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九龍城砦
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{{中華圏の事物 | タイトル=九龍寨城 | 画像=[[画像:Kowloon Walled City.jpg|300px]] | 画像の説明= 在りし日の九龍寨城(1989年) | 繁体字=九龍寨城 | 広東語ピン音=Gau<sup>2</sup>lung<sup>4</sup> jaai<sup>6</sup>sing<sup>4</sup> | 広東語=ガウロン ジャーイセン | 英文=Kowloon Walled City | 日本語=きゅうりゅう さいじょう }} '''九龍城砦'''(きゅうりゅうじょうさい)は、現在の[[香港]]・[[九龍]]の[[九龍城]]地区に造られた[[城塞]]、またはその跡地に建てられていた巨大な[[スラム]]街を指す呼称。[[広東語]]で「ガウロン センジャーイ」と呼ばれてきた。 [[日本]]では九龍城砦を「九龍城」(きゅうりゅうじょう)と呼ぶ場合がある。現在{{いつ|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->では「九龍城」は九龍城砦が存在した一帯の地域名あるいは、現在{{いつ|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の行政地区名の呼び名である。''詳細は'''[[九龍]]'''を参照''。 == 概要 == [[File:Image-Kowloon Walled City southgate.jpg|thumb|280px|九龍寨城公園。南門の跡と門の扁額(2006年)]] 香港で一般的に「九龍城砦」と呼ばれてきたが、正式名称は「'''九龍寨城'''」(きゅうりゅうさいじょう)という。これは[[1994年]]に当時の[[イギリス]]・[[香港政庁]]が行った構造物解体時に廃棄物の中から発見された石製の大きな扁額から判明した。この時、同時に砦時代の大砲の砲身なども見つかっており、貴重な[[文化財]]として九龍寨城公園内の資料館に保管されている。 [[1898年]]、[[イギリス]]が[[清|清朝]]から[[香港島]]や九龍に隣接する[[新界]]、及び[[ランタオ島]]をはじめとする香港周辺200余りの[[島嶼]]部を99年間租借。九龍城砦は新界地区に所在していたが、例外として[[租借地]]から除外され清の[[飛び地]]となる。後にイギリスの圧力で清軍・官吏等が排除されてしまい、以後[[中国大陸]]が[[中国国民党]]率いる[[中華民国]]となって以降も、事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となる。 [[画像:Kai-tak-2.jpg|right|thumb|280px|啓徳空港(1990年代)]] [[1941年]]から[[1945年]]の[[日本軍]]による香港占領期間中に、近隣の[[啓徳空港]](旧[[香港国際空港]]、[[1998年]]に移転のため廃止)拡張工事の材料とするため城壁が取り壊された。[[1940年代]]の[[国共内戦|中国内戦]]と、[[1949年]]の[[中国共産党]]率いる[[中華人民共和国]]の樹立により、香港政庁の力が及ばないこの場所に[[中国大陸]]からの<!-- 不法 -->流民がなだれ込み[[バラック]]を建設、その後スラム街として肥大化する。 [[1960年代]]から[[1970年代]]には高層[[RC構造]][[建築]]に建て替わるものの、無計画な増築による複雑な建築構造と、どの国の主権も及ばずに半ば放置された<!-- 暗澹たる -->環境から「東洋のカスバ」([[アルジェのカスバ]]参照)、「東洋の魔窟」と呼ばれ、「アジアン・カオス」の象徴的存在となっていた。しかし[[1984年]]の[[英中共同声明]]により香港が[[1997年]]に中華人民共和国に移譲、返還されることが確定すると[[1987年]]には香港政庁が九龍城砦を取り壊し、住民を強制移住させる方針を発表。 [[1993年]]から[[1994年]]にかけて取り壊し工事が行われ、その後すぐに行われた再開発後に'''九龍寨城公園''' (Kowloon Walled City Park) が造成された。 == 歴史 == 九龍城砦には非常に多くの複雑な歴史的背景が絡んでおり、中国の近代や現代史にも密接に関係している。 === 近世(960年代 - 1830年代) === 始まりは[[宋 (王朝)|宋]]([[960年]] - [[1279年]])時代に遡る。かつて香港や九龍半島にはたくさんの[[香木]]が生えていたほか、[[塩]]を産出しており、これらを輸出するための港が香港島南部の[[香港仔]]に開かれた。今日の「香港」という地名も「香木が集まる港」という意味合いから命名されたという説が最も有力である。 しかし香港付近の海域には当時しばしば[[海賊]]が現れ、周囲の治安を脅かしていた。このため現在の九龍城地区に[[軍事]][[要塞]]が作られ、ここを拠点に香港の安全の確保を図っていた。[[砦]]として[[1668年]]に九龍[[狼煙|烽火]]台が設置された。 === 近代(1840年代 - 1940年代) === [[File:Kowloon-Walled-City-1898.jpg|thumb|280px|九龍城砦(1898年)]] [[File:KWC Yamen6.JPG|thumb|250px|城内に残る清代の建物]] [[1841年]]に[[イギリス]]は[[清国]]との間で行われた[[阿片戦争]]に勝利。[[南京条約]]により清国から[[広州市|広州]]、[[福州市|福州]]、[[アモイ市|厦門]]、[[寧波市|寧波]]、[[上海市|上海]]の5港の開港と香港島の割譲を認めさせた。[[1860年]]には[[アロー戦争]]によって締結された[[北京条約]]により九龍市街の[[界限街]]以南の[[九龍半島]]が割譲された。この時点では九龍城砦はイギリス領よりわずかに外れた場所にあり、清国領内であった。 イギリスは[[1898年]]に、香港防衛を理由に[[深セン市|深圳]]河以南の[[新界]] (New Territories) 地区と[[ランタオ島]]をはじめとする香港[[島嶼]]部の200余りの島々を99年間の期限付きで[[租借]]した。この時九龍城砦は完全にイギリス領に取り込まれてしまったが、英清両国で取り決めた租借条約により九龍城砦は租借地から除外され飛び地化、イギリスの香港防衛を妨げないという条件で引き続き清国役人が常駐した。しかし役人が祝い事で爆竹を鳴らしたことが、「イギリスの軍事活動の妨げになった」という理由で清国の役人を九龍城砦から追放してしまう。だがイギリス側がこの時点で九龍城砦を占領することは条約違反となるのでこの場所を接収できなかった。 [[1911年]]の[[辛亥革命]]に端を発し翌[[1912年]]1月には[[中華民国]]が樹立、[[1912年]]2月に宣統帝([[愛新覚羅溥儀]])の退位により中国政府としての清朝は滅亡した<ref>[[清室優待条件|清帝退位優待条件]]により、[[北京市|北京]]の[[紫禁城]]における清朝[[皇室]]自体は[[1924年]]まで継続される。</ref>。この時点で九龍城砦本来の機能は終了したとの見方が自然であろう。しかし、施設管理については後続の中華民国も清国と同じくイギリスの抗議により実現できず、またイギリスの城内管理は中華民国側の抗議により断念と駆け引きは堂々巡りであった。 また[[1941年]]12月に[[旧日本軍]]が香港を占領した際、要塞に建設されていた城壁が近隣の啓徳空港拡張工事の資材となり取り壊された。この旧日本軍の占領により当然のことながら九龍城砦の管理交渉は中断してしまった。[[1945年]]8月には日本の[[第二次世界大戦]]敗戦により香港は再びイギリスの植民地となるが、経済や治安など生活上全ての面で香港自体が不安定な状況にあった。 その中で、戦前より続いていた[[蒋介石]]率いる[[中国国民党|国民党]]と[[毛沢東]]率いる[[中国共産党|共産党]]の中国内戦([[国共内戦]])の大戦終結後の激化により多くの難民が身寄りを求め香港に押し寄せ、どの主権も及ばない九龍城砦にはそれらの人々がなだれ込んだ。[[1949年]]10月に中国共産党率いる[[中華人民共和国]]が樹立しても難民がなだれ込む状況は全く変わらなかった。 === 現代(1950年代 - 1990年代) === 城壁が取り壊されたことで、跡地には難民の[[バラック]]が建ち始める。中国大陸の情勢が落ち着きつつあった[[1950年代]]後半から[[1960年代]]前半においても難民の流入は止まらず、さらに、1960年代後半に中華人民共和国国内で始まった毛沢東らによる[[文化大革命|プロレタリア文化大革命]]の開始により、これを逃れる難民で人口流入は更に激しくなり、過度の居住人口により次第に無計画な増築によるスラムが出来上がっていった。 1960年代後半から[[1970年代]]にかけては[[鉄筋コンクリート]]([[RC]]造)のペンシルビルに建て変わったものの無計画な建設のために九龍城砦の街路は迷路と化した。「'''九龍城には一回入ると出てこられない'''」といわれる所以はここにある。また[[行政権]]が及ばなかったために[[売春]]や[[薬物]]売買、[[賭博]]、その他違法行為が行われ、[[中国語]]で「無法」地帯を意味する「'''三不管'''」(サンプーグワン)の地域と呼ばれるようになる。 そのため、イギリス領である香港領内での認可を受けておらず、中華民国および中華人民共和国内のみで通用する免許で開業した[[歯科]]医院や[[海賊版]]の出版物の出版、[[コピー]]商品の製造、麻薬の取り引きなどが半ば公然と行われていた。また衛生法上許可し難い環境下での[[中華料理]]の[[点心]]製造などがあったが、最盛期には香港の[[ホテル]]や[[飲食店]]で使われた点心のかなりの割合を請け負っていたとの説もある{{要出典|date=2011年4月}}。城内警備においては1970年代後半から[[1990年代]]にかけて住民達が一丸となり[[自警団]]を組織し治安の改善を図った。 [[1984年]]にイギリスの[[マーガレット・サッチャー]]首相と中華人民共和国の[[趙紫陽]]首相が行った[[英中共同声明]]調印により、香港が[[1997年]]7月1日に中華人民共和国に返還されることが決まり、[[1987年]]には香港政庁が九龍城砦を排斥し、周囲のアパートや郊外の[[ベッドタウン]]に政庁が建設した高層アパートへ住民を移住させる方針を発表したが、補償などの問題で住民はこれに異を唱えた。また何十年もの間行政が立ち入ることはなかったが、共同声明の後に漸く香港警察の警官が定期的に巡回を行った。その頃には香港の他地域よりもむしろ城内の方が安全であったと伝えられている。 九龍城砦が取り壊される直前の[[1990年代]]初頭には、0.026km<sup>2</sup>(約200m×120〜150m)の僅かな土地に5万人もの人々がひしめき合って[[人口密度]]は約190万人/km<sup>2</sup>と世界で最も高い地区であった。これは[[畳]]1枚に対して3人分の計算である。比較参考値として[[東京ドーム]]の面積は0.0467km<sup>2</sup>、観客席の収容人数は4万5000人である。 === 取り壊し === [[File:Kowloon Walled City - 1991.jpg|thumb|280px|1991年の九龍城砦、周囲に整備された公園から望む]] [[File:KowloonWalledCityPark.jpg|thumb|280px|九龍寨城公園(2005年)]] [[1993年]]から[[1994年]]にかけて取り壊し工事が行われ、[[1995年]]には、同じ街区の低層スラムとなっていた箇所で早期に整備され、小規模の[[サッカー]]場や[[バスケットボール]]コート、[[マウンテンバイク]]の走行コースなどが設置された'''賈炳達道公園''' (Carpenter Road Park) や、同時期に建設された[[ショッピングセンター]]の'''九龍城廣場''' (Kowloon City Plaza) に隣接する形で、'''九龍寨城公園''' (Kowloon Walled City Park) が造成された。 再開発後の九龍寨城公園には中国趣味の[[庭園]]や、在りし日の九龍城砦の状況を簡単に展示する資料館がつくられた。この資料館は九龍城砦の中心に最後まで残され[[老人ホーム]]として使われていた砦時代の平屋の[[兵舎]]を改修、そのまま流用している。 また、九龍城砦の解体時に廃棄物の中から発見された[[扁額]]や[[大砲]]などの多くの文化財は当初香港政庁の計画では九龍の[[尖沙咀]] (Tsim Sha Tsui) にある[[香港歴史博物館]]で保存、展示する予定であったが城内に住む住民の抗議により九龍寨城公園の資料館で保管することになった。 === 現在{{今日|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] --> === [[1998年]]の旧[[香港国際空港]](啓徳空港)の移転などで九龍城上空の騒々しさは無くなり、活気ある商店街を中心に周囲は閑静な住宅街となっている。九龍寨城公園へは観光客が時折訪れるものの、普段は周辺住民の憩う公園となっており、[[太極拳]]やスポーツイベントなどの各種文化活動も住民と地元役所の手により行われている様である。庭園には[[東屋]]や[[十二支]]、[[龍]]といった石製の置物も設置され、どことなく不思議な趣を感じさせる場所となっている。公園北側の高台からは、九龍城街区の街並みが一望できる。 == 環境 == 城砦が[[行政]]サービスを全く受けなかったというのは誤解である。書類上は、[[清]]国や[[中華民国の歴史|中華民国時代]]から中華人民共和国時代にかけて、広東省[[宝安区|宝安県]](現:[[深セン市|深圳市]][[宝安区]])が地域の管轄下だったが、上記の通り放置状態で、実際は香港政庁が受け持っていた。 上下水道・警備・[[街灯]]の設置・福祉サービス・[[ゴミ]]の撤去に関しては城外に影響するため例外的に行われた。しかし住環境は何十年も一向に改善されず劣悪の極みに至り、暗く混沌とした雰囲気は全くもって払拭されなかった。 例えば[[上水道]]に関しては[[1963年]]から供給が始まったが需要に追いつかず、住民は業者に頼んで供給を受けていた。また、配水システムは荒削りなため不安定であった。[[下水道]]は1970年代に香港政庁が導入した。それまでは通路に作られた排水溝に廃棄されていたため、井戸水が汚染され水の供給・衛生面に問題を起こした。日に2トンにもなる廃棄物の収集は香港政庁が実施した。香港政庁はゴミ箱をいたるところに設置していたが、スペースがあるとそこにゴミが廃棄されてしまうため、中にはゴミよけのビニールシートを天井に設ける者もいた。[[電気]]の供給は[[1977年]]から開始された。しかし、多くの住民が[[上水道]]同様、違法に引き込み線を設置していた。 通路には住民が勝手に引いた[[電気]]、[[電話線]]、[[アンテナ]]の[[同軸ケーブル]]、[[下水道]]といった[[ライフライン]]が無計画に管となって張られ束で頭上を通過した。 九龍城一帯は啓徳空港の飛行区域であったために14階又は45m以下の高さ規制が設けられていたが、九龍城砦ではそれを無視するかのように末期には最高15階建てのRC構造の建築が見られた(だがそれだけ天井が低い建物だったのだが)。これだけの高層建築に関わらず、建物内には[[エレベーター]]がたった2基しかなく、また建築に関する法律は高さ制限以外一切無視され無謀な増築が繰り返された。 当然のことながら[[防災]]といった観念は一切考えられていなかったため、建物が折り重なり、日の光が一日中入らない部屋や窓のない部屋が普通であり天井を連なる水道管や電線がカオス状に広がっていた。なお、城内で一番場所が良い所とされていた東頭村道は、比較的大通りに面しており、また日の光の射す場所であった。龍城路もまた少しだけ日の光が射している道であり、路が比較的一定であったために地価が比較的高かった。ちなみに通路の途中には光明路と龍城路が一路になっている所があり、そこから龍津道に出ることができた。 青空の見える唯一の場所であった九龍城砦の屋上からは、周囲に高い建物が無かったため香港島の[[超高層ビル]]群や[[ビクトリア・ハーバー|ヴィクトリア湾]]が一望できたという。数十メートル頭上には空港へ離着陸する巨大な[[旅客機]]が絶えず通過していった。 この中で住民達は結束し団結した。その[[コミュニティー]]はとても発達しており、[[救世軍]]幼稚園や香港の小学校や中学校に相当する施設である「龍津義學」、また[[老人ホーム]]に相当する施設も備えられていた。幼稚園には身分証がなくても入ることができ、月謝は無料だが100香港ドルの寄付を募った。名前のとおりキリスト教と縁が深い幼稚園だったので、日曜日には教会にもなった。 == 城内地名(街道) == [[File:Kowloon Walled City 1991.jpg|thumb|200px|九龍城砦、外に面した部分(1991年)]] 九龍城寨は面積の非常に限られた所だったが230にも及ぶ通路の名前があった。城内の主要な地名は南北又は東西に渡ってメイン通路を形成していた。そしてその通路から幾多の支線が出ていて城を形成していた。 === 南北通路 === ==== 龍津路 ==== 龍津路 (Lung Chun Road) は六つの道に街部に分かれていて、龍津後街、龍津一巷、龍津二巷、龍津三巷、龍津尾巷、龍津橫巷にそれぞれ分かれていた他、幾多の通路にもつながっていたのと、龍津路の特徴としては最古の街道であり、唯一城門のところに城門と城門の橋を繫ぐ橋渡しがあったとされる。道沿いには古砲、龍津義學があった。 ==== 龍津道 ==== アーケード街。 ==== 東頭村道 ==== 歯医者が多く、また城内で最も地価が高い所であった。 === 東西通路 === ==== 龍城路 ==== 龍城路 (Lung Shing Road) は九龍城寨の内外を東へ繫ぐ一筋の道で、南北に繫ぐ東頭村道のジャンクションの代わりにもなっており、封鎖されている東頭村道の南側の通路の橋渡しにもなっていた。そのためか龍津道と龍津路の間や、又住益華樓と東南樓の三叉路にもなっていて、そのお陰でいつの間にか此街道に来てしまうことが多い。龍城路と龍津道は隔離されていたために城寨の人それらを繫ぐ路を作った所から、龍津路の一部として認識している人も居たようだ。そのためか、九龍城寨の代表通路として省略されることもある。 ==== 光明街 ==== そこから一路横に行った光明路は名前を皮肉っているかの様に日が一日中当たらず、[[携帯電話]]の電波はおろか[[アマチュア無線]]でさえ全く通らない所であった。娼婦達が立ち、アヘン窟などもあった。 ==== 老人街 ==== 道沿いに青年中心がある。 ==== 大井街 ==== 大きな井戸がある。 ==== 西城路 ==== 龍城路と対になった道。民家が多い。 == 建築 == [[File:Kowloon Walled City Statue.jpg|thumb|九龍城砦の模型の上面]] 元々はほんの数件の木造住宅が建つ程度の土地であったが、香港政庁に燃やされ[[煉瓦]]の家が建てられた。[[1951年]]頃に不審火が原因と思われる火災により3000軒以上の家が焼失。その後大きなRCコンクリート建の[[アパート]]が目立つようになる。 とりわけ[[水]]が貴重だった地域なので[[尿]]でコンクリートを練成したこともあったが流石に[[海水]]は使えなかったようだ。最初に深く土地を掘り下げて3階建ての[[マンション]]を建て、互いに建物が寄りかかることにより幾分か強度が増し、順に建物が大きくなっていった。 建物は、高さ制限以外は実質的に他の規制は不可能としていて、九龍城砦内の建物は計画や設計図を行政に提出する義務はなく、実際にラフスケッチで作られた建物が多かった。それ故に各棟の建物の階数や各階の高さが違い、カオス的な外観の一因となっていた。また、行政に出す経費の少なさから建物の建設費のコスト削減にも繫がっていた。そして各棟の建物は独立していて微妙な隙間もあり、隣接する建物同士の水平のラインについては無視されていた。 城砦内には[[1847年]]に清が建てた煉瓦造りの建物も残っており、スラムの取り壊し後には[[:zh:香港法定古蹟列表|香港法定古蹟]]に指定されている。 == 影響 == 九龍城砦は何よりも都会にある秘境的なイメージが先行し、特に日本では1980年代には[[カルト]]的に半ば伝説化した。中には観光バスで乗り付け、内部を探索するというツアーまで登場した。おりしも香港が返還されるにあたり、[[共産主義|共産]]圏に呑み込まれてしまう自由[[資本主義]][[都市]]である香港の先行きを憂慮する風潮と重なったため、植民地支配の象徴でもあった九龍城砦を外国[[メディア (媒体)|メディア]]は多く取り上げた。取り壊しが行われる前後にはかなりの日本の[[報道機関|マスコミ]]も取材に訪れ、九龍城砦が解体されたという報道も配信された。また、取り壊しの際の立ち退きで最後まで内部にいたのは日本のテレビクルーだったという。 また日本では劇場用[[アニメーション]]『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』([[1995年]])や[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ゲームソフト『[[クーロンズゲート]](九龍風水傳:Kowloon's Gate)』([[1997年]])、[[ドリームキャスト]]用[[ゲームソフト]]『[[シェンムーII]] (Shenmue II)』([[2001年]])などにもその影響や要素が反映された。 映画『[[ブレードランナー]]』以後のそう遠くはない未来世界を[[オリエンタリズム]]の表現、特に香港のような成熟した[[国際都市]]でありながら、一方で受け継がれる地域文化が消えうせない、ある種の混沌で雑多といった[[アジア]]都市にある独特の特性要素の集大成を九龍城砦に見る傾向も見受けられる。 九龍城砦の存在は、世界でも指折りの豊かな地域となった香港にとれば人々の関心も薄く、もはや過去の遺物であった。香港政庁など行政機関にとっては、できるだけ早い排斥が念願だったと思われる。しかし、史上稀に見る規模で展開されたスラム街区は、学術的にもその資料的価値は非常に大きい。遺構の数々は[[建築学]]または[[環境学]]などの面において極端な例ではあるが、現在ではアジアでの都市構造の貴重なサンプルである。 == 類似の場所 == ; [[三元里]] (San Yuan Li) : [[中華人民共和国]]の[[広東省]][[広州市]]北部にある旧市街地。[[阿片戦争]]時、広州へ攻め入るイギリスに抵抗する民衆がこの地から立ち上がったことにより、中国ではかつての反英運動の地として知られている([[三元里事件]])。 : 一方、市街の過密に集合した住居群や不安定な治安状況、また近接する旧[[広州白雲国際空港]]([[2004年]]に広州市郊外へ移転)の存在などは九龍城砦の環境と酷似していた。[[広州地下鉄]]2号線の終着駅にもこの名前があり、最寄となっている。 ; [[ファヴェーラ]] : [[ブラジル]]における違法建築が並ぶ貧民街。 ; [[ディヴィッド・タワー]] : [[ベネズエラ]]首都[[カラカス]]にある45階建て超高層ビル。建設途中の状態で2,500人もの不法居住者に占拠され、自前で水道設備が整えられるだけでなく、住居や商店、床屋、フィットネスクラブまで勝手に開業されるなど、建物一つがまるで一つの街の様になっている。 ; [[端島 (長崎県)|軍艦島]] : 日本の[[長崎県]][[長崎市]][[端島 (長崎県)|端島]]の俗称。[[スラム]]ではないが増改築を繰り返したRC建築の超過密都市として共通する。建築群の多くは[[三菱鉱業]](現[[三菱マテリアル]])の高島炭鉱に勤務する鉱山労働者やその家族のための[[宿舎]]や[[住居]]、[[福利厚生]]施設や[[学校]]であった。 : [[1974年]]に炭鉱閉山のため島が無人化し以来そのまま放置されていたが、見学用通路を設けるなどして[[2009年]]から一部の地区について観光客の上陸が可能になった。なお端島にある建築は[[大正]]期から[[昭和]]後期にかけて断続的に建設され、現在{{いつ|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->では日本の近現代建築史上に措いて学術的にも貴重な存在である。 ; [[重慶大厦]] : [[1960年代]]に完成した香港の九龍、尖沙咀地区にある高層ビルである。[[ゲストハウス]]や[[ホテル]]などの宿泊施設が多いことで知られている他、ショッピングセンターやインド系レストラン、両替所などが軒を連ねる雑居ビルである。香港政庁からは九龍城砦の取り壊しと同時期に建物の改装を強いられたが現在{{いつ|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->でも現役で、九龍城砦の後継役に見立てられることがある。 : 建設当初から計画された建物であるので九龍城砦と比べれば相当整備された施設ではあるが、構造が複雑なため防災が行き届いていない箇所が散在している。年々設備更新などで改善が行われている。 ; [[中野ブロードウェイ]] : 日本の東京都中野区にある複合ビル。高級複合マンションの先駆けであったが、商業施設部分は経済性を重視したため低い天井と錯綜した構造をもつ雑居ビルとなった。雑貨や食品など地域住民向けの店舗をはじめ、サブカルチャー系の小売店、小規模な飲食店、事務所など雑多なテナントが入居している。「日本の九龍城」の異名を持つ。 ; [[沢田マンション]] : [[高知県]][[高知市]]にある別名「軍艦島マンション」とも呼ばれる集合住宅。増築に増築を重ねた外観から、「日本の九龍城」とも呼ばれ、建築物探訪の名所のひとつとして知られる。 == 交通 == === MTR(港鐵) === * [[香港MTR|MTR]][[観塘線]] / 樂富 (Lok Fu) 駅より徒歩10〜15分程度、及びバス便利用 * MTR観塘線 / 黄大仙 (Wong Tai Sin) 駅より徒歩15〜20分程度、及びバス便利用 === バス(巴士) === * 「富豪東方酒店」 (Regal Oriental Hotel) バス停下車、徒歩3分程度 * 「賈炳達道」 (Carpenter Rd.) バス停下車、徒歩3分程度 == 舞台となった作品 == <!-- 発表年順 --> === 映画 === * [[ゴルゴ13 九竜の首]](1977年) * [[火爆城市 / 九龍の財宝]](1992年) === ゲーム === * [[九龍島]](1986年) - 旧[[スタークラフト (ゲーム会社)|スタークラフト]]より発売された[[ロールプレイングゲーム]]『[[ジェイミー・スター]]』シリーズ 第2作目。[http://www.8-bits.info/gamelist/PC88/info/info_4PGnVhSx51DGvXGi.php 解説HP1]、[http://fm-7.com/museum/softhouse/starcraft/220305100.html 解説HP2] * [[ファーストパーソン・シューティングゲーム]](1996年) * [[クーロンズゲート]](1997年) * [[シェンムー]](1999年) * [[コール オブ デューティ ブラックオプス]] (2010年) === 曲 === * [[九龍レトロ]](トーマP、2012年) * [[九龍イドラ]](トーマP、2012年) === 漫画 === * 金田一少年の事件簿 20周年記念シリーズ第2巻・第3巻(2012年) === ドラマ === * 金田一少年の事件簿 香港九龍財宝殺人事件(2013年) === アニメ === * 金田一少年の事件簿R 第1話~第4話(2014年) == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *『最期の九龍城砦』中村晋太郎、新風舎 (1996/02) *『九龍城砦』 [[宮本隆司]]、平凡社 (1997/6) *『大図解九龍城』 九龍城探検隊、岩波書店 (1997/7/10) == 関連項目 == * [[レトロフューチャー]] * [[吉田一郎]] == 外部リンク == {{Commonscat|Kowloon Walled City|九龍寨城}} * [http://neuroage.com/kwc/ web九龍城砦] * [http://www4.ocn.ne.jp/~keropero/kyuryu00.html 「東洋の魔窟」九龍城砦探検記] * [http://hongkong.7as.net/sub/kwc.html 九龍城砦「東洋の魔窟」] * [http://www4.ocn.ne.jp/~keropero/kowloon2.html 九龍城砦] * [http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=40937 pya! 超密集住宅街] {{coord|22|19|55|N|114|11|26|E|type:landmark_scale:10000_region:HK|display=title}} {{DEFAULTSORT:きゆうりゆうしようさい}} [[Category:香港の建築物]] [[Category:香港の歴史]] [[Category:香港の文化]] [[Category:九龍城区]] [[Category:スラム]] [[Category:現存しない建築物]] [[Category:要塞]] [[Category:清朝の軍事]] [[Category:清朝の国際関係]] [[Category:中英関係]] {{Link FA|zh-yue}} {{Link GA|en}}
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