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[[画像:佐藤彦五郎家跡.jpg|thumb|200px|佐藤彦五郎家跡 [[日野宿]]本陣]] [[画像:日野市大昌寺.jpg|thumb|200px|墓所 大昌寺]] '''佐藤 彦五郎'''(さとう ひこごろう、[[文政]]10年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]([[1827年]][[11月14日]]) - [[明治]]35年([[1902年]])[[9月17日]])は、[[日本]]の[[村役人]]([[名主]])。下佐藤家当主で、[[日野宿]]組合名主。[[江戸幕府]]の[[京都]][[準軍事組織|警備組織]]である[[新選組]]の[[パトロン|後援者]]で、[[多摩地域]]の指導者。初代[[南多摩郡]]長。[[雅号]]は春日庵盛車。[[明治維新]]後は'''俊正'''を名乗る。 == 生涯 == 文政10年(1827年)、[[武蔵国]][[多摩郡]][[日野市#日野宿|日野宿]]で生まれる。父は'''半次郎'''。母は'''まさ'''。長男であった彦五郎は11歳で祖父の10代彦右衛門から日野本郷[[名主]]、[[日野宿]][[問屋役]]、日野組合村寄場名主を継ぐ。 [[弘化]]2年([[1845年]])、石田村の[[土方歳三]](のちの新選組副長)の姉で従妹にあたる[[佐藤のぶ|とく]]と結婚。[[嘉永]]2年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1849年]][[2月10日]])、日野宿を焼く大火・[[染っ火事]]にみまわれて[[古武道|武芸]]の必要性を感じ、嘉永3年([[1850年]])に[[天然理心流]]3代目[[宗家]]・[[近藤周助]]の門人となる。自邸東側の一角に日野宿では初となる出稽古用の[[道場]]を設け、後の新選組の母体となる[[近藤勇]]、土方歳三、[[沖田総司]]らが出稽古に訪れていた(後日、長屋門に再建された道場とは別物である)。[[安政]]2年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]([[1855年]][[2月10日]])に小野路村組合の寄場名主・[[小島鹿之助]]が近藤と[[義兄弟]]の杯を交わしたことに影響され、同じく近藤と義兄弟の杯を交わしている。 [[文久]]3年([[1863年]])に近藤らが幕府が募集した[[浪士組]]に参加して上洛すると、彦五郎は近藤らに支援を続け、のちに新選組となったあとでも書簡など親交は続き上方情勢が逐次伝えられたことは[[多摩地方]]の地域指導者の政治意識にも影響しているとも指摘される。たとえば、土方が[[京都]]から上田村(かみだむら。現在の[[東京都]][[日野市]]上田)の親戚に書き送った手紙には「委細は彦五郎さんに聞いてくれ」と書いたものが遺されている。資金面など何かにつけ佐藤家とは手紙のやり取りをし、頼みとしていたことが窺われる。また、近藤の上京後、天然理心流当主の空白期間を穴埋めすべく多摩近在の道場まで出張稽古を行っている。 なお、文久3年(1863年)は多摩地方で農兵の取立てが行われ、日野宿組合を中心に農兵隊が編成された。特に[[慶応]]2年([[1866年]])の武州[[一揆]]鎮圧や[[八王子]]壷伊勢屋での[[薩摩藩|薩摩]]浪士捕縛などで活躍している。 慶応4年([[1868年]])3月、[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗れ[[江戸]]に戻ってきた近藤たちを迎え彦五郎は春日盛と称し、農兵隊(春日隊)を組織し[[甲陽鎮撫隊]]に加わった。しかし[[甲州勝沼の戦い]]に敗れて帰郷すると地縁を頼り潜伏し[[官軍]]の追及から逃れて身を隠れたが翌月、[[日野宿]]有志の歎願により[[公職]]に復帰した。 明治維新(多摩地方では「瓦解」)後は小島らと共に近藤らの新選組隊士の復権と[[顕彰]]に尽力した。現在、[[金剛寺 (日野市)|高幡不動]]の[[境内]]に「殉節両雄之碑」が建てられているが、この建立にも関わっている。明治5年([[1872年]])、名を俊正と改め、明治11年([[1878年]])、[[郡区町村編制法]]により多摩郡が東西南北に分けられたとき初代南多摩郡長となっている。 明治35年(1902年)、死去。享年76。 == 俳句 == 彦五郎は[[俳句]]を趣味としていた。春日庵盛車という雅号を持つ。 ;[[京都]]へ旅立つ[[井上源三郎]]、土方に向けて *辻風に まけて曲るな 今年竹 *花毎に 一と葉つゝ添ふ 葵かな ;近藤への追悼句 *鬼百合や 花なき夏を 散りいそく ;土方への追悼句 *待つ甲斐も なくてきえけり 梅雨の月 == 関連項目 == *[[江川英龍]] - 多摩を支配していた伊豆代官。彦五郎の後見人的立場であり、農兵隊を含む幕府兵制の近代化に尽力した。 == 外部リンク == *[http://blog.drecom.jp/hinojyukuhonjin_kentoukai/index.html 日野宿本陣文書検討会] {{DEFAULTSORT:さとう ひこころう}} [[Category:武蔵国の人物]] [[Category:天然理心流剣術]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:日野市の歴史]] [[Category:1827年生]] [[Category:1902年没]]
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