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冬木弘道
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{{Infobox プロレスラー | 名前 = 冬木 弘道 | リングネーム = 冬木 弘道<br />(ふゆき こうどう)<br />サムソン冬木 | 本名 = 冬木 弘道<br />(ふゆき ひろみち) | ニックネーム = マッチョバディ<br />理不尽大王 | 身長 = 180cm | 体重 = 128kg | 誕生日 = [[1960年]][[5月11日]] | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1960|5|11|2003|3|19}} | 出身地 = [[東京都]][[江東区]] | 所属 = | スポーツ歴 = | トレーナー = [[マイティ井上]]<br />[[天龍源一郎]]<br />[[ハル薗田]] | デビュー = [[1980年]][[5月4日]] | 引退 = [[2002年]][[4月14日]] }} '''冬木 弘道'''(ふゆき こうどう(本名:ひろみち)、男性、[[1960年]][[5月11日]] - [[2003年]][[3月19日]])は、[[日本]]の元[[プロレスラー]]。[[東京都]][[江東区]]生まれ、[[神奈川県]][[横浜市]]育ち。[[横浜商科大学高等学校]]出身。身長180cm、体重128kg。 == 来歴 == 高校卒業後の[[1979年]]に[[国際プロレス]]に入門。デビュー戦は[[1980年]][[5月4日]]、[[北海道]][[紋別市]]スポーツセンターの米村勉(後の[[米村天心]])戦。国際では[[高杉正彦]]・菅原伸義(後の[[アポロ菅原]])とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。 [[1981年]][[8月9日]]に国際プロレスが解散し、その後[[全日本プロレス]]に移籍。[[天龍源一郎]]の付き人を務めた。この時期、同じ若手だった[[三沢光晴]]とは、一緒に海に遊びに行くなどして仲が良かったという。[[1983年]]に行われた[[あすなろ杯争奪リーグ戦#|ルー・テーズ杯争奪リーグ戦]]にも参加したが、1勝5敗1分の成績に終わる(優勝は[[越中詩郎]])。[[1984年]]11月に海外初遠征。[[テキサス州]][[サンアントニオ]]地区では[[川田利明]]とのタッグチーム「'''[[ジャパニーズ・フォース]]'''」で活動、若手時代の[[ショーン・マイケルズ]]&[[ポール・ダイヤモンド]]の「アメリカン・フォース」と抗争を展開した<ref>{{cite web|url=http://www.onlineworldofwrestling.com/profiles/t/toshiaki-kawada.html|title=Wrestler Profiles: Toshiaki Kawada|accessdate=2012-08-19|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>。 [[1985年]]12月、体重を増加させて帰国後、[[ジャイアント馬場]]の命名により'''サムソン冬木'''に改名した。海外遠征中には国際プロレスのエース格だった[[ラッシャー木村]]が全日本に移籍し、[[鶴見五郎]]・高杉・菅原と国際崩壊直前に[[新日本プロレス]]へ移籍していた[[剛竜馬]]も加入した上で「[[国際軍団#国際血盟軍|国際血盟軍]]」を率いていたが、冬木は[[マイティ井上]]共々「国際血盟軍」には加入しなかった。国際出身者で[[ジャパンプロレス]]の[[アニマル浜口]]・[[寺西勇]]も海外遠征直前に全日本に移籍していた。「国際血盟軍」や浜口・寺西の元国際所属選手でなおかつ国際時代には格上だった選手ともシングルやタッグで対決し、[[1986年]]3月に剛・高杉と共に全日本を整理解雇された菅原の全日本最後の試合の対戦相手も務めている(井上との師弟タッグで鶴見&菅原組と対戦)。 [[1987年]]に再び海外遠征。プエルトリコ地区では、風貌が似てたため、「'''[[長州力|リキ・チョーシュー]]'''」を名乗った。帰国後、[[天龍同盟]]に参加。川田利明とのコンビ「'''[[フットルース (プロレス)|フットルース]]'''」を結成。ただ川田は、[[天龍源一郎]]とのタッグの機会が多くなり、冬木が次第に孤立していく様になった。1989年の第1回[[あすなろ杯争奪リーグ戦]]では準優勝している(優勝は川田)。 当時天龍同盟と対立していた全日本の正規軍の[[ジャンボ鶴田]]はそんな伸び悩み孤立した冬木に手を差し伸べ握手をするが、冬木は[[1990年]]に全日本を離脱し[[SWS]]に移籍し、再度天龍と共にREVOLUTIONの一員として行動を共にする。[[1992年]]のSWS崩壊後は[[WAR (プロレス)|WAR]]に移籍。ここでリングネームを本名に戻す。'''理不尽大王'''を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のある[[ヒール (プロレス)|ヒール]]としてのイメージを定着させる。'''冬木軍'''として[[邪道 (プロレスラー)|邪道]]、[[外道 (プロレスラー)|外道]]とのトリオで活躍した。この頃、リングネームの読みを「こうどう」に変えた。 [[1996年]]にWARを離脱。[[1997年]]に邪道、外道と共に'''冬木軍プロモーション'''を設立。[[岐阜県]][[大垣市]]で冬木軍の旗揚げ戦を開催。その後は[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]で活躍。[[ミスター雁之助]]、[[金村キンタロー]]らとTNR(チーム・ノー・リスペクト)を結成し、[[大仁田厚]]をFMWから追放することに成功。その後も[[ハヤブサ (プロレスラー)|ハヤブサ]]ら正規軍を苦しめる反面、ユニット「ブリーフブラザーズ」を結成し、白のバスローブにブリーフ姿([[BADBOY非道]]だけ、彦根観光ホテル・現:コンフォートホテル彦根の浴衣を着用)でコントを披露(実際は冬木は黄金のブリーフ争奪戦に参加しただけで、コントは邪道、外道、金村キンタロー、ミスター雁之助、[[BADBOY非道]]が行った)した。TNR解散後も[[井上京子 (プロレスラー)|井上京子]]、[[チョコボール向井]]らとECW JAPAN軍を率いて活躍、またFMWのコミッショナーに就任するなど、リング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは、リング上に留まらない新世代のヒールスタイルとも言われた。 [[1995年]]11月には[[早稲田大学]]「早稲田祭」で、「プロレス研究会“爆烈”」主催の「冬木軍理不尽道」と題する講演会に邪道、外道とともに出演した。自身の娘の小学校の講演会にも出席し「意外だと思うけど、体育と給食が大嫌いだった」とカミングアウトしている。なお、その際に沢山の児童に囲まれて「大仁田になった気分だよ」と発言している(ヒールなので大仁田のようにファンに囲まれるような機会が無かったため)。 [[2001年]]10月27日、川田とシングルで対戦し敗北。その後全日本プロレスの[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]に天龍と組んで出場。[[2002年]]2月のFMWの経営破綻後、3月に自ら主催する団体として[[アパッチプロレス軍|WEW]]を設立。 2002年[[4月7日]]、[[プロレスリング・ノア]]で15年ぶりに[[三沢光晴]]とシングル戦を行い、正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せて冬木健在を誇示する。だが、その2日後、冬木軍主催興行の試合後に[[大腸癌]]<ref>のちに直腸ガンと判明する。</ref>を理由に引退表明を行う。その一報と病状を聞いた三沢は、WEWがまだ立ち上がっていない冬木のために、[[ディファ有明]]のたまたま開いていた[[4月14日]]をすぐさま確保、冬木の引退興行を開催することを発表し、ノアの全面協力を受けて、冬木はリングで引退試合を行った。 なお「ガンによる引退」という引退発表はあまりにも唐突なもので、それまでの冬木が演じてきた理不尽[[ギミック (プロレス)|ギミック]]もあって、当初は「[[アングル (プロレス)|アングル]]ではないか?」という疑問視をする者が少なからず存在していた。だが、その直後に『引退』からの安易な『復帰』というアングルを極端に嫌うことで知られていた三沢光晴が、冬木のための引退興行を急遽組んだのを見て、引退が真実であることや冬木の病状の深刻さを多くのファンも察することになった。この引退試合のためにノアはファンに向けて黄色の紙テープを持参するように協力を依頼し、試合開始前の「冬木弘道」コール後、無数の紙テープが飛んだ。(なお10カウントはWEW川崎球場大会で行う為、この日は行われなかった。)この時の収益金は全て冬木に贈られた。また、引退興行にはノアの内外から多くのレスラーが協力しており、さらに会場には、[[新日本プロレス|新日本]]の[[永田裕志]]、FMWで袂を分かっていた邪道&外道、さらには天龍までもが現れた。 その後、[[5月5日]]に[[川崎球場]]でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍。だが、ガンは肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、横浜市民病院でがん性[[腹膜炎]]のため死去、{{没年齢|1960|5|11|2003|3|19}}。葬儀の場では、[[GOEMON (プロレスラー)|GOEMON]]、アングル上ほとんど敵対関係であったハヤブサまでもが号泣していた。 2003年5月5日の川崎球場で一夜のみ復帰、[[橋本真也]]と電流爆破マッチを行う予定だった。亡くなる8日前の3月11日、病院から外出許可をもらい、橋本に直談判をして対戦許可をもらっていた。なお大会では、橋本は金村キンタローと電流爆破マッチを行ったが、橋本は試合前に対戦の約束を果たすかのように、冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じた。 == 人物 == * [[国際プロレス]]入門時は特に格闘技経験はなく、一ファンとして国際の試合が開催されていた[[後楽園ホール]]で[[吉原功]]代表に押しかけ同然で行き、吉原に「体つきを見て運動経験がない」とスポ-ツ経験がないことを見破られ入門が危ぶまれたものの、嘆願して入門を果たした。入門後は[[マイティ井上]]、[[阿修羅・原]]に鍛えられ、国際崩壊後は[[新日本プロレス]]への合流に反対していた井上は、冬木と菅原伸義(後の[[アポロ菅原]])に対して「プロレス続けたいか?」と問いただし、2人は「プロレスを続けたいです」と回答した上で、井上に同調して[[全日本プロレス]]へ移籍した<ref>[[#wko|『忘れじの国際プロレス』P13]]</ref>。冬木は井上共々[[国際軍団#国際血盟軍|国際血盟軍]]に加入しなかったため、全日本正規軍であったために全日本に残留できた冬木と、国際血盟軍のメンバーとなり後に全日本を整理解雇されなおかつ二度と全日本のリングに上がることはなかった菅原とで明暗が分かれることになった。天龍同盟入り以前は井上との師弟タッグをよく組んでいた。 * 後にマッチョバディと呼ばれるようになる太った体格となったのは、国際プロレス時代に練習中に足を負傷し、休んでいる間にクリームパンばかりを食べ続けたため急に太りだしたという<ref name="wko p112">[[#wko|『忘れじの国際プロレス』 P112]]</ref>。 * リング上の理不尽キャラとは裏腹に面倒見のよい性格であり、リング外ではプロレス界の常識人としての一面も持っており、彼を慕う人間は多かったという。 * ヒール扱いを受ける契機となったのは、SWS移籍前後の[[週刊プロレス]]の記事での扱いである。移籍前に、天龍同盟が再構築されることが既定路線化した際、その原因の一つに天龍と冬木の不仲がある、と取り上げられたり、SWSへの移籍を「条件(金)が良かったから」と語ったと書かれたことにより、全日ファンだけでなく、天龍ファンの多くからも反感を持たれ、SWS旗揚当初から、冬木の試合ではブーイングの嵐となった。この流れは、原の復帰により薄まりはしたが、その後のSWS崩壊→WAR設立以降も、正統派のファイトを続けている間は反感として持続していた。 * 国際プロレス時代は、後の理不尽キャラとは対照的に、どもる癖がありなおかつほとんど無口だったという<ref name="wko p112" />。 * 彼には娘が2人いるが、いずれも「理」を頭文字にしている。冬木は「女の子は結婚したら姓が変わるから、自分の娘だという証拠を残せ」と、親交のあった友人に娘が産まれた時にアドバイスした。ちなみに元プロ野球選手・監督の[[王貞治]]も、同様の理由で娘の名に「理」の字をつけている。しかしながら、王貞治の「理」が「王家は里」の意味の命名であるのに対し、冬木が名付けた「理」は「理不尽大王」の理である。 == 獲得タイトル == *'''FMW・WEW''' ** FMW二冠統一王座([[世界ブラスナックル王座]]、[[インディペンデント・ワールド・世界ヘビー級王座]]) ** [[世界ブラスナックルタッグ王座]] ** [[WEWシングル王座]] ** [[WEWタッグ王座]](w / [[ジェームズ・フォリントン|サンドマン]]) ** [[世界ストリートファイト6人タッグ王座]] *'''全日本プロレス''' ** [[アジアタッグ王座]] *'''WAR''' ** WAR世界6人タッグ王座 == 得意技 == ラフ&パワーのイメージが強いが、盟友の技を盗む、既存の技にアレンジを加えるなど独自のファイトスタイルを築いていた。 ; 地団駄[[ラリアット]] : 相手が劣勢になった時にコーナーにもたれ掛かりながら両手を差し上げ、「ハァーハァー」という奇声を発し小刻みに地団太を踏んだ後、走り込んで相手にぶちこむ冬木の[[フィニッシュ・ホールド]]。若手時代に「ホッホッホッ」と声を上げつつその場で「助走」をしてから走り出し、相手に攻撃を仕掛けるというムーブを行っていたが、それが変化した物だと思われる。 ; サムソンストライカー : [[キン肉バスター]]の体勢からブレーンバスター式に後ろへ投げ落とす。メキシコからの持ち帰りで、使い始めたのは漫画『[[キン肉マン]]』でこの技が有名になる前である。 ; 冬木スペシャル : 川田利明のストレッチ・プラムとほぼ同形。初めてこの技を使った試合後のインタビューで、記者に「かっての盟友へのメッセージですか」と問われた冬木は、「指一本分角度が違えば、もう違う技なんだよ。よく見ろ!」、「あんなしょっぱいヤツに負けてたまるか」と吠えた。ヒールではあるが、公の媒体で他人の悪口を言ったことが無い冬木の突然の変貌に、彼の性格を知っていた記者達は驚いたと言う。この試合の後から、冬木は不人気な中堅レスラーから「理不尽大王」のキャラクターで大いに名を売り始める。 ; 冬木スペシャル2 : [[逆エビ固め#逆片エビ固め(リバース・ハーフ・ボストンクラブ)|逆片エビ固め]]の体勢で、自分の太腿を支点にして足首を極める技。 ; サムソンクラッチ(冬木スペシャル3) : 背後をとられた際にクラッチを解いて、仰向けに倒れ込みながら両足を相手の脇の下に入れ、相手の体を前方回転させてフォールの体勢に入る。 ; マッチョバディ・ボム : 抱え式バックドロップの要領で持ち上げた相手を180°反転させ、そのままマットに叩き付ける。投げ捨て式のブルーサンダーとも言える技だがマットに叩き付けた後、パワーボムのようにエビ固めに捉える場合もあった。 ; フィッシャーマン・バスター :{{節スタブ}} ; [[バックドロップ]] :{{節スタブ}} ; [[ジャーマン・スープレックス]] :{{節スタブ}} ; バックスピンキック : 三沢光晴が使用するものと同型。アンコ型の体型にも関わらず、その的確さと切れ味には定評があった。 ; 奇声ストンピング : 奇声を発しながら踏み付ける。時折[[菊タロー]]が試合中に物真似している。 == CD == * 『理不尽』([[キングレコード]]、1995年) == 出演 == * 『[[コロッセオ (テレビ番組)|コロッセオ]]』 - 番組の司会を数回担当した。 == 映像 == * 『冬木軍ロード 〜理不尽編〜』(EMIミュージック・ジャパン、1997年) == 著書 == * 『理不尽大王の高笑い:Fighting for myself』(フットワーク出版、1998年)ISBN 4876892695 * 『鎮魂歌:FMWはなぜ倒産したのか』(碧天社、2003年)ISBN 4883461890 == 関連書籍 == * 冬木薫著『マミー、そばにいて』(日之出出版、2004年)ISBN 489198113X == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |year = 2014 |title = 忘れじの国際プロレス |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |isbn = 9784583620800 |ref = wko}} {{DEFAULTSORT:ふゆき こうとう}} [[Category:日本のプロレスラー]] [[Category:国際プロレスに所属したプロレスラー]] [[Category:全日本プロレスに所属したプロレスラー]] [[Category:SWSに所属したプロレスラー]] [[Category:WARに所属したプロレスラー]] [[Category:FMWに所属したプロレスラー]] [[Category:プロレス・エグゼクティブ]] [[Category:プロレスのプロモーター]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:2003年没]]
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