文祭酒を設置して漢人文化の吸収にも務めた<ref name="民族大移動61"/>。 == 前趙の歴代皇帝 == *[[劉淵]](在位:[[304年]] - [[308年]]) - 「漢王」を自称。 #高祖光文帝([[劉淵]]、在位:[[308年]] - [[310年]]) - 皇帝と称する。 #梁王/帝和([[劉和]]、在位:[[310年]]) #烈宗昭武帝([[劉聡]]、在位:[[310年]] - [[318年]]) #少主隠帝([[劉粲]]、在位:[[318年]]) #趙主([[劉曜]]、在位:[[318年]] - [[329年]]) - 国号を趙と改める。 #末主([[劉煕]]、在位:[[329年]]) == 元号 == #[[元熙 (前趙)|元熙]]([[304年]] - [[308年]]) #[[永鳳]]([[308年]]) #[[河瑞]]([[309年]] - [[310年]]) #[[光興 (前趙)|光興]]([[310年]] - [[311年]]) #[[嘉平 (前趙)|嘉平]]([[311年]] - [[315年]]) #[[建元 (前趙)|建元]]([[315年]] - [[316年]]) #[[麟嘉 (前趙)|麟嘉]]([[316年]] - [[318年]]) #[[漢昌]]([[318年]]) #[[光初]]([[318年]] - [[329年]]) == 関連項目 == *[[南匈奴]] *[[独孤部]] *[[鉄弗部]] *[[後趙]] *[[前燕]] *[[代 (五胡十六国)]] == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 引用元 === <references/> == 参考文献 == * [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月) *『[[魏書]]』(列伝第八十三 匈奴劉聡) *『[[晋書]]』(載記第一 劉元海、載記第二 劉聡、載記第三 劉曜) {{DEFAULTSORT:せんちよう}} [[Category:五胡十六国の王朝]] [[Category:匈奴]]
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