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倉俣史朗
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'''倉俣 史朗'''(くらまた しろう、[[1934年]][[11月29日]] - [[1991年]][[2月1日]])は、日本の[[インテリアデザイナー]]である。[[空間デザイン]]、[[家具デザイン]]の分野で60年代初めから90年代にかけて世界的に傑出した仕事をしたデザイナー。[[心不全|急性心不全]]のため、死去。[[享年]]56。欧米の追随に陥らず日本的な形態に頼るでもなく日本国固有の文化や美意識を感じる独自のデザインによってフランス文化省芸術文化勲章を受章するなど国際的に評価をうけていた。そのあまりの独創性ゆえ「クラマタ・ショック」という言葉まで生まれた。 == 略歴 == [[1934年]]に倉俣吉治・清の四男として[[東京都]]・[[本郷 (文京区)|本郷]]にある理化学研究所の社宅に生まれる。 [[1943年]]に東京の家が[[空襲]]で焼ける。後年、空襲時に[[米軍]]機が[[電波妨害]]のための[[アルミチップ]]を落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都[[駒込]]に住む。 [[1956年]]に[[桑沢デザイン研究所]]・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「[[Domus|ドムス]]」誌において''イタリア''デザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。 [[1957年]] - [[1964年]]まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に[[店舗設計]]、[[ショーケース]]、[[ウインドウディスプレイ]]の仕事に携わる。[[1964年]] - [[1965年]](1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。 [[1965年]]に[[クラマタデザイン事務所]]設立。[[1967年]]頃から前衛美術家、[[高松次郎]]やグラフィックデザイナー[[横尾忠則]]とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。 [[1970年]]、[[日本万博博覧会]](EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。[[1972年]]、[[毎日産業デザイン賞受賞]]。[[1974年]]、作家・[[野坂昭如]]が[[参院選]]に出馬した際、運動員の一人として参加する。 1981年、[[エットレ・ソットサス]]の誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「[[メンフィス (デザイン)|メンフィス]]」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。[[1983年]]、工場で大量に出るくずガラスを[[人工大理石]]に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、[[エキスパンドメタル]](金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。 1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。 [[1990年]]、[[フランス文化省]][[芸術文化勲章]]受章。[[1991年]]、[[心不全|急性心不全]]のため、死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。 == 評価 == 倉俣はインテリアデザイナーとして商業空間、家具・照明など手がけたが、あくまで自らの美学と感性を表現したものが多かった。例えば家具デザインについては「自分の思考の原点において確認するための手段」と考え180点余りの優れた家具デザインを遺しているが焼けこげた黒光するスチールを編んで作った椅子「ビギン・ザ・ビギン」などはお世辞にも機能的ではなくアートと言っても過言ではないため、商業デザイナーとしてなのかアーティストとしてなのか倉俣の評価が別れる所だ。また91年に亡くなった後は、日本の[[ポストモダニズム]]の代名詞のように語られてきた。ポストモダニズムは現在、20代前半の若者には古くて少し恥ずかしい風潮として受け止められている。だが倉俣の儚さのある日本国固有の文化や美意識はポストモダンの一言では決して片付けられない。 == 思考 == 倉俣が生涯追求したのは、「夢心地」だった。日常の空間に、重力から解放されたかのような浮游感覚を持ち込み、夢の世界を現出させること。倉俣曰く「商業デザインの魅力は、一回性、消滅性、実験性、つまり[[幕間劇]]。」 == 倉俣と職人達 == 最新の素材(工法)を追求した倉俣を常に信頼できる素材加工のプロ達に支えられていた。 黒子として活躍した彼らとの信頼関係は厚く特に倉俣作品の大半を手がけてきた[[施工]]会社イシマルの石丸隆夫、倉俣の生命線である[[ガラス]]・[[アクリル]]の技術を支えた三保硝子店三代目の三保谷友彦の付き合いは長く深かった。 割れガラス誕生のエピソードとしてある日、三保に倉俣が「ガラスが一番美しいのはいつだ?」と聞くので「割れる瞬間ですね。」と答えると倉俣は「なら止めてみろよ。」と言った。倉俣の仕事を近くで見ていた石丸隆夫は「倉俣さんはマジシャンでした。」と言っている。 == エピソード == * サッカー元・日本代表の[[中田英寿]]はその[[ブログ]]の中で倉俣のファンであると公言している。 * 代表作「ミス・ブランチ」はほとんど手作りに近く高価だった事もあり56脚しか作られなかった。その数字は彼の享年である。 * 希少という事もあり「ミス・ブランチ」は'97年にはロンドンの[[クリスティーズ]]で、$89,000で落札された。 * [[ヨーゼフ・ホフマン]]へのオマージュ椅子にスチールワイヤーを巻きつけ燃やし、ワイヤーのみを残したという衝撃の作品「ビギン・ザ・ビギン」。椅子を燃す時、倉俣はそっと手を合わせたという。 * 家具の名前はとてもユニークで好きだったジャズにちなんだものが多い。 == 代表的な家具 、照明、オブジェ== * [[1968年]] - ピラミッドの家具 * [[1970年]] - 廻回キャビネット * [[1970年]] - ランプ・オバQ * [[1970年]] - 変形の家具シリーズ * [[1970年]] - 引出しの家具シリーズ * [[1970年]] - 硝子の椅子 * [[1977年]] - ソラリス * [[1981年]] - インペリアル * [[1984年]] - スターピース * [[1985年]] - シング・シング・シング * [[1985年]] - ビギン・ザ・ビギン * [[1986年]] - ハウ・ハイ・ザ・ムーン * [[1988年]] - ミス・ブランチ * [[1991年]] - ラピュタ == 交遊関係 == 以下の人物達と親交があった。 * [[安藤忠雄]] * [[磯崎新]] * [[エットレ・ソットサス]] * [[篠山紀信]] * [[高松次郎]] * [[田中一光]] * [[三宅一生]] * [[横尾忠則]] * [[伊東豊雄]] == クラマタデザイン事務所出身者 == * [[榎本文夫]] * [[沖健次]] * [[近藤康夫]] * [[ジョン・ポーソン]] * [[五十嵐久枝]] * [[韓亜由美]] * [[早坂聰史]] * [[伊東史子]] * [[加藤 明]] == 著書 == * 倉俣史朗 1967-1987 ISBN 4891941723 * STAR PIECE 倉俣史朗のイメージスケッチ ISBN 4887060394 * 未現象の風景 ISBN 4795208379 == 外部リンク == * [http://e-daylight.jp/interior/designers/shiro-kuramata/ 倉俣史朗](個人サイト) {{DEFAULTSORT:くらまた しろう}} [[Category:日本のインテリアデザイナー]] [[Category:家具デザイナー]] [[Category:1934年生]] [[Category:1991年没]] [[Category:芸術文化勲章受章者]]
倉俣史朗
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