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八木秀次
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{{Otheruses|'''電気工学者'''の八木秀次|'''法学者'''の八木秀次|八木秀次 (法学者)}} {{政治家 |人名 = 八木 秀次 |各国語表記 = やぎ ひでつぐ |画像 = Hidetsugu Yagi.jpg |画像説明 = |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = [[1886年]][[1月28日]] |出生地 = [[大阪府]] |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1886|1|28|1976|1|19}} |死没地 = |出身校 = [[東京帝国大学]]工科大学卒業 |前職 = [[八木アンテナ (企業)|八木アンテナ]][[社長]] |現職 = |所属政党 = ([[社会党右派|右派社会党]]→)<br />[[日本社会党]] |称号・勲章 = [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[工兵軍曹]]<br />[[勲一等旭日大綬章]]<br />[[文化勲章]]<br />[[工学博士]] |親族(政治家) = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = [[参議院|参議院議員]] |内閣 = |選挙区 = [[全国区]] |当選回数 = 1回 |就任日 = [[1953年]][[5月3日]] |退任日 = [[1956年]][[6月3日]] |所属委員会 = |議員会館 = |元首職 = |元首 = <!-- ↓省略可↓ --> |国旗2 = |職名2 = |内閣2 = |選挙区2 = |当選回数2 = |就任日2 = |退任日2 = |元首職2 = |元首2 = |国旗3 = |職名3 = |内閣3 = |選挙区3 = |当選回数3 = |就任日3 = |退任日3 = |元首職3 = |元首3 = |国旗4 = |職名4 = |内閣4 = |選挙区4 = |当選回数4 = |就任日4 = |退任日4 = |元首職4 = |元首4 = |国旗5 = |職名5 = |内閣5 = |選挙区5 = |当選回数5 = |就任日5 = |退任日5 = |元首職5 = |元首5 = |国旗6 = |その他職歴1 = |就任日6 = |退任日6 = |国旗7 = |その他職歴2 = |就任日7 = |退任日7 = |国旗8 = |その他職歴3 = |就任日8 = |退任日8 = |国旗9 = |その他職歴4 = |就任日9 = |退任日9 = |国旗10 = |その他職歴5 = |就任日10 = |退任日10 = |国旗11 = |その他職歴6 = |就任日11 = |退任日11 = |国旗12 = |その他職歴7 = |就任日12 = |退任日12 = |国旗13 = |その他職歴8 = |就任日13 = |退任日13 = |国旗14 = |その他職歴9 = |就任日14 = |退任日14 = |国旗15 = |その他職歴10 = |就任日15 = |退任日15 = <!-- ↑省略可↑ --> }} '''八木 秀次'''(やぎ ひでつぐ、[[1886年]]([[明治]]19年)[[1月28日]] - [[1976年]]([[昭和]]51年)[[1月19日]])は、[[日本]]の[[工学者]]([[電気工学]])、[[実業家]]、[[政治家]]。[[階級]]は[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[工兵軍曹]]。[[勲等]]は[[勲一等]]。[[日本学士院]][[会員]]。一般的に八木アンテナとして知られる[[八木・宇田アンテナ]]の発明家として知られる。 [[東京工業大学]][[学長]]、[[千葉工業大学]][[顧問]]、内閣技術院[[総裁]]、[[大阪帝国大学]][[総長]]、[[八木アンテナ (企業)|八木アンテナ株式会社]][[社長]]、[[参議院|参議院議員]]、[[武蔵工業大学]][[学長]]などを歴任した。 == 概要 == 電気工学を専門とする工学者であり、[[宇田新太郎]]と共に開発した「[[八木・宇田アンテナ]]」の共同発明者として知られている。この発明を基に八木アンテナを創業し、その初代社長に就いた。[[東北帝国大学]]や大阪帝国大学では教鞭を執り、東京工業大学、武蔵工業大学などでは学長として奉職するなど、長年にわたり[[教育者]]として活躍したほか、1942年(昭和17年)には現在の[[千葉工業大学]](旧制・興亜工業大学)の創設にあたり創設メンバーとして同大学の創立に尽力している。 [[太平洋戦争]]中は内閣技術院総裁、戦後は[[右派社会党]]や[[日本社会党]]に所属し参議院議員を務めるなど、国政にも参画した。これらの業績により、[[文化勲章]]や[[勲一等旭日大綬章]]を受章し、日本学士院会員にも選任された。 == 生涯 == === 大学卒業まで === 大阪市東区北浜4丁目の八木忠兵衛、みちの三男として生まれる<ref>沢井[2013:1-6]</ref>。父は両替商であった。大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(北野中学に改称)に入学。1903年同中学を主席で卒業。すでに父が亡くなっていたが、19歳上の長兄は株屋に就職し、秀次は経済的援助を受けた。なお、当時の株屋は世間の評判が低く、分家して秀次が八木家を継承した。1903年第3高等学校理科に入学。中学、高校時代には俳句など文学にも興味があった。1906年東京帝国大学工科大学電気工学科に入学した。無線に興味をもった。卒業時の33名中5番であった。 === 仙台高等工業学校、東北帝国大学時代 === 電気科教授の世話で直ちに仙台高等工業の講師となった。<ref>沢井[2013:7]</ref>秀次は東北帝国大学理科大学の[[本多光太郎]]の知遇を得、彼は[[長岡半太郎]]に伝え、長岡の推薦で海外留学が八木に命じられた。1913年から[[ドレスデン]]工科大学のバルクハウゼン教授の下で研究した。1914年は第一次大戦勃発でスイスにいたが、イギリスの[[フレミング]]教授の教室に移った。1915年は渡米しハーバート大学のピアス教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。 当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電分野の研究に取り組み、八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の成果を生み出す。 財団法人[[斎藤報恩会]]から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎)で1934年(昭和9年)度までに合計22万5000円の補助金を受けた。 八木が物理学科、[[東北大学金属材料研究所|金研]]で行われていた論文の輪読会に出席しあまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。 学内に[[東北大学電気通信研究所|電気通信研究所]]の設立を構想するが、実現は八木が大阪帝大に異動した後の[[1935年]](昭和10年)になる。 === 大阪帝国大学理学部時代 === 大阪帝国大学の初代総長であった[[長岡半太郎]]の要請により大阪帝国大学に移籍。大阪帝国大学の理学部物理学科の初代主任教授となる。 菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。 講師として在職していた[[湯川秀樹]]を叱咤激励し、それが後に[[ノーベル物理学賞]]を受賞する[[中間子論]]に関する論文につながったとされている。 === 大学教授時代 === 講義の際、学生に「本質的な発明ができるようになるためには[[心眼]](科学者としての勘)で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた。 === 技術院総裁時代 === 八木はレーダー開発など立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導するため、海軍の[[永野修身]]軍令部総長の推薦を受けて技術院総裁に就任した。内閣技術院の総裁である八木自身も熱線誘導兵器の研究を推進していた。因みに同研究は技術者の[[井深大]]と海軍技術将校の[[盛田昭夫]]が出会い、戦後[[ソニー]]を創業するきっかけとなった。 敗色濃厚となった[[1945年]](昭和20年)には[[衆議院]][[予算委員会]]で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の[[特別攻撃隊|特攻隊]]の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。これを聞いて委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い<ref>1945年1月24日衆議院予算委員会、[[三木武夫]]委員に対する答弁(第86回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第4回56頁)<br>「只今決戰兵器ト云フ御尋ネガゴザイマシタガ、必死必中ト云フコトガ申サレマスルガ、必死デナクテ必中デアルト云フ兵器ヲ生ミ出シタイコトハ、我々豫テノ念願デアリマシタガ 是ガ戰場ニ於テ十分ニ活躍致シマスル前ニ、戰局ハ必死必中ノアノ神風特攻隊ノ出動ヲ俟タナケレバナラナクナツタコトハ、技術當局ト致シマシテ洵ニ遺憾ニ堪ヘナイ、慚愧ニ堪ヘナイ所デ、全ク申訳ナイコトト考ヘテ居リマス、一日モ早ク必死必中デナク必中ノ兵器ヲ生ミ出サナケレバナラヌト考ヘル次第デアリマス」</ref>。 === 戦後 === [[File:Yagi Hidetsugu.JPG|thumb|150px|1956年、[[文化勲章]]受章]] 大阪帝大総長を[[公職追放]]で追われてからしばらくは生活に困窮した時期があった。この時、[[大正]]末に取得された八木・宇田アンテナの特許はすでに期限が切れていた。かつての弟子達が電気工学関係の教科書を分担して執筆し、八木に印税を寄付して支援した。 八木はドイツ・イギリス留学時代から労働運動や[[社会主義]]に関心があり、[[日本フェビアン協会]]の会員でもあった。戦後も政治に関わり、[[ジョージ・バーナード・ショー]]などを読んでいたという[http://www.civic.ninohe.iwate.jp/100W/09/099/page3.htm]。 直接の弟子でなく面識もない[[江崎玲於奈]]、[[西澤潤一]]を学士院賞に推薦した。晩年に至るまで学術の情報収集を欠かさず、人材の発掘・育成に尽くした。 == 略歴 == * [[1886年]][[1月28日]] 大阪府に生まれる。 [[大阪府立北野高等学校|北野中学]]、[[第三高等学校 (旧制)|三高]]を経て、 * [[1909年]]7月、[[東京大学|東京帝国大学]]工科大学電気工学科を卒業 ** 同年7月、[[仙台高等工業学校]]電気科講師 ** 同年12月、一年志願兵として中野電信隊に入営 * [[1910年]] [[軍曹|陸軍工兵軍曹]] ** 同年、仙台高等工業学校電気科教授 * [[1913年]] [[ドイツ帝国|ドイツ]]・ドレスデン工科専門大学(現・[[ドレスデン工科大学]])留学。[[ハインリッヒ・バルクハウゼン|バルクハウゼン]]教授に師事する * [[1914年]] スイスにいたが第1次大戦勃発後、イギリスのユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事<ref>沢井[2013:250]</ref> * [[1915年]] 渡米し、ハーバート大学のピアス教授に師事 * [[1916年]] 帰国 * [[1919年]] [[東北大学|東北帝国大学]][[工学部]][[教授]] [[工学博士]]の学位を取得。安部恒子と結婚。 * [[1924年]] 東北帝国大学工学部長 * [[1925年]] [[八木・宇田アンテナ]]の基礎理論を発表。12月 指向性アンテナの特許を出願 * [[1926年]] 八木・宇田アンテナを特許化(特許第69115号) * [[1933年]] [[大阪大学|大阪帝国大学]][[理学部]]物理学科主任教授。東北帝国大学教授を兼任 * [[1939年]] 大阪帝国大学理学部長 * [[1942年]] [[東京工業大学]][[学長]]に就任 * [[1943年]] 興亜工業大学(現・[[千葉工業大学]])の[[顧問]]に就任 * [[1944年]] [[内閣技術院]][[総裁]]に就任 * [[1945年]] 1月宮中講書始洋書進講<ref>沢井[2013:152]によると題は「電波兵器の発達」で、原稿が八木家に残されている</ref> * [[1946年]] 大阪帝国大学[[総長]]に就任するも[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[公職追放]]者指定を受けて辞職。[[日本アマチュア無線連盟]]会長に就任 * [[1951年]] 学士院会員に選ばれる。[[民主社会主義連盟]]会長に就任 * [[1952年]] [[八木アンテナ (企業)|八木アンテナ株式会社]]社長に就任 * [[1953年]] [[社会党右派|右派社会党]]から[[参議院議員選挙]]に[[全国区制|全国区]]で立候補し当選(3年任期) * [[1955年]] [[五島慶太]]に請われて[[武蔵工業大学]](現[[東京都市大学]])学長に就任 * [[1956年]] 参議院議員選挙に落選 * [[1976年]][[1月19日]]死去。{{没年齢|1886|11|28|1976|1|19}}。従二位勲一等旭日大綬章 == 栄典 == * 1951年 - [[藍綬褒章]]受章。 * 1956年 - [[文化勲章]]受章。 * 1976年 - [[勲一等旭日大綬章]]受章。 * 1958年 - デンマーク工学アカデミー プールゼン金牌を贈与。 * 1995年 - IEEE(米国電気電子学会)によって八木・宇田アンテナ発明を顕彰する[[マイルストーン]]が東北大学に設置される<ref>沢井[2013:256]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}} == 資料 == * 書籍 『電子立国日本を育てた男~八木秀次と独創者たち』 ([[1992年]])[[松尾博史]]著、[[文藝春秋]]刊。 : 八木の生涯を伝える伝記で、八木の大学組織運営で手腕を振るう伯楽ぶりや辛辣ともいえる一面もあった人柄、東北帝大時代の[[抜山平一]]との確執や大阪帝大時代の[[湯川秀樹]]との関わりなど周囲の人間模様を、多数の関係者に取材した労作である。一方で[[八木・宇田アンテナ]]に関する部分で[[宇田新太郎]]を不当に貶めているとの批判を[[虫明康人]]が提起している点には注意が必要である。 : [http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.uda.htm 旧論文の内容誤認による電気技術史の不当な歪曲を正す(虫明康人)-電気学会電気技術史研究会資料 HEE-96-15, 1996年9月11日] * 書籍 人物叢書 『八木秀次』 沢井実 2013年 [[吉川弘文館]] ISBN 978-4-642-05268-9 * 銅像 - 最晩年のあごひげを蓄えた胸像が東北大学工学部電気・情報系の中庭に置かれている。 == 関連項目 == * [[日本の十大発明家]] {{大阪大学総長|大阪帝国大学総長:第4代:1946年}} {{東京工業大学学長|第2代:1942年 - 1944年}} {{先代次代|電気学会会長|第27代:1940年 - 1941年|[[梶井剛]]|[[瀬藤象二]]}} {{DEFAULTSORT:やき ひてつく}} [[Category:日本の物理学者]] [[Category:日本の発明家]] [[Category:日本の工学者]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:藍綬褒章受章者]] [[Category:日本学士院会員]] [[Category:全国区選出の参議院議員]] [[Category:日本社会党の参議院議員]] [[Category:東北大学の教員]] [[Category:大阪大学の教員]] [[Category:東京工業大学の教員]] [[Category:千葉工業大学の人物]] [[Category:東京都市大学の教員]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:アマチュア無線|人]] [[Category:1886年生]] [[Category:1976年没]]
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