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[[ファイル:Sakaike_kamiyashiki_ato_mono.jpg|thumb|rigtht|250px|酒井家上屋敷跡<br/>[[千代田区]]、[[丸の内]]]]'''伊達騒動'''(だてそうどう)は、[[江戸時代]]前期に[[伊達氏]]の[[仙台藩]]で起こった[[お家騒動]]である。[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]、[[加賀騒動]]または[[仙石騒動]]とともに三大お家騒動と呼ばれる。騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っている。 == 綱宗隠居事件 == 仙台藩3代藩主の[[伊達綱宗]]は遊興放蕩三昧<Ref>事実でなく、口実であるとする説もある。</Ref>であったため、叔父にあたる[[一関藩]]主の[[伊達宗勝]]がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族[[大名]]であった[[岡山藩]]主[[池田光政]]<Ref>忠宗の正室は光政の叔母だった。</Ref>、[[柳川藩]]主[[立花忠茂]]<Ref>忠宗の娘婿で綱宗の義兄だった。</Ref>、[[宮津藩]]主[[京極高国]]<Ref>祖父・政宗の娘婿で忠宗の義弟だった。</Ref>と相談の上、[[老中]]・[[酒井忠清]]に綱宗と仙台藩[[家老]]に注意するよう提訴した。 にもかかわらず綱宗の放蕩は止まず、ついに[[1660年]]([[万治]]3年)[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で[[江戸幕府|幕府]]に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の[[伊達綱村]])の家督相続を願い出た。[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。 なお、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の[[高尾太夫]]の身請け話やつるし斬り事件などは俗説とされる<ref>「[[万治]]元年([[1659年]])12月、[[隅田川]]三又で綱宗に遊船の中で吊し斬りにされた。」「仙台侯が請出して56歳で天寿を全うした。」などの逸話が残るが、実際はこの時代には吉原三浦屋に、高尾の名跡の遊女は存在していない。</ref>。また、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の[[後西天皇]]が従兄弟同士(母親同士が姉妹)であったために、仙台藩と[[朝廷]]が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説もある<ref>伊達騒動関係研究では[[滝沢武雄]]「伊達騒動新考」(『史観』第75冊(1967年)所収)が、近世天皇研究関係では[[久保貴子]]『近世の朝廷運営 –朝幕関係の展開-』(岩田書院・1998年)がこの説を採る。</ref>。 == 寛文事件 == 一般に伊達騒動と呼ばれるのは、この寛文事件を指す。 綱村が藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山常辰が、その失脚後に宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。宗勝は監察権を持つ[[目付]]の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の[[原田宗輔]]もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。 かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の[[伊達宗重]](涌谷伊達氏)と宗勝の甥にあたる[[伊達宗倫 (登米伊達氏)|伊達宗倫]](登米伊達氏)の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦宗重は裁定案<ref>谷地を宗重が3分の1、宗倫が3分の2に分割する案。なお、後年の[[元禄]]10年([[1697年]])に幕府による新たな国絵図の提出を求められたために、参考のために幕府より借用した[[正保国絵図]]で宗重の主張が正しかったことが判明するが、不幸にも仙台藩の持っていた控えが紛失したためか、奉行や後見人が証拠資料として参照していた形跡はない。</ref>を呑んだものの、宗勝の寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じたことにより、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。 寛文11年([[1671年]])1月25日、[[柴田朝意]]は騒動の審問のために伊達宗重より早く江戸幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。また朝意は田村宗良に、自身の老齢を理由に古内義如の江戸出府を要望する。 同年3月7日に伊達宗重、柴田と原田が老中[[板倉重矩]]邸に呼ばれ、[[土屋数直]]列座の下で1度目の審議が行われ、最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を朝意は隠居の綱宗の附家老や田村家家老に送っている。なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなった。 同年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]に当初予定の板倉邸から[[大老]][[酒井忠清]]邸に場所を変更し、酒井忠清を初め老中全員と幕府[[大目付]]も列座する中で2度目の審問が行われるが、その審問中の控え室にて原田はその場で宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷した。聞役の蜂屋も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の[[一関藩]]は改易となった。 刃傷事件の顛末の記録として、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録があり、伝聞としては伊達宗重家臣の川口が事件直後に古内に聞いた話や末期の柴田からその家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがあり、公式記録としては『[[徳川実紀]]』や『寛文年録』、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。また[[歌舞伎]]『[[伽羅先代萩]]』『伊達競阿国戯場』や、[[山本周五郎]]の小説『[[樅ノ木は残った]]』などの題材となった。 派閥は以下のとおり。役職は「仙台市史」より抜粋。 <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *反伊達宗勝派(柴田、古内、片倉、茂庭が宗重の国目付差出を一度妨害したり、古内と柴田が[[伊東重孝]]の死刑を上申したりしているので確固たる派閥とは言い難い) **[[伊達宗重|伊達安芸宗重]](一門、反奥山派→反宗勝派) **[[柴田朝意|柴田外記朝意]](奉行、宗勝から奥山派とされた) **[[古内義如|古内志摩義如]](奉行、宗勝から奥山派とされた) **[[茂庭良元|茂庭周防良元]](若年寄兼評定役) **[[片倉景長|片倉小十郎景長]] **[[里見重勝|里見十左衛門重勝]](小姓頭、旧反奥山派) **[[伊東重孝|伊東七十郎重孝]] **[[蜂屋可広|蜂屋(谷)六郎左衛門可広]](聞役) **[[田村顕住]](出入司、渡辺と原田から宗重派とされた) </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *主な伊達宗勝派 **[[伊達宗勝|伊達兵部少輔宗勝]](一門大名、後見役。当初は[[田村宗良]]同様に奉行の案を追認するだけであったが、後に実権を掌握) **[[奥山常辰|奥山大学常辰]](奉行筆頭、初期には綱宗や[[立花忠茂]]の信任により宗勝以上に実権を握り、[[内分分知]]両後見人と仙台藩との関係を巡って宗勝や田村宗良と対立し、失脚) **[[原田宗輔|原田甲斐宗輔]](奉行、当初は宗勝からは悪評価を受けていたが、奥山失脚後に宗勝の太鼓持ちとして台頭) **[[津田景康|津田玄蕃景康]](若年寄兼評定役) **高泉長門兼康(江戸番頭) **志賀右衛門由清(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる) **浜田一郎兵衛重次(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる) **今村善太夫安長(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人。寵臣の中心人物) **横山弥次郎右衛門元時(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人) **早川淡路永義 **[[渡辺義俊|渡辺金兵衛義俊]](目付→小姓頭。寵臣の中心人物) </div><br style="clear: left;" /> == 綱村隠居事件 == 寛文事件が落着した後、藩主としての権力を強めようとした綱村は、次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになった。これに不快感を示した伊達一門と旧臣は綱村に諌言書を提出したが、聞き入れられなかった。このため[[1697年]]([[元禄]]10年)、一門7名と奉行5名の計12名の連名で、幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みた。これに対し、伊達家親族の[[高田藩]]主[[稲葉正往]]は隠居願いを差し止めた。 その後も再三にわたり、一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続いた。[[1703年]](元禄16年)、この内紛が5代[[徳川将軍家|将軍]][[徳川綱吉]]の耳に達し、仙台藩の[[改易]]が危惧されるようになった。このため[[老中]]([[1701年]](元禄14年)就任)の稲葉正往は綱村に状況を説明し、隠居を勧告した。これに促され、綱村は幕府に対して隠居願いを提出し、綱村には実子が無かったため従弟の[[伊達吉村]]が5代藩主となった。伊達騒動は綱村の隠居でようやく終止符が打たれることになった。 ==題材にした作品== *[[伽羅先代萩]]:[[歌舞伎]]の演目 *伊達競阿国戯場:同上 *[[赤西蠣太]]:[[志賀直哉]]の小説、およびそれを原作とした映画([[伊丹万作]]監督、1936年、千恵プロ)、テレビドラマ *腰抜け伊達騒動:[[斎藤寅次郎]]監督の映画(1952年、松竹) *[[樅ノ木は残った]]:[[山本周五郎]]の小説、およびそれを原作としたテレビドラマ([[樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|1970年NHK大河ドラマ]]他) *危し! 伊達六十二万石:[[山田達雄]]監督の映画(1957年、新東宝) *伊達騒動 風雲六十二万石:[[佐伯清]]監督の映画(1959年、東映) == 参考文献 == *[[大槻文彦]]『伊達騒動実録』 *『大崎外伝 恩讐を越えて(下)寛文事件その後』:[[大崎タイムス]]社 *「仙台市史・通史4・近世2」(仙台市史編さん委員会([[仙台市博物館]]内)・[[平成]]16年) ==脚注== <references/> {{DEFAULTSORT:たてそうとう}} [[Category:江戸時代の事件]] [[Category:宮城県の歴史]] [[Category:仙台藩]] [[Category:伊達氏|*たてそうとう]]
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