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六角高頼
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 六角高頼 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[室町時代]] - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] | 生誕 = 不詳<ref>生年不詳(『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』他)だが、『滋賀県百科事典』では[[文安]]2年([[1445年]])生まれ、『戦国人名事典』では[[寛正]]3年([[1462年]])生まれである。一説には[[永享]]4年([[1432年]])生まれとも言われている。また、近江守護補任の記録である『[[大乗院寺社雑事記]]』[[長禄]]4年([[1461年]])[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]条では6歳とあり、逆算すると[[康正]]2年([[1456年]])ごろの生まれとなる。</ref> | 死没 = [[永正]]17年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]([[1520年]][[12月9日]])<ref>没年月日にも異なる日付があり、『東寺過去帳』では永正17年10月29日、『足利季世記』では永正17年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]となっている。</ref> | 改名 = 亀寿丸([[幼名]])→行高(初名)→高頼 | 別名 = 四郎(通称)、右兵衛入道 | 諡号 = | 戒名 = 竜光院殿嘉山宗椿 | 墓所 = | 官位 = [[大膳職|大膳大夫]] | 幕府 = [[室町幕府]][[近江国|近江]][[守護]] | 主君 = | 氏族 = [[六角氏]] | 父母 = 父:[[六角久頼]]([[六角政頼]]とも) | 兄弟 = | 妻 = [[足利成氏]]の娘([[山名宗全]]の娘)? | 子 = '''[[六角氏綱|氏綱]]'''、[[六角定頼|定頼]]、[[大原高保]]、[[和田高盛]]<br/>[[梅戸高実]]、[[真玄]]、娘([[足利義澄]]継室)<br/>娘([[今出川季孝]]室)、娘([[京極材宗]]室)<br/>養子:''[[土岐成頼]]次男'' | 特記事項 = }} '''六角 高頼'''(ろっかく たかより)は、[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[守護大名]]。[[近江国|近江]]守護、南近江の[[戦国大名]]。[[六角久頼]]の子(異説では[[六角政頼]]の子)。[[六角氏綱|氏綱]]、[[六角定頼|定頼]]、[[大原高保]]、[[和田高盛]]、[[梅戸高実]]、[[真玄]]らの父。名の「'''高頼'''」は[[室町幕府]]第11代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義澄|足利義高]](のちの義澄)より[[偏諱|1字]]を賜って以降の[[諱]]であり、初めの名は'''六角行高'''(- ゆきたか)という(但し、書物等では、第9代将軍[[足利義尚]]による親征を受けた当時でも「高頼」と表記されることが多い)。 == 生涯 == [[応仁]]元年([[1467年]])からの[[応仁の乱]]では西軍に属し、東軍の[[京極持清]]らと[[京都]]で戦っていたが、持清の嫡男[[京極勝秀|勝秀]]及び家臣の[[多賀高忠]]と従兄の[[六角政堯]]が高頼の本拠地[[観音寺城]]を攻めると近江に戻り政堯や[[京極氏]]と交戦した(但し、応仁の乱の際に活動した亀寿丸は高頼とは別人で高頼の父とする立場もある)。やがて政堯を討ち取り、京極氏も持清・勝秀父子の相次ぐ急死で[[お家騒動]]を起こして弱体化([[京極騒乱]])、行高(高頼)は南近江の確保に努め、文明4年([[1472年]])、文明7年([[1475年]])の[[京極政経]]・多賀高忠との合戦で[[京極高清]]・[[多賀清直]]・[[多賀宗直|宗直]]父子や[[土岐成頼]]・[[斎藤妙椿]]・[[斯波義廉]]らの援軍で勝利、応仁の乱終結後の[[文明 (日本)|文明]]10年([[1478年]])に幕府から近江守護に補任された。 応仁の乱後、[[六角氏]]の戦国大名化と権力強化を目指して[[公家]]・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、[[公家領]]・[[寺社領]]や[[奉公衆]]の領地を横領して配下の国人衆に分け与えたため、9代将軍[[足利義尚]]らの反発を受け[[長享]]元年([[1487年]])に義尚の親征を受けて[[甲賀]]山中に逃亡した。[[延徳]]元年([[1489年]])に義尚が没したため親征は中止、10代将軍[[足利義稙|足利義材]](のちの義尹、義稙)に赦免され近江守護に復帰したが、国人衆が横領した所領を返還しなかったため延徳3年([[1491年]])に義材による再度の追討([[長享・延徳の乱]])を受ける羽目になってしまった。そして、再び領地を捨てて甲賀山中に逃亡した。 だが、[[明応]]2年([[1493年]])の[[明応の政変]]で義稙が廃立、第11代将軍として[[足利義高]](後の義澄)が将軍に立てられる。この頃行高は2度目の追討を受け、守護になった[[山内就綱]]と戦っていたが、2年後の明応4年([[1495年]])、将軍・義高によって近江守護に復帰、同時に義高の偏諱を賜り'''高頼'''と改名した。直後に起こった[[船田合戦]]では[[石丸利光]]に与した為、勝者の[[斎藤妙純]]の近江遠征を招くが、[[延暦寺]]や[[北畠政郷]]らの支援を受けて結果的に危機を回避できた(妙純は[[土一揆]]に囲まれて戦死)。やがて[[足利将軍家]]との関係修復に努め、京都の騒乱から逃れた義澄(義高改め)を保護している。一方で、前将軍・義尹(のちの義稙)が[[大内義興]]・[[細川高国]]らの支援で義澄を追放して将軍に復帰すると、永正8年([[1511年]])に義澄を匿った[[水茎岡山城]]主[[九里信隆]]を討ち取って義尹(義稙)支持を表明している。 永正3年([[1506年]])、嫡男の[[六角氏綱|氏綱]]に家督を譲って隠居した。氏綱は自身に先立って死去したが、僧籍にあった次男の[[六角定頼|定頼]]を還俗させて家督を継がせている。また、他の息子達は近江の奉公衆の養子に入れ、奉公衆を被官・組下に入れたりしている。息子の1人真玄は出家、[[聖衆来迎寺]]の中興に務めた。 晩年には筆頭家臣の[[伊庭貞隆]]との抗争に明け暮れた。貞隆は[[文亀]]2年([[1502年]])に[[細川政元]]、永正11年([[1514年]])に[[浅井亮政]]の支援を受けて反乱を起こしたが、永正17年(1520年)に没落、直後に高頼自身も死去した。貞隆の没落と国人衆の組織化により六角氏の領国支配は固まり、定頼の代で全盛期を迎えることになる。 == 墓所 == [[ファイル:佐々木高頼塚跡.JPG|thumb|240px|塚跡]] [[栗東市]]岡({{ウィキ座標|35|00|36.46|N|135|59|7.65|E|scale:10000|位置}}、キョーラク工場敷地内)に「佐々木高頼塚跡」として石塔が残る。高頼は[[青地城]]主のもとで隠居生活を送り、当地で死去した。翌年には朝廷から「甲賀大明神」の神号が贈られている。死後塚が立てられたが、昭和初期の開墾で失われた<ref>塚の案内板より。</ref>。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == * [[阿部猛]]・[[西村圭子]]編『戦国人名事典』[[新人物往来社]]、1987年。 * [[平野邦雄]]、[[瀬野精一郎]]編『日本古代中世人名辞典』[[吉川弘文館]]、2006年。 * [[佐々木哲]]『佐々木六角氏の系譜』[[思文閣出版]]、2006年。 == 関連項目 == *[[戦国時代の人物一覧 (日本)]] *[[進藤貞治]] *[[蒲生貞秀]] {{六角氏歴代当主| |第12代|????年 - 1506年}} {{DEFAULTSORT:ろつかく たかより}} [[Category:六角氏|たかより]] [[Category:戦国大名]] [[Category:守護大名]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:1520年没]] {{people-stub}} {{Japanese-history-stub}}
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