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'''元帥府'''(げんすいふ)とは、[[第2次世界大戦]]終戦以前の[[日本]]に存在した[[天皇]]の軍事部門における最高[[顧問]]集団のこと。 == 解説 == 元帥府の規定は[[1898年]](明治31年)[[1月20日]]に制定された'''[[元帥府条例]]'''によって定められていた。軍功のあった[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]の軍人に対して特に[[元帥 (日本)|元帥]]の称号を与えて、終身[[大将]]としての身分保障を与えるとともに天皇の軍事面における最高顧問となった。 とはいえ、具体的な職掌・権限については特に定めは無く、政治部門における[[元老]]と類似しており、また[[元老会議]]のような慣習も久しくなく、個々の元帥が天皇に対して責任を負っていた。 [[帝国国防方針]]の策定や[[大本営]]の設置・廃止といった軍事上の重要決定には必ず各元帥の了承を得ることになっていた。ただし昭和10年代には元帥が[[皇族]]のみとなり、[[閑院宮載仁親王]]・[[伏見宮博恭王]]は[[参謀総長]]・[[軍令部総長]]であったため元帥府は形骸化していた。 [[大東亜戦争]]中に陸軍から三名の大将([[杉山元]]・[[寺内寿一]]・[[畑俊六]])、海軍から一名の大将([[永野修身]])が元帥府に列せられた。[[マリアナ沖海戦]]の敗退によって戦局が悪化すると、[[1944年]](昭和19年)[[6月25日]]に初めて'''元帥会議'''が召集されて、伏見宮・[[梨本宮守正王]]・杉山・永野の4名が[[昭和天皇]]の諮問を受けた(閑院宮は病気のため、寺内・畑は外地での軍務のため参加せず)。 続いて[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]に[[ポツダム宣言]]の受諾の是非を巡って[[皇族]]元帥と軍務にある寺内を除いた3名が諮問を受けた。なお、杉山・永野の両名は国軍はなおも健在と主戦論をはる中で、畑は[[広島市]]に本拠を置いていた[[第2総軍 (日本軍) |第2総軍]]司令官として「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に天皇に実情を説明、本土決戦が不可能であることを昭和天皇に確信させることになった。 1945年[[11月30日]]の大日本帝国陸海軍廃止と同時に元帥府も廃止された。 == 関連項目 == * [[軍事参議官]] * [[山縣有朋]] * [[東郷平八郎]] {{DEFAULTSORT:けんすいふ}} [[Category:日本軍]]
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