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'''享保の大飢饉'''(きょうほうのだいききん)とは、[[江戸時代]]中期に起こった[[飢饉]]である。[[江戸四大飢饉]]の一つに数えられる。 ==概要== [[1732年]]([[享保]]17年)夏、冷夏と害虫により[[中国地方|中国]]・[[四国地方|四国]]・[[九州地方]]の[[西日本]]各地、中でもとりわけ[[瀬戸内海]]沿岸一帯が凶作に見舞われた。[[1731年]](享保16年)末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続いた。[[梅雨]]からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このため、[[イナゴ]]や[[ウンカ]]などの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらした。 被害は西日本諸[[藩]]のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人にも達した(『[[徳川実紀]]』によれば餓死者969,900人)。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。また、[[1733年]]([[享保]]18年)正月に飢饉による[[米価]]高騰に困窮した[[江戸]]市民によって[[享保の打ちこわし]]が行われた。 ==その他== 最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって[[大三島]]だけは[[下見吉十郎]]がもたらした[[サツマイモ]]によって餓死者を出すことはなく、それどころか余った米を[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]に献上する余裕があった。 この飢饉を教訓に、時の[[徳川将軍家|将軍]][[徳川吉宗]]は[[米]]以外の[[穀物]]の栽培を奨励し、試作を命じられた[[青木昆陽]]らによって東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した。 {{DEFAULTSORT:きようほうのたいききん}} [[Category:日本の飢饉]] [[category:江戸時代の災害]] [[Category:江戸時代の経済]]
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