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京極持清
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 京極持清 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[室町時代]]中期 - 後期 | 生誕 = [[応永]]14年([[1407年]]) | 死没 = [[文明 (日本)|文明]]2年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]([[1470年]][[8月30日]]) | 改名 = | 別名 = | 戒名 = 宝生寺月林生観 | 墓所 = [[滋賀県]][[米原市]][[徳源院]] | 官位 = [[従四位|従四位上]][[中務省|中務少輔]]、[[大膳職|大膳大夫]] | 幕府 = [[室町幕府]][[侍所]]頭人兼[[山城国|山城]][[守護]]<br/>[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]・[[飛騨国|飛騨]]・[[近江国|近江]]守護 | 主君 = [[足利義勝]]→[[足利義政|義政]] | 氏族 = [[京極氏]] | 父母 = 父:[[京極高光]]、母:[[正親町三条公豊]]の娘 | 兄弟 = [[京極持高|持高]]、'''持清'''、女([[細川持之]]室) | 妻 = | 子 = [[京極勝秀|勝秀]]、[[京極政光|政光]]、[[京極政経|政経]]、娘([[畠山政長]]室) }} '''京極 持清'''(きょうごく もちきよ)は、[[室町時代]]中期から後期の[[武将]]、[[守護大名]]。[[室町幕府]][[侍所]]頭人兼[[山城国|山城]]守護、[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]・[[飛騨国|飛騨]]・[[近江国|近江]]守護。[[京極高光]]の次男。兄弟に[[京極持高|持高]]、[[細川持之]]室。子に[[京極勝秀|勝秀]]、[[京極政光|政光]]、[[京極政経|政経]]、娘([[畠山政長]]室)。[[細川勝元]]は甥にあたる。官位は[[従四位|従四位上]][[中務省|中務少輔]]、[[大膳職|大膳大夫]]。 == 生涯 == [[京極高光]]の子として生まれる。のちに[[元服]]し、[[室町幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]より[[偏諱]]を授与されて'''持清'''と名乗る。 [[応永]]20年([[1413年]])に父が亡くなり、兄の[[京極持高|持高]]が後を継ぐが、持高は[[永享]]11年([[1439年]])に子を残さないまま亡くなった。薩戎記はこの後に叔父の[[京極高数|高数]]が家督を継いだとし、[[西讃府史]]は持清が家督を継いだとしている。いずれにせよ、高数は翌々年の[[嘉吉]]元年([[1441年]])6月に起こった[[嘉吉の乱]]で、第6代将軍[[足利義教]](義持の弟)と共に[[赤松満祐]]邸で赤松家の家臣に討たれる。 室町幕府は満祐の追討軍を[[播磨国|播磨]]へ送り、その間に持清は侍所頭人に任命され[[京都]]の警護を行うが、8月に[[嘉吉の徳政一揆]]が起こり清水坂で一揆と戦っている。その後満祐の追討がなされ、幕府が[[徳政令]]を発する事により一揆も治まり、12月に持清は出雲・隠岐・飛騨の守護職を継いだ。 [[文安]]3年([[1446年]])に同族で[[佐々木氏]]一門の宗家である[[六角氏]]において家督争いが生じ、幕府の命により[[六角久頼]]を助けこれを鎮めるが、後に久頼は持清との確執を理由に自害し、嫡子の亀寿丸([[六角高頼|六角行高(高頼)]])が後を継いだ。翌文安4年([[1447年]])に侍所頭人を辞任するが、文安6年([[1449年]])に再任され、以降は[[寛正]]7年([[1466年]])まで長く務める。この間、寛正元年([[1460年]])には出家して'''生観'''と改名しており、2年後の寛正3年([[1462年]])に開いた[[花会]]では[[池坊専慶]]に立てさせた花が評判になったという。 [[応仁]]元年([[1467年]])に[[応仁の乱]]が起こると、甥・細川勝元の率いる東軍に家臣で従弟の[[多賀高忠]]と共に1万余騎を率いて属し、洛中の花開院塩屋、一条大宮などで西軍と戦う。翌応仁2年([[1468年]])には西軍についた六角行高と近江で戦い、長男の勝秀と高頼の従兄の[[六角政堯]]が高頼の本拠地である[[観音寺城]]を落とし、翌文明元年([[1469年]])には六角氏が代々務めて来た近江守護職に任じられた。出雲では[[守護代]]の[[尼子清定]]が出雲[[国人]]の反乱を鎮圧、恩賞として[[能義郡]]奉行職や[[美保関]]代官職を与えた(清定には以前に「清」の字も与えている。後述「偏諱を与えた人物」を参照)。以後も高頼との戦いが続く中、文明2年(1470年)に64歳で病死した。 家督は勝秀が応仁2年に持清に先立って亡くなっていたため、孫で勝秀の嫡子と考えられている[[京極孫童子丸|孫童子丸]]が継ぐが、孫童子丸も僅か1年で亡くなり、後を3男の政経と4男とも孫(勝秀の子)ともされる[[京極高清|高清]]が争う。家督は政経が継いだが、頭角を現してきた出雲の守護代[[尼子経久]](清定の子)に出雲を奪われる。その事により更なる内紛が起こるのである([[京極騒乱]])。 法名は宝生寺月林生観。墓所は[[滋賀県]][[米原市]]の[[徳源院]]で、歴代当主と並んで宝篋印塔が置かれている。 == 偏諱を与えた人物 == *[[尼子清定|尼子'''清'''定('''清'''貞)]](京極氏一門、出雲国守護代、経久の父) *[[浅井清政|浅井'''清'''政]]? *[[多賀清直|多賀'''清'''直]](家臣、[[多賀氏]]出雲守家) == 参考史料 == *[[西讃府史]] *[[嘉吉記]] *[[応仁記]] *薩戎記 *碧山日禄 *新修島根県史 *戦国大名閨閥事典 第二巻 [[小和田哲男]]編、[[新人物往来社]]、1996年 {{京極氏歴代当主}} {{DEFAULTSORT:きようこくもちきよ}} [[Category:室町時代の人物]] [[Category:守護大名]] [[category:戦国大名]] [[Category:京極氏|もちきよ]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:1407年生]] [[Category:1470年没]]
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