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'''児玉 就方'''(こだま なりかた、[[永正]]10年([[1513年]])- [[天正]]14年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1586年]][[7月25日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[毛利氏]]の家臣。官途は内蔵丞、周防守。[[安芸国]][[草津城]]主。[[児玉元実]]の三男で、[[児玉就忠]]の弟。子は[[児玉就英]]、[[児玉景栄]]。 == 生涯 == 兄・就忠の推挙を受けて、[[毛利元就]]の家臣となる。就忠は行政手腕に長けたが、就方は武勇に優れた武将であり、[[1536年]]の[[安芸国]]における戦いで、元就から感状を得るなど活躍している。[[1540年]]に尼子詮久(後の[[尼子晴久]])が来襲した[[吉田郡山城の戦い]]でも活躍したが、血気にはやるあまり、抜け駆けをしてしまい、元就から逆に戒められたと言われている。 [[1551年]]から草津城主となり、毛利氏配下の川内水軍衆の統率を任され、[[1555年]]の[[厳島の戦い]]では川内水軍衆を率いて、勝利に一役買った。そして[[1561年]]には[[大友氏]]との[[豊前国]]における海戦、[[1568年]]には[[土佐一条氏]]攻め、[[1570年]]の[[尼子氏]]討伐では日本海に出撃するなど、毛利氏の主要な合戦の大半に参加して大いに武功を上げた。 毛利氏が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に臣従した後も毛利水軍を統率する武将として、[[1585年]]に秀吉の[[紀伊国]]雑賀攻めに参加した。就方の子・[[児玉就英]]も[[毛利水軍]]の武将として活躍している。 == 関連項目 == *[[児玉氏]] {{DEFAULTSORT:こたま なりかた}} [[Category:児玉氏|なりかた]] [[Category:戦国武将]] [[Category:水軍]] [[Category:安芸国の人物]] [[Category:1513年生]] [[Category:1586年没]]
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