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佐野七五三之助
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'''佐野 七五三之助'''(さの しめのすけ、[[天保]]7年([[1836年]]) - [[慶応]]3年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1867年]][[7月15日]]))は、[[新選組]]隊士。諱は重之。前名は'''寺西蔵之丞'''。 [[名古屋藩|尾張名古屋藩]]出身。[[尾張国]](現在の[[愛知県]])海部郡須成村の神職・寺西伊予守家班の嫡子として生まれる。[[嘉永]]3年([[1850年]])に父が死去すると、[[尊皇攘夷]]を志し名前を佐野七五三之助と改めて[[江戸]]へ出奔。[[文久]]3年([[1863年]])頃に横浜の外人居留地警備の役目を担った時、[[伊東甲子太郎]]や[[篠原泰之進]]らと出会う。 [[元治]]元年([[1864年]])10月に新選組に入隊し、四番組に所属。慶応3年(1867年)3月に伊東らが新選組を脱退し[[御陵衛士]]を結成した際は、密命を受けて新選組に残留。6月10日の新選組の[[幕臣]]取立てに反対して御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ[[茨木司]]・[[富川十郎]]・[[中村五郎]]らと共に、[[会津藩]]邸内にて切腹した。 一説では、佐野は一旦蘇生し、検死にやってきた[[大石鍬次郎]]に斬りかかったといわれる。これは、一篇の古文書に書かれていたことが拡大したものとされている。また、切腹ではなく大石ら新選組よって惨殺されたともいわれ、佐野は大石に[[槍]]で腹を刺し抜かれたが、抜打ちで大石に手傷を負わせたといわれている。 なお、佐野の懐中には辞世の句が所持してあり、「二張の弓引かましと 武士(もののふ)のただ一筋に思ひ切るなり」とされる。一方で、慶応4年に発刊された辞世集には、この内容と異なる辞世であったことが書き残されているものも見つかっている。 遺骸は新選組の手によって[[光緑寺]]に葬られたが、後に[[鈴木三樹三郎]]らの手によって[[戒光寺]]に改葬された。なお、第24代[[内閣総理大臣]][[加藤高明]]は甥(妹の子)にあたる。 == 参考文献 == *「月刊 歴史読本9月号」 *「碧血碑」 {{DEFAULTSORT:さの しめのすけ}} [[Category:新選組隊士]] [[Category:尾張国の人物]] [[Category:1836年生]] [[Category:1867年没]]
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