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{{出典の明記|date=2013年9月}} [[Image:Yoshitsune with benkei.jpg|thumb|right|180px|僧兵弁慶と[[源義経]]]] [[Image:Yamabushi2.jpg|thumb|180px|right|僧兵の古写真]] '''僧兵'''(そうへい)とは、[[日本]]の[[古代]]後期から[[中世]]、[[近世]]初頭にかけて存在した僧形の[[武者]]である。 ==概要== [[京都]]・[[奈良市|奈良]]の大寺院の雑役に服する大衆([[堂衆]])が自衛武装したもの。法師武者あるいは武装した僧侶を僧衆、悪僧と同時代でいうが、それを江戸時代以降「僧兵」と呼称した言葉である。ちなみに悪僧の「悪」は[[悪党]]の悪と同じで「強い」という意味合いである。主に[[寺社勢力]]に所属する武装集団である。その風貌は[[絵巻物]]などに描かれ、[[裹頭]](かとう〈頭を包む布〉)や、[[高下駄]]、[[薙刀]]などが特徴とされる。髪は剃っていなかった可能性が高い。なお、これに対し、神社に所属する武装集団を[[神人]](じにん)という。また、日本以外にも[[嵩山少林寺]]のように僧兵として武装集団を組織する仏教僧の集団がおり、広義には武装した宗教集団を指すこともある。その場合はヨーロッパの[[騎士修道会]]も含まれることがある。 僧兵や神人が活躍した時代は社会が乱れる一方で、広大な[[寺領]]・[[神領]]を経営する立場にある寺社は、盗賊のみならず、[[国府]]や[[権門]]・在地領主らの武装勢力など、さまざまな勢力との紛争を抱えることとなった。よって境内と荘園の治安維持や他勢力への対抗のため、他の荘園と同様に寺院・神社も武装する事になった。 [[平安時代]]末期には強大な武力集団となり、[[興福寺]]・[[延暦寺]]・[[園城寺]](三井寺)、[[東大寺]]などの[[寺院]]を拠点として、寺院同士の勢力争いや、[[朝廷]]や[[摂家|摂関家]]に対して[[強訴]]をくりかえした。特に、興福寺(南都)は衆徒(奈良法師)、延暦寺(北嶺)は山法師と呼ばれた。宗教的権威を背景とする強訴は僧兵の武力以上の威力をもち、しばしば朝廷や院を屈服させることによって、国府や他領との紛争を自らに有利に解決させた。また寺社同士の抗争も激しく、しばしば焼き討ちも行われた。延暦寺と園城寺(「山門」と「寺門」)の抗争などが著名である。[[白河天皇|白河法皇]]は、自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として「[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]の水([[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の流れ)・[[双六]]の[[さいころ|賽]](の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。 中央から離れた地域でも有力寺社は軍事力を持ったり地元軍事力と結びつき、当時のパワーバランスに大きな影響を及ぼしていた。[[以仁王の挙兵]]では平家とも争う。『[[平家物語]]』の[[武蔵坊弁慶]]などにも、その描写がみられる。[[治承・寿永の乱|源平の争乱]]の時には[[熊野水軍]]を取り仕切っていた[[熊野別当]]にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。 [[室町時代]]に、かつて義円と名乗り[[天台座主]]だった[[足利義教]]が、僧兵の軍事力と粗暴さを熟知しているため、延暦寺討伐に動き出して大規模の[[弾圧]]を実施した(後年の[[織田信長]]も同様のことをやっている)。 各地の有力寺社が軍事力を保持する傾向は[[豊臣秀吉]]による[[刀狩]]まで続いた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の有力僧兵団として以下の例がある。 ===南都北嶺=== * [[興福寺]]・・・奈良法師と称された多数の僧兵を抱え大和一国を治める実力を持つに至る。戦国時代は織田信長と同盟を結びながら、勢力を維持し続けた。[[宝蔵院流槍術]]の開祖・[[胤栄]]なども有名。 * [[延暦寺]]・・・天台宗の開祖・伝教大師[[最澄]]が開山した。王城鎮護の霊山として君臨しながら、山法師と称された数千人の僧兵を擁したが、1571年に織田信長による[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]に遭い、軍事力を喪失した。 ===その他=== '''[[東北地方]]''' *[[出羽三山]]・・・[[修験道|修験道場]]として隆盛し、最盛期には8千人の僧兵を擁した。[[豊臣秀吉]]の[[刀狩り]]に応じて武具を供出。 *[[恵日寺 (磐梯町)]]・・・真言宗豊山派の寺院で、3000人ともいわれる僧兵を擁し、実質的に会津を支配下に置いていた。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した[[伊達政宗]]が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、軍事力を喪失した。 '''[[関東地方]]''' *[[日光山]][[輪王寺]]・・・多数の僧兵を抱え、[[下野国|下野]]でも有数の武装勢力になる。[[後北条氏]]に荷担したため、[[豊臣秀吉]]により弾圧され、寺領を没収され衰退。関東に移封された徳川家康の保護により、勢力を回復する。 '''[[北陸地方]]''' *[[平泉寺白山神社|白山平泉寺]]・・・延暦寺末寺として、最盛期には8千人の僧兵を抱えて[[越前国|越前]]に勢力を伸ばす。天正2年([[1574年]])、一向一揆との抗争で全山が焼失。勢力が弱まる。[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]と早くから結び、寺領を回復する。 * [[石動山]]天平寺・・・真言宗の寺院で、山岳信仰の拠点霊場として栄えた。3千にも及ぶ僧兵を抱えた能登有数の勢力であった。[[1582年]](天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた[[能登畠山氏]]旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、[[前田利家]]、[[佐久間盛政]]、[[長連龍]]らの織田軍に焼き討ちされ、壊滅した。 * [[真宗大谷派井波別院瑞泉寺]]・・・一向宗の寺院で、[[越中一向一揆]]の拠点であった。天正9年(1581年)、織田信長の北陸方面軍、[[佐々成政]]の焼き討ちに遭い、軍事力を喪失した。 * [[勝興寺]]・・・一向宗の寺院で、越中一向一揆の拠点であった。[[瑞泉寺]]と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが、天正9年(1581年)に[[石黒成綱]]に焼き討ちされ、軍事力を喪失した。 * [[尾山御坊]]・・・一向宗の寺院で、[[加賀一向一揆]]の拠点であった。織田信長の北陸方面軍、[[佐々成政]]に敗れ、軍事力を喪失した。 * [[吉崎御坊]]・・・一向宗の寺院で、加賀・越中などの門徒を集め北陸における一向一揆の拠点となったが、永正3年(1506年)、[[九頭竜川の戦い]]で[[朝倉宗滴]]に敗れ、勢力を失った。 '''[[東海地方]]''' * [[諏訪大社]]・・・[[武田信玄]]に制圧され、軍事力を喪失した。大名家としては江戸時代に再興したが、神官家とは分かれることになった。 * [[浅間大社]]・・・武田信玄による[[駿河侵攻]]に巻き込まれる。武田を相手に頑強に抵抗したが、[[穴山信君]]を通して降伏し、軍事力を失った。 * [[本證寺 (安城市)]]・・・一向宗の寺院で、[[三河一向一揆]]の際には上宮寺・勝鬢寺などとともに一向宗門徒の拠点の1つとなり徳川家康に対して頑強に抵抗したが、1564年の小川の戦いで敗れ勢力を失った。 * [[照蓮寺]]・・・一向宗の寺院で、[[帰雲城]]・城主内ヶ島氏と手を結んだことにより照蓮寺の勢力は拡大し、全盛期には大名に匹敵するほどの大勢力を築いた。三木氏の後に飛騨国を治めた[[金森長近]]はそれを恐れ、1588年(天正16年)、高山城城下に移転させるなどの弾圧政策を取り、勢力を失った。 * [[願証寺]]・・・一向宗の寺院で、[[長島一向一揆]]の拠点として伊勢湾一帯を治める大勢力であった。[[織田信長]]に対して3度に渡って激しく抵抗したが、天正2年(1574年)の第三次長島侵攻で激戦の末に壊滅した。 '''[[近畿地方]]''' * [[石山本願寺]]・・・独自の僧兵集団ではなく、各地の門徒(多くは[[国人]]や庶民)を動員した[[一向一揆]]を通じて絶大な影響力・軍事力を誇ったが、[[石山合戦]]に敗れ壊滅、軍事力を喪失した。 * [[高野山]]・・・[[真言宗]]の開祖・[[空海]](弘法大師)が開山した。高野衆と称された大規模な僧兵集団を擁し、天正9年([[1581年]])の際には[[紀州征伐]]の際は信長勢を撃退している。信長の死後、天正13年([[1585年]])に[[豊臣秀吉]]によって行われた紀州征伐の際には秀吉の降伏勧告に応じ、軍事力を喪失した。 *[[聖衆寺 (桑名市)]]・・・千人もの僧兵を抱える[[真言宗]]の大寺院であったが、[[天正]]年間([[1573年]] - [[1593年]])に[[織田信長]]の家臣[[滝川一益]]の北伊勢侵攻の際に焼き討ちされて壊滅的な被害を受けた。江戸時代になってから焼け残った堂宇で復興したが、かつての面影は無い。 * [[根来寺]]・・・[[真言宗]]から独立した[[新義真言宗]]の寺院で、根来衆とよばれる僧兵1万を擁した紀州屈指の大勢力であった。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られたことをきっかけに、津田流砲術の開祖・[[津田算長]]をはじめ、強力な[[火縄銃|鉄炮]]隊で保持していた。天正13年([[1585年]])、[[豊臣秀吉]]による[[紀州征伐]]で制圧され、軍事力を喪失した。 *[[三岳寺]]・・・[[平安時代]]初期の[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])に[[最澄]](伝教大師)によって開かれたと伝わる[[天台宗]][[山門派]]の大寺院で、元々鈴鹿山脈の国見岳にあったが、織田信長が[[比叡山焼き討ち]]を行う3年前の[[永禄]]11年([[1568年]])に織田信長の命により、滝川一益の軍勢が押し寄せ、当時三岳寺には数百人もの僧兵が居て勇敢に戦ったものの多くの堂宇が悉く兵火により灰塵に帰した。三岳寺の近くの[[湯の山温泉 (三重県)|湯の山温泉]]では、毎年10月初旬には織田信長の軍勢に立ち向かい勇敢に戦った僧兵を忍んで[[僧兵まつり]]が行われている。 * [[粉河寺]]・・・天台宗系の寺院で、粉河衆と称された中小規模の僧兵集団を擁していた。天正13年([[1585年]])、[[豊臣秀吉]]による[[紀州征伐]]で制圧され、軍事力を喪失した。 * [[日前神宮・國懸神宮]]・・・広大な社領を有し、地方大名に匹敵するほどの武力をもっていた。実際に、[[雑賀衆]]と度々武力衝突を起こしている。天正13年([[1585年]])、[[豊臣秀吉]]による[[紀州征伐]]で制圧され、軍事力を喪失した。 *[[談山神社|多武峰妙楽寺]]・・・[[興福寺]]と度々武力衝突を起こす。[[天正]]13年([[1585年]])、[[大和国|大和]]に入国した[[豊臣秀長]]の武装解除要求に応じ、武具を供出。 * [[金峯山寺]]・・・多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)を抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵を指す)にも劣らないといわれた。天正13年(1585年)、[[大和国|大和]]に入国した[[豊臣秀長]]の武装解除要求に応じ、武具を供出。 '''[[中国地方]]''' * [[大山寺 (大山町)]]・・・[[天台宗]]の寺院で、鎌倉時代には3千人の僧兵を擁していたが、度々僧兵同士の武力衝突を起こした。戦国時代も勢力を維持したが、豊臣秀吉の[[刀狩り]]により軍事力を喪失。 * [[鰐淵寺]]・・・天台宗の寺院で、広大な寺領と多数の僧兵を抱えた出雲有数の勢力となる。戦国時代は[[毛利元就]]の手厚い保護のもと勢力を維持したが、豊臣秀吉の[[刀狩り]]により軍事力を喪失。毎年10月には弁慶まつりが行われている。 * [[出雲大社]]・・・鰐淵寺と関係が深く、同寺と並ぶ出雲有数の勢力であった。豊臣秀吉の[[刀狩り]]により軍事力を喪失。 * [[厳島神社]]・・・[[厳島神主家]]は広島湾一帯を支配する水軍を備えた国人勢力として活動したが、[[天文 (元号)|天文]]9年([[1540年]])の[[吉田郡山城の戦い]]で[[大内氏]]・[[毛利氏]]に反旗を翻して、[[尼子氏]]に付いた。しかし翌年、吉田郡山城の戦いは毛利・大内連合軍の勝利すると、大内氏に制圧され、軍事力を喪失した。 '''[[四国地方]]''' * [[八坂寺 (松山市)]]・・・[[真言宗]]の寺院で、[[熊野権現]]を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え、僧兵も擁していた大寺であったが、天正年間(1573年 - 1592年)に焼失してからは寺域も縮小し、勢力が弱まる。 '''[[九州地方]]''' * [[宗像大社]]・・・大宮司であった[[宗像氏貞]]の時代に最大の版図を築くが、氏貞が後継がないまま急死した後、[[豊臣秀吉]]の[[九州の役]]の際に社領を没収されて軍事力を失った。 * [[阿蘇神社]]・・・肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有していた。当主・阿蘇氏は戦国大名としても活躍したが、[[豊薩合戦]]の際、真っ先に島津氏の侵略を受けて降伏、さらに[[豊臣秀吉]]の[[九州の役]]の際に社領を没収され、大名としては終焉した。 * [[宇佐神宮]]・・・豊前国一宮として厚い崇敬を受け、九州一の荘園領主として、また実質的に宇佐郡を中心とした国人領主の盟主として繁栄を誇った。家末社にあたる[[八幡奈多宮]]出身の[[田原親賢]]が[[方分]](守護代)となって以降、大友氏と敵対するようになり、焼き討ちされるに及んで勢力を失った。のちに宇佐神宮の社家出身の[[時枝鎮継]]([[九州征伐]]後、[[黒田氏]]の家臣となっていた)は[[石垣原の戦い]]で大友氏滅亡に一役買うことになった。 *[[英彦山]]・・・[[修験道|修験道場]]として隆盛し、最盛期には数千名の僧兵を擁した。英彦山が[[秋月種実]]と軍事同盟を結んだため、[[天正]]9年([[1581年]])、敵対する[[大友義統]]による[[彦山焼き討ち]]を受けて敗れ、勢力が弱まる。 *[[求菩提山]]護国寺・常在山[[如法寺 (豊前市)|如法寺]]・・・求菩提山護国寺は修験道場で、常在山如法寺はもともとその末寺の一つ。13世紀頃から所領を巡って対立を続け、16世紀には[[大内氏]]の介入を招く。 ==関連書籍== *日置英剛「僧兵の歴史―法と鎧をまとった荒法師たち」 (戎光祥出版) ==関連項目== *[[寺社勢力]] ==外部リンク== *[http://www2.town.komono.mie.jp/menu1478.html 僧兵まつり 三重県菰野町] {{Japanese-history-stub|そうへい}} {{デフォルトソート:そうへい}} [[Category:平安時代]] [[Category:日本の僧]] [[Category:軍人]]
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