井上正夫のソースを表示
←
井上正夫
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
[[画像:Inoue_masao.jpg|thumb|200px|[[松山市駅]]前に立つ井上正夫胸像]] '''井上 正夫'''(いのうえ まさお、本名:'''小坂 勇一'''、[[1881年]](明治14年)[[6月15日]] - [[1950年]](昭和25年)[[2月7日]])は、明治・大正・昭和期の[[新派|新派劇]][[俳優]]、[[映画監督]]、[[書家]]。 == 来歴 == [[1881年]](明治14年)、[[愛媛県]][[浮穴郡]]大南村(現・[[伊予郡]][[砥部町]])中通に生まれる。父は[[砥部焼]]仲買人で劇場支配人でもあった。 [[1898年]](明治31年)、18歳。陶器商の奉公に出ていた大阪で新派劇の芝居を見て感銘を受け、[[松山市|松山]]を興行中だった「敷島義団」にはいり、「小坂幸二」の名で舞台に上がる。 [[1904年]](明治37年)、23歳。「敷島義団」解散後、地方劇団を転々としたのち上京し、東京・中州(現・[[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]])「真砂座」の「[[伊井蓉峰]]」一座に加わる。 [[1905年]](明治38年)、24歳。芸名を「井上正夫」に改め、[[田口掬汀]]原作の『女夫波』に出演し、人気を博する。 [[1910年]](明治43年)、29歳。新しい演劇を目指し、新派劇を離れ、「新時代劇協会」を結成した。第1回公演で[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]の『馬盗坊』などを[[有楽座 (旧)|有楽座]]において上演した。旧来の演劇に抗して、女優の起用、野外劇、連鎖劇(演劇の合間に映画を挿入した劇)など新機軸を打ち出したが、一般大衆の支持を得るにはいたらなかった。 [[1915年]](大正4年)、34歳。映画制作を思い立ち、[[小林商会]]に入社。映画の制作を始める。 同年、『搭上の秘密』で初監督。主演もこなす。 小林商会では[[カットバック]]や[[移動撮影]]、[[クローズアップ]]、[[スーパーインポーズ (映像編集)|説明字幕]]など当時画期的な新手法を用いて、新時代の扉を開いた。 [[1920年]](大正9年)、39歳。さらに新知識を吸収すべくアメリカ視察を行う。帰国後、映画・ラジオドラマで腕を振るい、大きな足跡を残す。 [[1924年]](大正13年)、43歳。アメリカ視察を踏まえ、日本最初の[[ラジオドラマ]]『大尉の娘』の製作にかかわり、翌[[1925年]](大正14年)に出演をこなす。 [[1926年]](大正15年)、45歳。「[[新感覚派]]映画連盟」の映画『[[狂つた一頁]]』([[衣笠貞之助]]監督)に出演。 [[1931年]](昭和6年)、50歳。新派は全盛期を迎え、東京の[[明治座]]で『丘を越えて』、『二筋道」、『[[金色夜叉]]』の公演を行い、[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]を起用。新派俳優が総出演した。 [[1932年]](昭和7年)、51歳。同郷の映画監督[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]の『噫(ああ)無情』全二巻(ヴィクトル・ユーゴー原作)に主演、ジャン・バルジャンを演じる。 [[1936年]](昭和11年)、55歳。「新派劇ほど俗っぽくなく、[[新劇]]ほど高踏・独善的でもない、大衆性と芸術性を併せ持つ演劇(「[[中間演劇]]」とよんだ)を目指し」て「[[井上演劇道場]]」を開設し、後進の指導にあたる。ここから、[[岡田嘉子]]、[[山村聡]]、[[鈴木光枝]]らを育てる。 [[1946年]](昭和21年)、井上演劇道場を解散し、[[新協劇団]]に入る。 [[1948年]](昭和23年)、67歳。新派劇の舞台に立ち、水谷八重子と『[[金色夜叉]]』で共演し、[[松竹大船]]で映画『[[鐘の鳴る丘]]』に出演するなど、最後まで現役俳優として活躍した。 [[1949年]](昭和24年)、68歳、新派劇で初めて[[日本芸術院]]会員となる。 [[1950年]](昭和25年)、2月、体調を崩し、静養先の[[湯河原町|湯河原]]にて急逝。69歳。 == 人物・エピソード == [[演劇]]の大衆化に尽力すると共に、「[[活動写真]]」を「[[映画]]」という芸術まで高めた功労者でもある。胸像が[[松山市]]の[[松山市駅]]前にある。 昭和10年頃から活動写真は無声時代から発声トーキーの時代に入り、それまでセリフの必要のなかった俳優たちは、セリフを喋らなくてはならなくなり、業界は大恐慌をきたした。悪声であったり、訛りの強い者たちは人気を落とし、また業界から去らなくてはならなくなった。現代では訛りがあろうと声質が悪かろうと、それはその人の持ち味だということになっているが、過渡期においてはそうはいかなかった。 こうした訛りや悪声がやかましく言われなくなったのは、舞台の名優だった井上が出るようになってからである。井上は特徴のある訛りを舞台でも押し通した人で、映画監督の[[稲垣浩]]は井上について、「もしこの人が出なかったら[[阪東妻三郎|阪妻]]、[[大河内傳次郎|大河内]]はトーキーとともに消えていったかもわからない」と述べている<ref>『ひげとちょんまげ』([[稲垣浩]]、毎日新聞社刊)</ref>。 == 井上正夫之碑 == [[Image:Inoue_Masao_monument_0004.jpg|thumb|200px|井上正夫之碑]] [[横浜市]][[港北区]][[日吉本町]]二丁目の井上の旧居(道場)跡には、[[1951年]]6月、井上を敬慕する全国の有志の醵金で'''井上正夫之碑'''(いのうえまさおのひ)が建立された。 始めは数平方メートルの碑石のある用地であったが、現在は住宅の壁面に治まる形で設置されている。 碑文には「嘗てこの地に井上正夫演劇道場ありき」と記されている。 ==代表作== ===映画=== *塔上の秘密(1915年) *大尉の娘(1917年) *毒草(1917年) *寒椿(1921年) *地獄船(1922年) *大地は微笑む(1925年) *[[狂った一頁]](1926年) *大楠公(1926年) *[[鐘の鳴る丘]](1949年) ==著書など== *『化け損ねた狸』右文社 1947 *『井上正夫遺墨集』井上正夫会事務局 1980 *『化け損ねた狸』井上正夫生誕百年祭実行委員会 1980 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == *[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0034750.htm 井上正夫] - [[日本映画データベース]] {{デフォルトソート:いのうえ まさお}} [[Category:日本の俳優]] [[Category:新派]] [[Category:愛媛県出身の人物]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:サイレント映画の俳優]] [[Category:サイレント映画の監督]] [[Category:1881年生]] [[Category:1950年没]]
井上正夫
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報