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'''八田藩'''(はったはん、やつたはん)は、[[伊勢国]](現在の[[三重県]][[四日市市]]東阿倉川)に存在した[[藩]]。別名は'''東阿倉川藩'''(ひがしあくらがわはん)。<ref>二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(371ページ)</ref> == 藩史 == 藩主家は加納氏である。加納氏は[[三河国]]加茂郡加納村出身で、[[加納久直]]のときに[[徳川氏]]に仕えて[[紀州藩]]に属する。その孫・[[加納久通]]は紀州藩主・[[徳川吉宗]]の[[征夷大将軍|将軍]]就任に従って[[江戸城]]に入り、[[延享]]2年([[1745年]])に吉宗が隠居したとき、[[若年寄]]に任じられて吉宗直属となった。領地においては吉宗が将軍に就任した[[享保]]元年([[1716年]])に伊勢国内で1000石、翌年に[[下総国]]相馬郡内で1000石、享保11年(1726年)に伊勢・[[上野国]]内で8000石をそれぞれ与えられ、合計1万石を領する[[大名]]となり、東阿倉川に陣屋を構えて立藩したのである。 [[寛政]]8年([[1796年]])には上野国内でさらに3000石を加増された。第3代藩主・[[加納久周]]は[[若年寄]]となった。また、領内の南河内山には銀山・銅山があり、藩は鉱山開発に努めることで財政安定化を図ったが、やがて鉱山は産銀・産銅が乏しくなって衰退した。[[天保]]4年([[1833年]])には、藩内で騒動も起こったが、何とか鎮定している。ちなみに加納氏は、[[参勤交代]]を行なわない[[定府]]大名であった。 第5代藩主・[[加納久儔]]の時代に飛び領である[[上総国]]一宮に陣屋を移したため、ここに八田藩は廃藩となり、以後、加納氏は[[一宮藩]]として存続した。 == 歴代藩主 == === 加納(かのう)家 === [[譜代]]。1万石→1万3000石。 #[[加納久通]](ひさみち)<従五位下。近江守。遠江守> #[[加納久堅]](ひさかた)<従五位下。近江守> #[[加納久周]](ひさのり)<従五位下。備中守。遠江守> #[[加納久慎]](ひさちか)<従五位下。大和守> #[[加納久儔]](ひさとも)<従五位下。遠江守。備中守> == 関連項目 == * [[藩の一覧]] ==脚注== <references/> {{DEFAULTSORT:はつたはん}} [[Category:藩]] [[Category:伊勢国]] [[Category:加納氏|藩]] [[Category:三重県の歴史]]
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