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中村維隆
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'''中村 維隆'''(なかむら これたか、[[天保]]12年([[1841年]]) - [[大正]]6年([[1917年]]))は、[[幕末]]の[[相馬中村藩]]士で、[[新徴組]]隊士。後、[[水戸藩|水戸]][[天狗党]]員。'''剛三'''・'''剛蔵'''とも。旧姓は'''草野'''。 ==経歴== [[磐城]]中村に生まれ育つ。 急進的な[[尊皇攘夷]]派だった中村は、[[文久]]3年([[1863年]])に[[徳川幕府|幕府]]によって募集された[[浪士組]](後、[[新選組]]と新徴組に分離。[[佐幕派]]組織の印象が強いが当時の目的は尊皇攘夷だった。)に参加し上洛。[[清河八郎]]らと知り合い、幕府を裏切って浪士組を尊皇攘夷活動の先駆けとすべく、同年3月24日、[[河野音次郎]]、[[宇都宮左衛門]]、[[和田理一郎]]、[[森土鉞四郎]]、[[西恭輔]]らと共に決死の覚悟で[[朝廷]]へ嘆願書を提出しに行った。 無事建白書が通って勅書を得ることが出来た中村達は、[[江戸]]への帰還を命じられて浪士組の大半を率いて京都を出立し江戸へ戻ったが、首謀者だった清河八郎は暗殺され、幹部の[[石坂宗順]]らも幕吏によって捕縛される。浪士組は[[庄内藩]]の下で新徴組と名を変えて江戸市中の取締をする役目となってしまった。 しばらく新徴組に所属していた中村だったが、[[元治]]元年([[1864年]])に脱走して水戸天狗党の挙兵に参加した。([[天狗党の乱]]) 後に[[黒羽藩]]士・[[中村半右衛門]]の養子となったため中村姓を名乗る。 維新後、[[弾正台]]官吏・[[開拓使]]を務めて[[明治政府]]に出仕。 大正6年、死去。[[享年]]77。 中村は[[史談会]]に出席した際、浪士組同志だった[[近藤勇]]を酷評するが、特に仲が悪かったわけではなかったようだ。近藤らと共に京都に残った[[芹沢鴨]]については「病気(梅毒?)だから仕方ない」としている。 {{デフォルトソート:なかむら これたか}} [[Category:幕末相馬中村藩の人物]] [[Category:幕末黒羽藩の人物]] [[Category:新徴組隊士]] [[Category:1841年生]] [[Category:1917年没]]
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