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'''井上 元兼'''(いのうえ もとかね、[[1486年]]([[文明 (日本)|文明]]18年) - [[1550年]][[8月25日]]([[天文 (元号)|天文]]19年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]))は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[毛利氏]]の[[家臣]]。安芸国[[天神山城 (安芸国)|天神山]][[城主]]。[[本姓]]は[[源氏]]。[[井上光兼]]の子。 == 生涯 == 1486年(文明18年)、[[安芸国]]国人・井上光兼の子として誕生。[[井上氏|安芸井上氏]]は、[[家系]]は[[清和源氏]]の流れを汲む[[信濃源氏]][[井上氏]]の一族である。もとは毛利氏と対等関係にある安芸国の国人であったが、毛利氏との縁戚関係を経て一門の多くが[[毛利弘元]]の家臣団に組み込まれ、弘元に知行を給されて、家中においては近習同様に仕えることとなった。 元兼は主に財政面において活躍した。また、弘元の子の[[毛利元就]]の家督相続を[[井上就在]]・[[井上元盛]]・[[井上元貞]]・[[井上元吉]]ら他の井上一族とともに支持するなど、元就の補佐を務めて大いに功績をあげた。 ところが家中で専横を極めたことに加え、家中における影響力や権威が強さから(一説には猿掛城時代に元就の所領を横領したとも)、それを危惧した元就によって、1550年(天文19年)に子の[[井上就兼|就兼]]ら一族もろとも粛清された。一方で、父・光兼は高齢のため、叔父・[[井上光俊]](光兼の四弟)は元就への忠誠心の厚さから、粛清を免れた。なお、元兼始め井上一族が横柄な振る舞いをしていたことは、元就自身による書状の中でも言及・述懐されており、専横があったことは確かなようである。しかし、それらの書状の多くは井上一族粛清から10年以上経ってから書かれたものが多く元就の記憶も曖昧になっており、井上一族を粛清したという既成事実に基いて多少の潤色が加えられていた可能性もある。 == 参考文献 == *『知将 毛利元就~国人領主から戦国大名へ』([[池享]]・新日本出版社) == 関連項目 == *[[信濃源氏]] *[[井上氏]] *『[[毛利元就 (NHK大河ドラマ)|毛利元就]]』(1997年、NHK大河ドラマ、演:[[片岡鶴太郎]]) {{DEFAULTSORT:いのうえもとかね}} [[Category:井上氏|もとかね]] [[Category:戦国武将]] [[Category:安芸国の人物]] [[Category:1486年生]] [[Category:1550年没]]
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