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伊東一刀斎
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'''伊東 一刀斎'''(いとう いっとうさい、[[生没年不詳]])は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代|江戸]]初期にかけての[[剣客]]。[[名字]]は'''伊藤'''とも。[[江戸時代]]に隆盛した[[一刀流|一刀流剣術]]の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。[[諱]]は'''景久'''、前名、'''前原弥五郎'''。弟子に[[小野善鬼]]、[[古藤田俊直]]、[[小野忠明|神子上吉明]]ら。 <!--出典不十分、かつ日本語としても意味が通りにくいためコメントアウト。(ノート参照) 一刀斎の剣術は、一見隙だらけのようだが、気がつけば討ち取られ、討ち取ったと思えば逆に討ち取られていたという<ref>英雄かく生まれり 過去世物語 英傑編(リバティ編集部)[[2006年]](平成18年)6月29日発行 ISBN4-87688-549-4</ref>。 --> == 経歴について == 一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がない。生没年は、[[1550年]](天文19年)生年説、[[1560年]](永禄3年)生年し[[1628年]](寛永5年)没説、また[[1632年]](寛永9年)に90余歳で没説、[[1560年]](永禄3年)[[8月5日 (旧暦)]]に生まれ[[1653年]](承応2年)[[6月20日 (旧暦)]]に94歳で没説がある。出身地は、一般には[[伊豆国]][[伊東市|伊東]]の人であり、出身地から伊東姓を名乗ったといわれている。(ただし、伊東には伊東一刀斎についての伝承、伝説等は一切伝わっていない)しかし、「[[瓶割刀]]」の逸話によれば、一刀斎は[[伊豆大島]]の出身で、14歳のときに格子一枚にすがって[[三島市|三島]]に泳ぎ着き、三島神社で[[富田一放]]と試合して勝ち、神主から宝刀を与えられた。この刀で盗賊7人を斬り殺し、最後の1人が大瓶に隠れたところを瓶ごと二つに斬ったという。ほかに、『一刀流傳書』によれば西国生まれとし、[[山田次朗吉]]によれば[[唯心一刀流|古藤田一刀流]]の[[伝書]]に[[近江国|近江]][[堅田]]生まれの記述があるという。『絵本英雄美談』によれば[[加賀国|加賀]][[金沢市|金沢]]か、[[越前国|越前]][[敦賀市|敦賀]]生まれで、[[敦賀城]]主[[大谷吉継]]の剣の師だったが、大谷が[[関ヶ原の戦い]]で戦死したために浪人し、[[下総国|下総]]小金原(現在の[[松戸市]]小金付近か)に隠棲して死去したともいう。また、終焉地についても[[丹波国|丹波]][[篠山市|篠山]]説もある。 == 一刀斎の師と剣術の極意 == 『一刀流極意』([[笹森順造]])によると「高上金剛刀を極意とし英名を走せていた[[中条流]]の達人[[鐘捲自斎]]通宗を江戸に訪ね、就いて自斎から中条流の小太刀や自斎の工夫になる中太刀を学んだ。弥五郎(一刀斎)は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだので(中略)自斎は深く感心して自流の極意、奥秘の刀たる妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五点を悉く弥五郎に授けた」という。ほかにも、自ら編み出した極意として、愛人に欺かれて刺客に寝込みを襲われ、逆襲したときに生まれたという秘太刀「払捨刀」、他に刃引・相小太刀・越身、[[鶴岡八幡宮]]に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などがある([[溝口派一刀流]]伝書、他流伝書)。「景久師、回國他流戰三十三なりと、没日は七日なりと。年號つまびらかならず」(『一刀流歴代略』)とあるようにその後一刀斎は諸国を遍歴し、勝負すること33度、ただの一度も敗れなかったという。 現存する伝[[真田信繁]]写本『源家訓閲集』に収録の「夢想剣心法書」には、[[1595年]](文禄4年)7月のもので署名が「外田一刀斎他二名」とある。外田一刀斎とは鐘捲自斎の別名でもあり、自斎も経歴のよくわからない人物である。したがって、出身地など両者の事績が重なっている可能性もあると考えられる。一方、[[柳生氏]]の記録『玉栄拾遺』の注記には、一刀斎の師は「[[山崎盛玄]]」とされている。「名人越後」と称された[[富田重政]]([[中条流|富田流]])の弟(兄とも)に[[山崎景成|山崎左近将監景成]]があり、剣名が高かった。あるいはこの山崎景成が「山崎盛玄」である可能性もある。 == 唐人との試合 == 天正年間、[[相模国|相模]]三浦三崎に戸田一刀斎が諸国武者修行の途次に立ち寄り、多くの入門者があったとされる。このとき、[[後北条氏|北条氏]]の家臣、[[古藤田俊直]](古藤田一刀流、または外他一刀流、唯心一刀流の祖)を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうである。[[1578年]](天正6年)、三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で[[木刀]]を持った十官と試合し、勝ったといわれる。 == 一刀流の相伝 == 『一刀流口傳書』、『[[撃剣叢談]]』によれば、一刀斎は弟子の[[小野善鬼|善鬼]](姓不詳。なお一刀斎との出会いを描いた『[[耳袋]]』[[写本]]では船頭とあり名は記述されていない。小野姓とするのは俗説)と神子上典膳に[[下総国]]小金原(現[[千葉県]][[松戸市]]小金原付近。なお『雜話筆記』では濃州桔梗ガ原([[乗鞍岳]]北)とする)で勝負させ、勝った典膳に一刀流秘伝を相伝した。典膳は後に一刀斎に徳川家康へ推薦され[[1593年]](文禄2年)に[[徳川秀忠]]に200石で仕えた[[小野忠明]](小野次郎右衛門)である。一刀流は、小野忠明の後、子の[[小野忠常]]の[[小野派一刀流]]、忠明の弟(次子とも)の[[伊藤忠也|伊藤典膳忠也]](『剣術系図』彰考館本の注に修行時代兄の前の名前神子神典膳と名乗ったとされる)の[[伊藤派一刀流]](忠也派とも)に分かれ、以後も多くの道統が生まれた。 == 関連項目 == *[[一刀流]] *[[伊藤彦造]] *[[鐘捲流]] == 参考書籍 == *『日本剣豪100選』([[綿谷雪]]著、[[秋田書店]]) *[[根岸鎮衛]] 『[[耳嚢]]』全3冊 [[長谷川強]]校注、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。伊東一刀斎についての逸話を収録。 == 小説 == * [[峰隆一郎]]『日本剣鬼伝伊東一刀斎』[[祥伝社]] * [[仁田義男]]『剣聖伊藤一刀斎(5部作)』[[徳間書店]] * [[戸部新十郎]]『伊東一刀斎(上・中・下巻)』[[光文社]] * [[好村兼一]]『伊藤一刀斎(上・下巻)』[[廣済堂出版]] * [[小島英記]]『天下一の剣 』[[日本経済新聞]]出版社 * [[柴田定]]『剣豪一刀斎』[[牧歌舎]] <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references/></div> --> {{DEFAULTSORT:いとう いつとうさい}} [[Category:一刀流剣術|*]] [[Category:剣客]] [[Category:生没年不詳]]
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