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井上馨
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{{政治家 |人名 = 井上 馨 |各国語表記 = |画像 = Kaoru Inoue 4.jpg |画像説明 = 井上馨 |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = [[1836年]][[1月16日]]<br /> |出生地 = {{Flagicon|JPN}} [[周防国]] [[湯田村]] |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1836|1|16|1915|9|1}} |死没地 = {{JPN1889}} [[静岡県]] [[静岡市]] |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = [[従一位]]<br />[[大勲位菊花章頸飾]]<br />[[侯爵]] |配偶者 = |国旗 = 日本 |職名 = 第5代 [[外務大臣 (日本)|外務卿]] |就任日 = [[1879年]][[9月10日]] |退任日 = [[1885年]][[12月22日]] |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] |国旗2 = 日本 |内閣2 = [[第1次伊藤博文内閣]] |就任日2 = 1885年12月22日 |退任日2 = [[1887年]][[9月17日]] |国旗3 = 日本 |職名3 = 第5代 [[農商務省 (日本)|農商務大臣]] |内閣3 = [[黒田内閣]] |就任日3 = [[1888年]][[7月25日]] |退任日3 = [[1889年]][[12月23日]] |国旗4 = 日本 |職名4 = 第10代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]] |内閣4 = [[第2次伊藤内閣]] |就任日4 = [[1892年]][[8月8日]] |退任日4 = [[1894年]][[10月15日]] |国旗5 = 日本 |職名5 = 第6代 [[財務大臣|大蔵大臣]] |内閣5 = [[第3次伊藤内閣]] |就任日5 = [[1898年]][[1月12日]] |退任日5 = [[6月30日]] }} [[ファイル:Choshu Five.jpg|thumb|200px|長州五傑]] '''井上 馨'''(いのうえ かおる、[[天保]]6年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]([[1836年]][[1月16日]]) - [[大正]]4年([[1915年]])[[9月1日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[長州藩]]士)、[[政治家]]、[[実業家]]。[[本姓]]は[[源氏]]。[[清和源氏]]の一家系[[河内源氏]]の流れを汲む安芸国人[[毛利氏]]家臣・[[井上氏]]。[[桂太郎]]は娘婿。 [[幼名]]は勇吉、[[仮名 (通称)|通称]]を聞多(もんた、長州藩主・[[毛利敬親]]から拝受)。[[諱]]は惟精(これきよ)。[[太政官#太政官制|太政官制]]時代に[[外務卿]]、[[参議]]など。[[黒田内閣]]で[[農商務大臣]]を務め、[[第2次伊藤内閣]]では[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]など、数々の要職を歴任した。[[栄典]]は[[従一位]][[大勲位菊花章頸飾|大勲位]][[侯爵]]、[[元老]]。 == 生涯 == === 生い立ち === 長州藩士・[[井上光亨|井上五郎三郎光亨]](大組・100石)の次男として、[[周防国]]湯田村([[山口市]]湯田温泉)に生まれる。のち、長州藩士・[[志道氏|志道家]](大組・250石)の養嗣子となるも、のち井上家に復籍。[[小姓]]役等を勤めた。両家とも[[毛利元就]]以前から[[毛利氏]]に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みの良い中級武士であった。[[藩校]][[明倫館]]に入学した後(よく間違えられるが[[吉田松陰]]の主催する[[松下村塾]]には入学していない)、江戸で[[岩屋玄蔵]]や[[江川英龍]]に師事して[[蘭学]]を学んだ。 === 長州藩士時代 === 次第に勃興した[[尊皇攘夷]]運動に共鳴、江戸遊学中の[[文久]]2年([[1862年]])には[[御楯組]]の一員として[[高杉晋作]]や[[久坂玄瑞]]らとともに[[英国公使館焼き討ち事件|イギリス公使館焼討ち]]に参加するなどの過激な行動を実践する。 文久3年([[1863年]])、執政・[[周布政之助]]を通じて洋行を藩に嘆願、[[伊藤博文]]・[[山尾庸三]]・[[井上勝]]・[[遠藤謹助]]とともに[[長州五傑]]の一人としてイギリスへ密航するが、留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、[[下関戦争|下関での外国船砲撃事件]]では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。 第1次[[長州征伐]]では武備恭順を主張したために[[俗論党]]([[椋梨藤太]]を参照)に襲われ([[袖解橋の変]])、瀕死の重傷を負った。ただ、[[芸妓]]の[[中西君尾]]から貰った鏡を懐にしまっていた為、急所を守ることが出来、美濃の浪人で医師の[[所郁太郎]]の手術を受けて一命を取り留めた。このときあまりの重傷に聞多は兄・五郎三郎に[[介錯]]を頼んだ。しかしながら母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。この時のエピソードは後に[[アサヒ読本|第五期国定国語教科書]]に「母の力」と題して紹介されている。後、当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏し[[別府温泉]]の古湯[[楠温泉]]にてしばらく療養した。 その後、高杉晋作らと協調して[[長府]][[功山寺]]で決起。再び藩論を開国攘夷に統一した。[[慶応]]元年([[1865年]])、[[坂本龍馬]]の仲介で[[薩摩藩]]と同盟し([[薩長同盟]])、第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。 慶応3年([[1867年]])の[[王政復古]]の後は、九州鎮撫総督の参謀となり、長崎へ赴任。のちに[[長崎製鉄所]]御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。 === 明治維新後 === [[画像:KaoruM13.jpg|thumb|right|200px|1880年(明治13年)<!--の[[大礼服]]の井上馨-->]] 明治維新後は[[大蔵省]]に入り、主に財政に力を入れた。大蔵卿・[[大久保利通]]の外遊中は留守を預かり副大臣相当職の大蔵大輔ながら「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。[[明治]]6年([[1873年]])、[[司法省|司法卿]]・[[江藤新平]]らに予算問題や[[尾去沢鉱山#尾去沢銅山事件|尾去沢銅山の汚職事件]]を追及され辞職。一時は三井組を背景に[[先収会社]]([[三井物産]]の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、外務卿、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[農商務大臣]]、内務大臣、[[大蔵大臣]]を歴任。 明治16年(1883年)、外務卿となった後は、[[鹿鳴館]]を建設。不平等[[条約改正]]交渉にあたる。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと[[官庁集中計画]]を進めた。条約改正、官庁集中計画は井上辞任に伴い頓挫した。その際に井上の秘書として活躍した[[アレクサンダー・フォン・シーボルト]]は勲一等、兄アレキサンダーと共に交渉に関わった[[ハインリッヒ・フォン・シーボルト]]には勲三等が後に与えられた。両名は医師[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]の長男と次男である。 また実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業につとめた。明治17年(1884年)[[華族令]]で[[伯爵]]、明治40年(1907年)には侯爵に陞った。[[日本郵船]]・[[DOWAホールディングス|藤田組]]、特に[[三井財閥]]においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった[[西郷隆盛]]は井上のことを「三井の[[番頭]]さん」と皮肉っている。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。 [[第4次伊藤内閣]]の崩壊後、[[大命降下]]を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった[[渋沢栄一]]を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するに至った。(なお第2次伊藤内閣の内相時代、伊藤が交通事故で重傷を負ったため井上が2か月余り総理臨時代理を務めている)。伊藤亡きあと、[[西園寺公望]]や[[松方正義]]などと共に元老として、政官財界に絶大な影響力を持った。 明治44年([[1911年]])[[5月10日]]、維新史料編纂会総裁仰付<ref>『官報』第8363号、「官庁事項」1911年05月11日。</ref>。 [[大正]]4年(1915年)、[[静岡県]][[興津町 (静岡県)|興津町]](現:[[静岡市]][[清水区]])の別荘・長者荘で死去した。 == 栄典 == * 明治19年([[1886年]])[[2月3日]] - [[ガージャール朝|波斯国]]獅子太陽第一等勲章<ref>『官報』第776号、「官庁事項」1886年02月05日。</ref> * 明治39年([[1906年]])[[4月1日]] - [[大勲位菊花大綬章]] * 明治40年([[1907年]])[[9月21日]] - [[侯爵]]<ref>『官報』第7272号、「授爵叙任及辞令」1907年09月23日。</ref> * 大正4年([[1915年]])[[9月1日]] - [[従一位]]、[[大勲位菊花章頸飾|菊花章頸飾]]<ref>『官報』第927号、「叙任及辞令」1915年09月03日。</ref> == 人物 == === 業績 === [[ファイル:Choshu-Kaoru_Inoue.jpg|200px|thumb|長州藩士時代の井上馨([[内田九一]]撮影)]] 維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった、行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は、井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。1度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で同藩出身の[[山縣有朋]]とともに過去の汚職にも関わらず絶大な存在感を示した。 外務大臣としての従事期間は長く、その間、[[条約改正]]に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の[[大隈重信]]・[[青木周蔵]]・[[陸奥宗光]]らに至って現れて来ていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであるから、国内での影響力と同じ尺度で評価する事は適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていた為に、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていた事が窺い知れる。 === 逸話 === * 仕事上で特に深く関わった人物は、[[渋沢栄一]]、[[益田孝]]等はじめ多数。長寿だったため、縁者である[[鮎川義介]](実姉常子の孫)や鮎川の義弟・[[久原房之助]]への指導もしている。 *恩義を忘れぬ情厚き面があり、旧藩主[[毛利家]]一族や[[長井雅楽]]、[[高杉晋作]]の遺族や、命の恩人の医師・[[所郁太郎]]の子孫に手厚く報いた<ref>[[渡邊毅]]「母の力 瀕死の井上聞多を救う」『[[産経新聞]]』2011年6月11日(土)</ref>。 * 親友は[[吉富簡一]](山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作と伊藤博文とは終世親しく交際していた。 * 芸能界との親交も多く、[[歌舞伎役者]]の[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]](かつての養家から泣きつかれて背負いこんだ経営不振の[[河原崎座]]の借財整理に協力したり、欧米に負けない国劇の創造を目指して歌舞伎に注目し、[[天覧歌舞伎]]の会場を提供した。)、[[落語家]]の[[三遊亭圓朝]]、[[清元]]のお葉、[[義太夫]]の[[竹本越後太夫]]などが名を連ねる。 * 明治19年([[1886年]])2月10日、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として[[鹿鳴館]]での[[舞踏会]]に出席中、十数名の暴漢に襲われそうになったが、[[ボディーガード|警護]]役の[[得能関四郎]]が応戦して11名を逮捕し、難を逃れた。この事件は得能の[[剣術|剣客]]としての名声を高めることとなった。 * 美術品収集に熱心で、茶会に招かれた先で気に入った茶碗や掛物を「貰っておく」と言い、半ば強引に奪い取っていた。明治の元勲、当時の権力者には逆らえず、持ち主は泣き寝入りするしかなかったという。この話を聞いた[[明治天皇]]は井上の茶会に行幸し、掛物を「貰う」と言い出し井上を狼狽させ、横暴をたしなめたという<ref>[[白洲正子]]『白洲正子自伝([[新潮社]])』より</ref>。 * ほぼ毎年[[遺言書]]を更新していた(そのうちの一枚がテレビ番組『[[開運!なんでも鑑定団]]』で取り上げられたことがあり200万円の値がついている)。 *鉄道庁は明治41年(1908年)、長者荘への病気見舞客のため新橋及び神戸発の[[最急行]]を[[興津駅]]に停車させることにした<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920436/259 「病める井上侯の為急行列車興津に1分間停車」中外商業新報1908年9月9日『新聞集成明治編年史. 第十三卷』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。 === 他人からの評価 === * その短気と怒声から「雷親父」とあだ名されていた。一方、右腕とする渋沢栄一には絶大な信頼をおいており、渋沢が近くにいる限り井上は語気を荒らげることすらなかったので、渋沢のまわりには雷は落ちないということから、彼は「[[避雷針]]」とあだ名されていた。ただしその渋沢本人は「本当の避雷針は井上氏」だったといい、どんな攻撃も井上が体をはって受け止めてくれたからこそ自分はやりたいように仕事ができたと述懐している。 * <!--[[明治維新]]から20年間について-->大隈重信は伊藤と井上の二人を次のように評している。「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった……井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから、敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから、伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事の中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」。 * 林学博士・[[中村弥六]]によると「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた」という。直情径行で曖昧を許さない。必要な場所に自身で出かけて行き、膝詰談判をした。意にそまぬ事があると一喝にあう。この一喝にあってそれっきり寄り付かぬ者、敵になった者もあるが、元来親切から出ているので、一喝にあっても怯まず、自ら偽らず自信のある者は後に出世した者が多い。 * [[徳富蘇峰]]は、「彼は官業反対論者なり。彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害する<!--のみならず、自ら屋上屋を架し-->…」ものと考えていたことを紹介し、井上の合理主義者としての一面を評価している。 * 明治10年代(1877年 - 1886年)のドイツ公使アイゼンデッヒャーは井上について「前外務卿([[寺島宗則]])よりよく、温和で礼儀正しい人物であった」と述べている。 == 系譜 == === 系図 === * [[井上氏#安芸井上氏|井上氏]] <pre> 光亨┳光遠==馨==┳勝之助==三郎┳光貞━光順━光隆 ┃ ┃ ┃ ┗馨 ┣千代子 ┣元勝 ┃ ┃ ┗可邦子 ┣元廣 ┃ ┗武子 </pre> <pre> 柳原承光━━真美子 桂太郎━━井上三郎 ┃ ┃ ┃ ┏井上光隆 ┣━━━井上光貞 ┣━━┫ ┃ ┃ ┃ ┗井上光博 井上馨━━千代子 ┃ ┃ ┣━━━井上光順 ┃ 伊達宗徳━━二荒芳徳 ┃ ┃ ┏明子 ┣━━┫ ┃ ┗治子 北白川宮能久親王━━━拡子 ┃ ┃ ┏石坂一義 ┃ ┣石坂泰介 ┃ 石坂泰三 ┣石坂泰夫 ┃ ┃ ┣━━╋石坂泰彦 ┃ ┃ 織田一━━雪子 ┣石坂信雄 ┃ ┣智子 ┃ ┗操子 ┃ 霜山精一━━霜山徳爾 </pre> === 家族・親族 === *妻 武子。[[新田俊純|新田満次郎]]の娘。[[交代寄合]]家出身だが、[[明治維新]]時には経済的困窮から[[茶屋]]奉公をしていたと言われる。実家はのちに[[男爵]]家となる。<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=wo9yRzViYhIC&pg=PA95 『老記者の思ひ出』]朝比奈知泉、中央公論社, 1938</ref>。 *養嗣子 [[井上勝之助]](甥:兄光遠の二男、[[外交官]]) *娘 井上千代子(養嗣子・勝之助の養女、従妹) *養孫・婿 [[井上三郎]]([[桂太郎]]の三男、勝之助の養嗣子、娘・千代子の夫、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[少将]]) *孫にあたる東大名誉教授[[井上光貞]](三郎・千代子夫妻の長男)は日本古代史の研究者として知られた。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連作品 == ; 映画 * 『[[明治天皇と日露大戦争]]』(1957年、[[新東宝]]、演:[[藤田進]]) * 『[[日本海大海戦]]』(1969年、[[東宝]]、演:[[竜岡晋]]) * 『[[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]]』(1986年、東宝、演:[[山西道広]]) * 『[[長州ファイブ]]』(2006年、演:[[北村有起哉]]) ; テレビドラマ * 『[[三姉妹]]』(1967年、[[NHK大河ドラマ]]、演:[[高津住男]]) * 『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』(1968年、NHK大河ドラマ、演:[[長谷川明男]]) * 『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』(1974年、NHK大河ドラマ、演:[[明石勤]]) * 『[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]』(1977年、NHK大河ドラマ、演:[[東野英心]]) * 『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』(1982年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:[[佃文伍郎]]) * 『[[春の波涛]]』(1985年、NHK大河ドラマ、演:[[土屋嘉男]]) * 『[[妻たちの鹿鳴館]]』(1988年、TBS、演:[[田村高廣]]) * 『[[奇兵隊 (テレビドラマ)|奇兵隊]]』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:[[萩原流行]]) * 『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』(1990年、NHK大河ドラマ、演:[[長谷川初範]]) * 『[[勝海舟 (1990年のテレビドラマ)|勝海舟]]』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:[[木場勝己]]) * 『[[夜会の果て]]』(1997年、NHK[[水曜ドラマ (NHK)|水曜ドラマ]]、演:[[寺田農]]) * 『[[山田風太郎 からくり事件帖-警視庁草紙より-]]』(2001年、NHK、演:[[伊武雅刀]]) * 『[[明成皇后 (テレビドラマ)|明成皇后]]』(2001-2002年、KBS、演:[[パク・クニョン]]) * 『[[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:[[藤波晟]]) * 『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』(2008年、NHK大河ドラマ、演:[[吉野容臣]]) * 『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』(2009年-2011年、NHK、演:[[大和田伸也]]) * 『[[龍馬伝]]』(2010年、NHK大河ドラマ、演:[[加藤虎ノ介]]) ; 舞台 * 『妻たちの鹿鳴館』(2000年、[[明治座]]、演:[[小島秀哉]]) * 『妻たちの鹿鳴館』(2002年、明治座、演:[[竹脇無我]]) == 関連項目 == * [[第百十一銀行]] * [[日朝修好条規]] 副使として交渉に当たった。 * [[甲午農民戦争]] * [[北海道開拓事業]] * [[尾去澤銅山事件]] * [[藤田組贋札事件]] * [[小野田セメント]] * [[東本願寺借財整理]] * [[曹洞宗内紛]] * [[自治党]] * [[新島襄]] * [[井上公園]] * [[天覧歌舞伎]] == 外部リンク == {{Commons|Inoue Kaoru}} *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/inouekaoru.html 国立国会図書館 憲政資料室 井上馨関係文書] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/18.html 井上馨 | 近代日本人の肖像] *[http://www.geocities.jp/bane2161/inouekaoru.htm 井上馨] *[http://www.yudaonsen.com/guide/takada/index.shtml 井上公園(井上馨の生家跡に作られた公園)] {{Start box}} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} 第5代 [[外務大臣 (日本)|外務卿]] | years = 1879年9月10日 - 1885年12月22日 | before = [[寺島宗則]] | after = 外務大臣へ }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} 初代 外務大臣 | years = 1885年12月22日 - 1887年9月17日 | before = 外務卿より | after = [[伊藤博文]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} 第4代 [[農商務省 (日本)|農商務大臣]] | years = 1888年7月25日 - 1889年12月23日 | before = [[榎本武揚]] | beforenote = 臨時兼任 | after = [[岩村通俊]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} 第10代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]] | years = 1892年8月8日 - 1894年10月15日 | before = [[河野敏鎌]] | after = [[野村靖]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} 第6代 [[財務大臣|大蔵大臣]] | years = 1898年1月12日 - 同6月30日 | before = [[松方正義]] | after = [[松田正久]] }} {{End box}} {{元老}} {{外務大臣}} {{農商務大臣}} {{内務大臣}} {{財務大臣}} {{在韓国日本大使||朝鮮公使}} {{DEFAULTSORT:いのうえ かおる}} [[Category:井上氏|かおる]] [[Category:志道氏]] [[Category:長州藩海軍の人物]] [[Category:下関戦争の人物]] [[Category:維新の元勲]] [[Category:日本の伯爵]] [[Category:日本の財政家]] [[Category:日本の外務大臣]] [[Category:明治日本の公使]] [[Category:日本の元老院議官]] [[Category:貴族院侯爵議員]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:廃止された府県の知事]] [[Category:日本の条約改正の人物]] [[Category:三井グループの人物]] [[Category:東京地学協会の人物]] [[Category:帝国軍人援護会の幹部]] [[Category:日本から密出国した人物]] [[Category:日本の美術品収集家]] [[Category:大勲位菊花大綬章受章者]] [[Category:勲一等旭日大綬章受章者]] [[Category:聖マイケル・聖ジョージ勲章]] [[Category:1836年生]] [[Category:1915年没]]
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