コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
中嶋悟のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
中嶋悟
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{redirect|中島悟|テレビドラマの演出家|中島悟 (演出家)}} {{F1ドライバー| 氏名 = 中嶋 悟 | Image = Satoru Nakajima 2008 Motorsport Japan.jpg| image-size = 200px| 説明 = | フルネーム = | 愛称 = | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[愛知県]][[岡崎市]]| 生年月日= {{生年月日と年齢|1953|2|23}}| 年 = 1987 - 1991 | 所属チーム = '87-'89 [[チーム・ロータス|ロータス]]<br>'90-'91 [[ティレル]] | 出走回数 = 74 | タイトル = 0 | 優勝回数 = 0 | 通算獲得ポイント = 16 | 表彰台回数 = 0 | ポールポジション = 0 | ファステストラップ = 1 | 初戦 = {{F1|1987}}[[1987年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]] | 最終戦 = {{F1|1991}}[[1991年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]] | }} '''中嶋 悟'''(なかじま さとる、 [[1953年]][[2月23日]] - )は、元[[レーシングドライバー]]で、有限会社[[中嶋企画]]代表取締役社長。[[愛知県]][[岡崎市]]出身。血液型B型。身長165cm、体重60㎏。 日本人初の[[フォーミュラ1|F1]]フルタイムドライバーで、現在は株式会社[[日本レースプロモーション]](JRP)の取締役会長も務める。 == 経歴 == === 生い立ち === 愛知県岡崎市に、4人兄姉の末っ子として生まれる。生家は約300年続く農家。父親は、航空母艦「[[雲鷹 (空母)|雲鷹(うんよう)]]」で艦載機の整備兵をしていた軍人。兄たちが戦死したので農業を継いだという<ref>[http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2012091400003.html 中嶋悟のF1風雲録〔2〕 夢舞台・人生はレースとともに(朝日新聞) - WEB新書 - 朝日新聞社]</ref>。 [[岡崎市立梅園小学校]]、[[岡崎市立葵中学校]]を経て、[[名古屋市]]にある[[名城大学附属高等学校]]に進んだ<ref>[[中日新聞]] 2014年4月21日、朝刊、三河版、12面 「こころは三河 私の古里」。</ref><ref>『[[リバーシブル (雑誌)|リバーシブル]]』(株式会社ペーパードール)1984年11月号、56-69頁 「THE INTERVIEW レーサー中嶋悟」。</ref>。 === レースデビュー === 名城大学附属高等学校在学中に[[レーシングカート]]を始め、数戦のレースに参加。高校卒業後、すぐに運転免許を取得し、[[アルバイト]]先だった[[ガソリンスタンド]]に就職。後に実兄が開業したガソリンスタンドに移り、そこで資金を稼ぎながら本格的なレース活動を開始する。[[1973年]]の[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。[[1975年]]には[[FL500]]に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。ただこの頃は慢性的な資金不足にあえいでおり、[[1976年]]にはレース活動を辞めようかとも考えていたという。ところが同年夏、鈴鹿サーキットで行われた[[富士グランチャンピオンレース|GCレース]]に参戦するためのドライバーを探していた[[松浦賢]]の目に偶然留まったことが契機となり、当時「最強チーム」との呼び声の高かった[[ヒーローズレーシング]]への加入が実現する。 ===ステップアップ=== [[1977年]]にはヒーローズレーシングより[[全日本F2000選手権|全日本F2000]]/鈴鹿F2000と[[FJ1300]]に参戦。特にFJ1300ではシリーズ全7戦で[[ポールポジション]]、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。[[1978年]]には[[全日本F2選手権|全日本F2]]に参戦しつつ、[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3]]にスポット参戦。鈴鹿サーキット限定で争われる[[全日本F2選手権|鈴鹿F2選手権]]でチャンピオンを獲得した。 なお1978年はイギリスF3に参戦する関係で、シーズン途中に[[モータースポーツライセンス]]を[[日本自動車連盟]](JAF)発行のものからイギリスの王立自動車クラブ(RAC)発行のものに切り替えている。当時の全日本F2選手権では「外国ライセンスのドライバーはポイント対象外」との規定が設けられており、このため中嶋の後半2戦(第5戦・第7戦)の結果はポイント対象外となってしまった。この2戦で中嶋は共に2位に入っており、通常通りのポイントを獲得していたとすると同年の全日本F2でもチャンピオンを獲得していた計算になるため、一部のメディアでは「幻のチャンピオン」と評されることがある<ref>『[[Racing On]]』([[三栄書房]])2009年9月号・p.39</ref>。 === 国内トップカテゴリー === [[1979年]]には[[生沢徹]]が結成した[[i&iレーシング]]に移籍。ただしヒーローズレーシングから半ば強引に引き抜かれる形でチームを移籍したため、ヒーローズ側の圧力により当時の全日本F2で最強と呼ばれた[[ケン・マツウラレーシングサービス]] チューンの[[BMW]]エンジンの供給を受けられず、同年と1980年の全日本F2では成績が低迷する。一方で1979年には[[富士グランチャンピオンレース|富士GCシリーズ]]でチャンピオンを獲得した。 [[1981年]]からは生沢の伝で、前年よりF2に復帰した[[本田技研工業|ホンダ]]のワークスエンジンの供給を受けられるようになり、同年と[[1982年]]には全日本F2選手権・鈴鹿F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年には[[フォーミュラ2|ヨーロッパF2選手権]]にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、資金不足に悩まされ成績は下降した。そのため生沢徹と確執が生まれ[[1983年]]にi&iレーシングから離脱。自らの会社'''[[中嶋企画]]'''を設立するため、破格の契約金を提示した[[ハラダレーシング]]に移籍する。i&iでのドライビングを高く評価したホンダから引き続きワークスエンジンの供給を受けたが、チーム体制が整っておらず同年はチャンピオンを逃した。 [[1984年]]にヒーローズレーシングに復帰。そのときに「車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなう」という当時としては例のない契約をした。以後[[1986年]]まで全日本F2選手権で3連覇を達成する<ref>1984年・1985年については鈴鹿F2とのダブルタイトル</ref>など、BMW勢より優位なホンダエンジン、中嶋のテクニック、[[ブリヂストン]]タイヤのパッケージは当時のF2には敵がいない状態であった。ホンダがエンジン供給しない富士GCシリーズではケン・マツウラレーシングサービスチューンのBMWエンジンの供給を受けられず劣勢であった。 ===F1テストドライバー=== F1マシンの初ドライブは、1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝した副賞として、当時[[JPS (タバコ)|JPS]]がメインスポンサーだった[[チーム・ロータス|ロータス]]のテストを行ったのが最初。 その後前述のホンダとの関係から[[1984年]]からは[[ホンダF1]]のテストドライバーを務めるようになり、当時ホンダがエンジンを供給していた[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]のマシンをドライブするようになった。後のF1デビュー後にこの際の経験が生かされることとなった。 === 国際選手権 === [[1985年]]と1986年には[[トムス]]・[[トヨタ自動車#モータースポーツ|トヨタ]]に乗り[[ル・マン24時間レース]]や[[スポーツカー世界選手権|世界耐久選手権]](WEC)にも参戦。特に1986年の「[[WEC-JAPAN|WEC in Japan]]」([[富士スピードウェイ]])では[[トムス・86C/トヨタ]]を駆り予選トップタイムをマークしたが、[[Tカー]]でのタイムのためにタイムは無効とされ、ポールポジションを獲得することはできなかった。決勝は9位。 1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って[[フォーミュラ3000|国際F3000]]にもフルシーズン参戦し、国内選手権との同時参戦という過密スケジュールでの参戦である上、慣れないコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、最高位4位(1回)を含む数回の入賞という結果を残した。 === メーカーとの関係 === ホンダとの強い結びつきがイメージされる中嶋だが、[[ワークス]]契約はしておらず、ホンダ一辺倒だったわけではない。 デビュー当初は、[[マツダ]]系[[自動車ディーラー|ディーラー]]の[[碧南マツダ]]の支援を受け、[[マツダ・ファミリア|ファミリア]]や[[マツダ・サバンナ|サバンナRX-3]]などで多くのレースに参戦していた。また、全日本F2でホンダのワークスエンジンの供給を受け参戦するのと並行して、ロータスから技術供給、および資本提携していたトヨタがF1参戦の可能性があったこともあり、1980年の[[フォーミュラ・パシフィック]](FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC-JAPANなどでは、トヨタ系のマシンを数多くドライブしている。 一方で[[日産自動車のモータースポーツ|日産]]との関係は薄く、1979年のFPで[[星野一義]]の代役として数戦に出場した程度である。一説にはこのFP参戦時に[[長谷見昌弘]]と[[チームオーダー]]の件で対立したことが中嶋から日産を遠ざけた一因といわれている。しかし、中嶋本人は『[[ホリデーオート]]』誌上で[[日産・フェアレディZ|フェアレディZ]]を思い出に残る車にあげている<ref>最初の愛車がフェアレディZだった。</ref>。 ※参考資料:『F1走る魂』([[海老沢泰久]]著、[[文藝春秋]]) == F1時代 == === 日本人初のフルタイムF1ドライバー === 34歳にして[[タイ王国|タイ]]の[[プリンス・ビラ]]に次ぐ[[アジア]]人として2人目、'''日本人初のフルタイムF1ドライバー'''になる。1987年の開幕戦(ブラジルGP)で[[チーム・ロータス|ロータス]]・ホンダよりデビューを果たし、1991年で引退するまでの5年間、ホンダと初年度のチームメイトであった[[アイルトン・セナ]]と共に、当時[[バブル景気]]で沸いていた日本にF1ブームを巻き起こした。 F1での生涯成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/[[1988年メキシコグランプリ|1988年メキシコGP]]・[[1988年日本グランプリ (4輪)|1988年日本GP]])、決勝最高位4位(2回/[[1987年イギリスグランプリ|1987年イギリスGP]]・[[1989年オーストラリアグランプリ|1989年オーストラリアGP]])、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。<br> === 1987年 === [[File:Lotus 99T right Honda Collection Hall.jpg|thumb|240px|right|ロータス99T・ホンダ]] 1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、99Tの信頼性が低い[[アクティブサスペンション#F1のアクティブサスペンション|アクティブサスペンション]]に苦しめられ予選で6-7列目の中段になる場面が多く見られたほか、マシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバー(Graded Driver)の仲間入りを果たした。なおこの年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。 F1では若いカーナンバーがチームのエース・ドライバーに与えられることが多いが、新人の中嶋がカーナンバー11、すでにF1での実績のあるセナがカーナンバー12であった(これは単にセナが1985年のロータス加入時に[[エリオ・デ・アンジェリス]]のセカンドドライバーとして12番をつけた名残とも言える)。 4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車による1-4位独占の一角を占めたほか、地元の[[1987年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]でも、ベネトンのブーツェンやファビ、ブラバムのパトレーゼらと終始争い「中嶋返し」や「大外刈り<ref>柔道とは無関係であるが、アウト側(外)からオーバーテイク(かる = 駆る、狩る、刈る)という意味で柔道で同名の技「[[大外刈]]」と語呂合わせで誕生した言葉。主に鈴鹿サーキット第1コーナーでのアウト側からのオーバーテイクに対して表現されるが、近年では他のコーナーでもアウト側からのオーバーテイクのことを「大外刈り」と表現する傾向がある。</ref>」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。 マシンに関しては、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りで[[アクティブサスペンション#F1のアクティブサスペンション|アクティブサスペンション]]の実戦使用を中止した。だが長い期間[[アクティブサスペンション#F1のアクティブサスペンション|アクティブサスペンション]]開発に注力してきたこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が立ち遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。中嶋のマシンにのみ、シーズンを通じて車載カメラがテスト的に搭載された<ref>なお、サンマリノグランプリは、セナのスペアカーに乗り換えたため搭載されていない</ref>が、このことがマシンのバランスを崩す結果となった。 * マシン:[[ロータス 99T]]・ホンダ * チームメイト:アイルトン・セナ * 獲得ポイント:7 * 最高位:4位(イギリスGP) === 1988年 === [[Image:Lotus 100T right Honda Collection Hall.jpg|thumb|240px|right|ロータス100T・ホンダ]] 初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンでウィリアムズから移籍してきた[[ネルソン・ピケ]]に変わった。 この年はコースに慣れたこともあり、予選でピケに並ぶタイムを度々たたき出したほか、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つ[[1988年メキシコグランプリ|メキシコGP]]や、コースを熟知していた[[1988年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]における予選6位など、たびたび予選トップ10に食い込む活躍を見せた。市街地コースで開催されたモナコGPとアメリカGPでは予選落ちを喫したが、決勝レースでもトップ10内フィニッシュを繰り返し、レース中にピケを上回ることや[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]や[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]と好バトルを繰り広げることもあった。しかしマシントラブルが原因のリタイアも多く、開幕戦の[[1988年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]で6位に入賞した以降は入賞することなくシーズンを終えた。 当時のロータスは中嶋をセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていた。なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えは[[チームオーダー]]によるものではなく、シフトミスの結果であったと中嶋は自らのミスを認めている。 日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位<ref>5位のピケと同タイムだが、先にタイムを出したピケが上位となる</ref>を獲得。しかし[[ポールポジション]]のセナとともにスタートでエンスト、大きく出遅れたものの鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた<ref>鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、[[フォーミュラ2|F2]]時代にも何度もミスしたことがある。</ref>。 シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。実際、[[アロウズ]]と契約寸前まで行っていたが、スポンサーの問題で最終合意には至らなかった。そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなくチームスタッフとの関係も良好な上、ホンダとの強力なコネクション、[[セイコーエプソン|EPSON]]や[[PIAA]]といったスポンサーを持つ中嶋との1年間の契約延長を行った。契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。 * マシン:[[ロータス 100T|ロータス100T・ホンダ]] * チームメイト:ネルソン・ピケ * 獲得ポイント:1 * 最高位:6位(ブラジルGP) === 1989年 === [[Image:Satoru Nakajima demonstrating Lotus 101 2011 Japan.jpg|thumb|240px|right|[[ロータス 101]]・ジャッドを駆る中嶋悟。<br />(※:[[2011年日本グランプリ|2011年日本GP]]のイベント走行にて。)]] この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったため、非力なカスタマー仕様の[[ジャッド]]にエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。またシーズン中にティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦では[[1989年フランスグランプリ|フランスGP]]で投入されただけに留まるなど、チームの混乱が続いた。 チームメイトのピケはシーズン中盤に連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあったが、シーズン全般的に予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かった。ベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、結局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。エントリーしたマシンが全て予選不通過となったのは、長い歴史を誇るロータスのチーム史上初の屈辱であった。なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。 しかし、最終戦の[[1989年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]では激しい雨が降る中、好走を見せた。後方23位からスタートし、1周目にスピンし最下位まで落ちたものの、序盤から次々順位を上げ、レース終盤には3位を走行する[[リカルド・パトレーゼ]]の[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]・[[ルノーF1|ルノー]]を追い回した。スリップストリームに入るとエンジンが(前のパトレーゼのマシンが巻き上げた)水煙を吸い込みミスファイアを起こすという症状が何度も起きたたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかった上に、時間制限により規定周回数前にレースが終わってしまったが、[[ファステストラップ]]を記録し、自己最高位タイの4位に入賞した。ファステストラップは[[2012年]][[2012年中国グランプリ|中国GP]]で[[小林可夢偉]]が記録するまでの長い間、F1において唯一[[アジア人]]ドライバーが記録したファステストラップだった。 {{see also|#「雨のナカジマ」}} * マシン:[[ロータス 101]]・ジャッド * チームメイト:ネルソン・ピケ * 獲得ポイント:3 * 最高位:4位(オーストラリアGP) * ファステストラップ:1回(オーストラリアGP) === 1990年 === 前年のシーズン中より、[[アロウズ]]や[[ティレル]]、[[オニクス]]など複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった。非力な[[フォード・モーター|フォード]]([[コスワース]][[DFV#DFR|DFR]])エンジンを使用するため、前年に続き苦戦を強いられることが予想されたものの、開幕戦の[[アメリカグランプリ|アメリカGP]]で6位入賞を果たしたほか、日本GPでの6位入賞を含む3回の入賞を果たすなどまずまずの成績を残した。しかし、シーズン中盤に6連続リタイアを喫するなど、たび重なるマシントラブルに見舞われたこともあり、シーズンを通して完走がわずか5回という完走率の低いシーズンとなった。 また、チームメイトの[[ジャン・アレジ]]も2位表彰台2回を含む3回の入賞を果たすなど、マシンのバランスのよさを生かした結果を出したが、中嶋同様に完走率の低いシーズンを送った。なお、この年の第3戦サンマリノGPでデビューしたティレル019は、初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋本人は前年型の[[ティレル・018|ティレル018]]のハンドリング特性をより好んでいたという(本人によると「確かに018よりタイムは出るんだけど、なんか乗りにくいんだよねぇ」)。 チームオーナーの[[ケン・ティレル]]は、ロングランでのタイヤテストや決勝用タイヤの皮剥きのための走行など、地味ながらもチームに不可欠な作業を黙々とこなす点<ref>アレジはこのような作業を非常に嫌った</ref>を始め、開発能力や確かなセッティング能力などを理由に挙げ、中嶋に対して高い評価を与えていた。<ref>「ぜんぶF1から教わった」(中嶋悟、マガジンハウス、1992年)pp.162 </ref> * マシン:ティレル018・フォード,019・フォード * チームメイト:ジャン・アレジ * 獲得ポイント:3 * 最高位:6位(アメリカGP、[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]、日本GP) === 1991年 === [[File:Tyrrell 020 front-left 2012 Japan.jpg|right|thumb|240px|ティレル020・ホンダ]] 昨年に続きティレルでの参戦となった。当時、高い戦闘力を持ち、かつ前年[[マクラーレン]]にダブル・タイトルをもたらしたホンダV10エンジンを搭載することが決まっていたため、前年以上の好成績を収めることが期待されたが、ハイパワーエンジンを支えるタイヤが、この時、優勢だった[[グッドイヤー]]ではなく[[ピレリ]]だったことから、車のパフォーマンスを十分に発揮できるのか不安視する見方もあった。 シーズンが開けると、フォードV8([[フォード・コスワース・DFVエンジン|DFR]])エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、それを補うために導入された軽量トランスミッションが信頼性不足となり、トラブルが頻発した。それでもサンマリノGPではリタイヤするまで4位を走行するなど、シーズン序盤こそ期待を抱かせる走りも見せたが、シーズンが進むにつれてティレル020の相対的な戦闘力は低下し、結局シーズンを通しての入賞は開幕戦のアメリカGPの5位<ref>4位はチームメイトのモデナ、6位は[[ラルース (F1チーム)|ラルース]]の[[鈴木亜久里]]</ref>のみという結果に終わった。 この年のティレル失速の原因として、ホンダV10エンジンによるマシンバランス悪化という根本原因のほか、[[ピレリ]]タイヤの開発主導権を軽いV8の[[フォード・コスワース・HBエンジン|HBエンジン]]搭載の[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]に握られてしまい、V10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかったこと<ref>その為レース後半でタイヤがたれると瞬く間に中嶋、モデナともに順位を落とすシーンがよくみられた</ref>と、シーズン序盤にデザイナーである[[ハーベイ・ポスルスウェイト]]がチームを離脱したため、マシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。 また、中嶋自身も体力と視力の衰えに悩んでおり、第9戦の[[ドイツグランプリ|ドイツGP]]にて、このシーズンを最後に引退することを発表。なお、引退発表直後に行われた[[ドイツグランプリ|ドイツGP]]予選では、このシーズンで唯一チームメイトの[[ステファノ・モデナ|モデナ]]より速い予選通過タイムを記録している。その年の日本GPが行われた[[鈴鹿サーキット]]はまさに中嶋一色に染まり、[[日本の国旗|日の丸]]とともに「ありがとう中嶋」、「やらまいか中嶋」などの横断幕がサーキットを埋め、最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたものの、スタートに失敗し7位まで追い上げたもののステアリングのトラブルにより車が曲がらず、S字でクラッシュしてリタイアという結果に終わった。 引退レースとなった最終戦の[[1991年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]は、くしくも4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ、雨のアデレード市街地サーキットとなったが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンがコンクリートウォールにヒット。26台中最初のリタイヤとなり、F1レーサーとしてのキャリアを終えた<ref>91年F1総集編の解説では「コース上があまりにも危険だったため、ベテランの判断としてエンジンを意図的に切ってリタイアした」ととれる語りが流れている。事実、中嶋のマシンはスピン後ウォールに当たったが、右リアウィング翼端板が外れただけで、走行自体にダメージが残るようなクラッシュではなかった</ref>。 * マシン:[[ティレル・020|ティレル020・ホンダ]] * チームメイト:[[ステファノ・モデナ]] * 獲得ポイント:2 * 最高位:5位(アメリカGP) *第2回(1991年度)スポーツ功労者文部大臣表彰受賞 == ドライビング == === 「雨のナカジマ」 === 日本国内の各選手権で活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンからは「'''雨のナカジマ'''」と呼ばれていた。 ロータスでの最後のレースとなった、1989年の最終戦[[1989年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]([[アデレード市街地コース]])では、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われチャンピオン争いを行うセナや1987年のワールドチャンピオンのピケなど多くの選手がクラッシュ。最終戦とあって年間順位がほぼ確定していることもあり、セナとチャンピオンを争っていたものの、ほぼチャンピオンを確定していたプロストは危険なずぶ濡れのコースで無理に走らず棄権するなど<ref>プロスト、ピケ、セナ、マンセルとワールドチャンピオン達はすべて完走できず。</ref>最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドで上位のマシンを次々と抜き去る見事な走りを見せ、日本人ドライバーとして初の、そしてチーム・ロータスとしては最後のファステストラップを記録した。 残り10周を切った時点で、3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず<ref>前述の通り、水煙の影響でエンジンがミスファイアを起こしていた</ref>、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋は担当エンジニアの[[ティム・デンシャム]]と抱擁した。 後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった」と答えている。また、「中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由である」という評価も受けている。毒舌で有名なイギリスの[[英国放送協会|BBC]]の名物解説者であり、それまで中嶋に対して高い評価を与えたことのなかった元ワールドチャンピオンの[[ジェームス・ハント]]は、後の1991年シーズン前に「(パフォーマンスの高いホンダエンジンを搭載したマシンをドライブしても)中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」とも語っていた。 その後の1991年のサンマリノグランプリでも上位が潰れる中、予選10位より一時4番手まで順位を上げ、マクラーレンのアイルトン・セナ、ゲルハルト・ベルガー及び3番手を走るステファノ・モデナと共にホンダエンジン搭載車が1~4位独占かというところで駆動系トラブルにより惜しくもリタイヤしたが、このときもレース前半はウエットコンディションであった。 === 評価 === 「スキルはあるが体力が無い」という事実は、30代半ばという異例に遅いF1デビューを果たした中嶋を常に悩ませ続け、これを裏づけるように、1991年当時直線とシケインで構成されていたドイツ・[[ホッケンハイムリンク]]での予選(ドライ)でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、当時ティレルの[[テクニカルディレクター (スポーツ)|テクニカルディレクター]]であった[[ハーベイ・ポスルスウェイト]]は「直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い」とコメントを出している。 [[ネルソン・ピケ]]は、[[中村良夫 (自動車)|中村良夫]]のインタビューに対し、中嶋について「中嶋はとても速いドライバーです。必要なのは、サーキットを早く覚えることです」と述べ、「サーキットを完全に把握するのにちょっと時間がかかるような気がしますね。もし予選を、決勝が終わったあとの月曜日にもう一度やったら、中嶋はすごく速くなっているんじゃないですか」とも語った<ref>{{Cite book |和書 |author=中村良夫 |title=F1グランプリ全発言 |edition=第2版 |date=1990-06-10 |publisher=株式会社山海堂 |isbn=4-381-07627-3 |pages=p.121 }} </ref>。 == 引退後 == [[全日本F3000選手権]]→[[フォーミュラ・ニッポン]]→[[スーパーフォーミュラ]]や[[全日本GT選手権]]→[[SUPER GT]]などに参戦する自身のチーム「ナカジマレーシング」の監督として現場を率いている(詳しくは[[中嶋企画]]の項を参照)。同チームは、[[野田英樹]]、[[中野信治]]、[[高木虎之介]]、[[松田次生]]、[[小暮卓史]]といったドライバーを輩出するなど、若手ドライバーの登用に積極的である。 [[鈴鹿サーキットレーシングスクール]](「SRS-K」、「SRS-F」)の校長も務めており、これまで佐藤琢磨、松田次生、[[松浦孝亮]]などを同スクールより送り出している。 2004年には日本レースプロモーション(JRP)の会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポン→スーパーフォーミュラの建て直しにも本格的に乗り出しているが、2014年現在低迷状態からは抜け出せていない。 引退後もホンダや鈴鹿サーキットの[[ファン感謝デー]]、[[JAFグランプリ]]併催の「レジェンドカップ」などでたびたびデモランやエキシビションレースに参加しており、2014年現在も往年の腕前の一端を見せている。 == スポンサー == * EPSON([[セイコーエプソン]]、[[エプソン販売]]) :販売拡大と[[ブランド]]イメージ向上を図るため、セイコーエプソンは新たな広報活動として1983年に全日本F2に参戦するハラダレーシングのメインスポンサーとなった。この時ドライバーに抜擢されたのが中嶋で、速くてマシンを壊さない中嶋のドライビングスタイルが商品と重なるとして、翌年より中嶋を支援することになった。なお、ハラダレーシングは1シーズンで全日本F2から撤退している。 :1987年には中嶋のF1参戦に伴いパーソナルスポンサーとしてF1に参入。1988年から1991年には中嶋の所属チーム([[チーム・ロータス|ロータス]]、[[ティレル]])のスポンサーとしての活動も展開した。この時期に制作された中嶋を起用した[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]で「F1 = 中嶋 = EPSON」という印象が広く世間に浸透。当時のF1[[ブーム]]も重なり企業イメージと知名度が飛躍的に向上した。 :中嶋の現役引退後は、中嶋率いる[[中嶋企画|ナカジマレーシング]]のスポンサーとなる。2000年から子会社のエプソン販売にスポンサー活動が引き継がれ、変わらぬ支援体制が続いている。2004年よりSUPER GTに「EPSON NAKAJIMA RACING」として参戦。フォーミュラ・ニッポンではサブスポンサーとしてマシンに[[ロゴタイプ|ロゴ]]が貼られている。※参考資料 - 『[[Racing On]]』([[ニューズ出版]]) 2007年10月号・特集「中嶋悟」 * [[PIAA]] :1986年に当時はまだ珍しかった海外レース(国際F3000)に挑戦する中嶋のスポンサーとなる。翌年F1にステップアップした中嶋への支援は1988年から再開され、1989年〜1991年にはEPSONと同様に所属チームのロータスとティレルのスポンサーも務めた。 :国内では、1989年から[[全日本F3000選手権|全日本F3000]]と[[JTCC]]に白黒のPIAAカラーで中嶋企画が参戦。以降、PIAAカラーは中嶋企画にとってお馴染みのカラーリングとなり、EPSONと共に中嶋の長年のパートナーとして広く認識される存在であった。 :2009年をもって中嶋企画のスポンサーから撤退したが、2012年より中嶋企画への支援を再開している。 * ホンダ :1981年、生沢徹が率いるi&iレーシングに在籍していた中嶋は、全日本F2に復帰したばかりの[[本田技研工業|ホンダ]]エンジン<ref>生沢がホンダと繋がりがあったことから獲得した</ref>でシーズンを戦った。それ以前から非力なマシンで上位を喰う走りをみせていたが、ホンダエンジン搭載によるマシンの戦闘能力の向上もあり、中嶋は初の全日本F2チャンピオンに輝いた。 :その走りと開発能力に着目したホンダは、中嶋の独立後もエンジン供給を約束。国内のF1テストドライバーにも抜擢し、1986年の国際F3000参戦も支援した。そして1987年からのF1参戦に繋がった。 :F1引退後もナカジマレーシングにマシンやエンジンを供給するなど良好な関係が現在まで続いている。 == 家族 == あけみ夫人との間に長男・[[中嶋一貴]]と次男・[[中嶋大祐]]の2人の子供を授かり、共に現在レーシングドライバーとなっている。特に長男・一貴は、かつて父がホンダF1エンジンのテストドライバーをつとめた際に縁があったウイリアムズに2007年から所属し、同年最終戦から2009年アブダビGPまでF1に参戦していた。 == 歌手デビュー == F1ブームが頂点に達した1990年11月21日、キティレコーズ(現 [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]])から「[[悲しき水中翼船]]」で歌手デビュー。作詞・作曲・プロデュースは[[東京バナナボーイズ]]。 中嶋本人は歌うことに抵抗があったが、スポンサーであるEPSONの[[コマーシャルソング|CMソング]]であったことと、テレビ番組など人前で歌わないことを条件に承諾したという。また、レコーディング直前まで自身が歌うことを知らされず、「僕は前もって言われると考えちゃってほとんど“NO”って言っちゃうんだよ。そのことをマネージャーが知っているから、直前まで隠したんだよね」と、『[[F1ポールポジション]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])に出演した際に語っていた。 折からのF1ブームや話題性、テレビCMでの大量オンエアもあり、多くのプロの歌手を押しのけ[[オリコンチャート|オリコン]]で最高20位にランクインするスマッシュヒットとなった。 === シングル === * '''[[悲しき水中翼船]]'''(1990年11月21日発売、最高位:オリコン20位) === アルバム === * '''[[SATORU NAKAJIMA]]'''(1991年11月25日発売、最高位:オリコン14位) :中嶋の引退を記念して発売された[[コンピレーション・アルバム]]。中嶋の[[モノローグ]]とEPSONのCMソングを収録。 * '''FOREVER SATORU NAKAJIMA 1991 F-1 JAPANESE GP'''(1991年12月15日発売、最高位:オリコン69位) :1991年の[[日本グランプリ (4輪)|F1日本グランプリ]]の「[[Pit-FM]]」実況(サーキットの場内FM放送)の他、1887年~1990年の日本グランプリの「Pit-FM」実況のダイジェストやホンダV10エンジンのエキゾーストノートなどを収録した[[アルバム]]。 ==エピソード== *中嶋が先鞭をつけたことにより、これまで数多くの日本人レーサーがF1に参戦しているが、2010年現在、参戦した年すべてにおいてポイントを獲得しているのは中嶋悟と[[小林可夢偉]]の2人だけである。 *1986年から1991年の引退まで、日本の自動車雑誌「[[カーグラフィック]]」に連載を持っていた。その後この連載は単行本化された。 *1987年の開幕前のテストで、ロータスの[[アイルトン・セナ]]がマシンに乗ると、「エンジンから異常な振動がする」とチームスタッフに訴えた。それを知った中嶋は、セナのマシンでコースを1周すると、「いや、これでいいんだ」と言った。セナは、テストドライバーだった中嶋のその言葉に納得し、ドライブを続けたという。 *参戦初年度の1987年にブラジルGP開催の直前、高価な[[ダイバーズウォッチ]]をつけて市内を[[ジョギング]]をしたが、ジョギングから戻った後F1スタッフから、「そんな高価な時計を身につけてジョギングするのはとても危険」ということを聞かされ、それ以降ブラジルではジョギング時には時計をつけないようになった。 *フジテレビの1987年度[[F1総集編]]で、[[モナコグランプリ|モナコGP]]開催直後(日曜日の夜)、[[モナコ]]のホテルで行われたパーティーで、「他のF1ドライバーは[[タキシード]]を着ているのに対し、(ヨーロッパの文化に疎かったため)中嶋だけが[[ブレザー]]で出席してしまった」と伝えられているが、これは誤報。実際には金曜日のパーティにはタキシードで出席しており、中嶋がヨーロッパ文化を知らなかったということは無い。しかし決勝レースでチームメイトのアイルトン・セナが優勝したため、優勝チームの一員として当初参加予定ではなかったレース後のパーティに招かれたが、すでにセナと共にタキシードを含め荷物をパックした後で、仕方なくタキシード非着用で出席したというのが真相である。同パーティではF1解説者の[[今宮純]]もタキシード非着用で(今宮は現地入りしてから招待を受けたためそもそもタキシードを持ってきておらず、現地で購入しようとしたが失敗した)、パーティーで今宮の姿を見たセナと中嶋が助けを求めるかのように今宮のテーブルに移動してきたというエピソードもある。<ref>「モータースポーツジャーナリスト青春編」([[今宮純]]著、[[三樹書房]]、1998年)pp.198 - 202</ref> *同じ年齢で、ロータス時代に中嶋のセッティング能力を高く評価していたネルソン・ピケは、中嶋がF1からの引退を発表した後に「サトルの引退は残念だ。まだ若いし、まだやれる。引退しないように僕が説得に行こうかな」と話した。 *[[ティエリー・ブーツェン]]は、1992年の[[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]前に[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]での思い出をとインタビューを受けたときに「[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]][[BMW]]で参戦した全日本F2。後ろからどんどん抜いて行って最終的に2位に入ったレースさ。ウイナーは'''ナカサン'''だ。完勝だったよ」と答えている。 *前述のように、日本国内時代の中嶋悟の速さを知るブーツェンは、「日本では全く歯が立たなかったのに、F1に来てからの彼はどうしてしまったんだろう」という趣旨の発言をしている。 *ソース[[焼きそば]]と[[栗きんとん]]が大好物。レース期間中にピットで[[カップ焼きそば]]を食べることもあったという。蛇足ながら、F1ドライバー時代のライバル鈴木亜久里はソース焼きそばが苦手である。 *趣味は[[ドライブ]]と[[ゴルフ]]。現役時代から現在まで、国内はおろかF1ドライバー時代のヨーロッパでも移動のほとんどを自らの運転で行っている。ゴルフについては「僕が[[アラン・プロスト|プロスト]]に勝てるのはゴルフくらいかな」と語っている。当時のプロストのハンデは10だった<ref>1987年日本GP前日のフジテレビのプロストへのインタビューによる</ref>。 *F1実況を担当していた[[古舘伊知郎]]は、中嶋の自家用車で東名高速道路を同乗させてもらった時のことを『[[F1ポールポジション]]』番組内で「F1ドライバーだから飛ばすのかなと思いきや、普通に運転していた」「でも、安定感が違う」と語っている。また、中嶋の引退後の1992年南アフリカGPで中嶋がゲスト解説で中継に参加した時、コース下見を中嶋の運転する車で行い、「その時にタイヤがきしむ音がずっとしていたが、クルマの限界を解った上で走っているから音がしてても全然怖くない」とも語っていた。 *古舘は上記同乗の時、一番印象深かったこととして、バックでの駐車を語っている。その際中嶋は、ドアを開けて確認したり、助手席のヘッドレストに手をかけ後ろを覗き込んだりすることなく、バックミラー・サイドミラーの位置を徹底的に調整していたという。1~2分程度かけて調整し終わると、ミラーだけを見て後退を開始。車は切り返しを行うことなく、一発で駐車スペースに真っすぐ入ったという。古舘は他でもないこの瞬間に「一流ドライバーの真骨頂を見た」と感動したという。 *ケン・ティレルが中嶋を評価していたエピソードとして、1991年の日本グランプリの話がある。グランプリが始まる前にガレージに呼びつけられると、そこには5台のティレル020が並んでいた。わけが解らないでいる中嶋にケンは「(最後の母国グランプリである)サトルの為に用意した。さあ、好きなのに乗ってくれ!」と言いレースカーを選ばせたという。さらに引退後、そのマシンは引退記念として、ケンから中嶋に直接プレゼントされた。潤沢とは言い切れない資金の中レースカーを5台用意したり、その1台を無償でプレゼントしてしまうというのは、通常ではまずあり得ないことであり、ケン・ティレルがどれだけ中嶋を気にいっていたを示している。ケン・ティレルとの関係はその後も続き、中嶋の愛弟子だった[[高木虎之介]]のF1デビューもティレルが全面的にバックアップし、中嶋も「スポーティング・ディレクター」の肩書きでチームに参加した。 *現在は、[[スーパーGT]]などの監督業も行い、海外など飛行機でしか行けない場所でない限り、今でも自ら愛車の[[ホンダ]][[ホンダ・レジェンド|レジェンド]]を駆ってサーキットまで行くという。しかも、年間走行距離は、5万キロを超えることも珍しくないという。 ==著書== *「中嶋悟のF1日記 PART1」 [[二玄社]] 1989年 *「中嶋悟のF1日記 PART2」 二玄社 [[1992年]] :[[自動車]][[雑誌]]「[[カーグラフィック]]」に、国際F3000時代の1986年から、引退する1991年にかけて毎月連載された日記調の連載を単行本にしたもの。 == 関連作品 == * 海老沢泰久の小説『[[F2グランプリ]]』([[1981年]]、[[1984年]]に[[東宝]]より映画化)に登場するドライバーの「中野英明(映画では中野訓)」は、中嶋をモデルとしている。 * 他にも自身の名を冠したテレビゲームがVARIE(現 [[レイアップ]])社からいくつか発売された。 == F1での年度別成績 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! 所属チーム ! シャーシ ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 12 ! 13 ! 14 ! 15 ! 16 ! WDC ! ポイント |- | [[1987年のF1世界選手権|1987]] ! rowspan="3" | [[チーム・ロータス|ロータス]] ! [[ロータス・99T|99T]] |bgcolor="#CFCFFF"| [[1987年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>7</small> |bgcolor="#DFFFDF"| [[1987年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>6</small> |bgcolor="#DFFFDF"| [[1987年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>5</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1987年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>10</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1987年アメリカグランプリ|DET]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1987年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>NC</small> |bgcolor="#DFFFDF"| [[1987年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>4</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1987年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1987年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1987年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>13</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1987年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>11</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1987年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>8</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1987年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>9</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1987年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#DFFFDF"| [[1987年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>6</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1987年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> ! 12位 ! 7 |- | [[1988年のF1世界選手権|1988]] ! [[ロータス・100T|100T]] |bgcolor="#DFFFDF"| [[1988年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>6</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1988年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>8</small> |bgcolor="#FFCFCF"| [[1988年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>DNQ</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1988年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1988年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>11</small> |bgcolor="#FFCFCF"| [[1988年アメリカグランプリ|DET]]<br /><small>DNQ</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1988年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>7</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1988年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>10</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1988年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>9</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1988年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>7</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1988年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1988年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1988年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1988年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1988年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>7</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1988年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> ! 16位 ! 1 |- | [[1989年のF1世界選手権|1989]] ! [[ロータス・101|101]] |bgcolor="#CFCFFF"| [[1989年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>8</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1989年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>NC</small> |bgcolor="#FFCFCF"| [[1989年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>DNQ</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1989年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1989年アメリカグランプリ|USA]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#FFCFCF"| [[1989年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>DNQ</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1989年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1989年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>8</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1989年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1989年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#FFCFCF"| [[1989年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>DNQ</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1989年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>10</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1989年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>7</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1989年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1989年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#DFFFDF"| ''[[1989年オーストラリアグランプリ|AUS]]''<br /><small>4</small> ! 21位 ! 3 |- | rowspan="2" | [[1990年のF1世界選手権|1990]] ! rowspan="3" | [[ティレル]] ! [[ティレル・018|018]] |bgcolor="#DFFFDF"| [[1990年アメリカグランプリ|USA]]<br /><small>6</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1990年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>8</small> | | | | | | | | | | | | | | ! rowspan="2" | 15位 ! rowspan="2" | 3 |- ! [[ティレル・019|019]] | | |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1990年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>11</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#DFFFDF"| [[1990年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>6</small> |bgcolor="white"| [[1990年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>DNS</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#DFFFDF"| [[1990年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>6</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1990年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> |- | [[1991年のF1世界選手権|1991]] ! [[ティレル・020|020]] |bgcolor="#DFFFDF"| [[1991年アメリカグランプリ|USA]]<br /><small>5</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1991年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>10</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1991年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>12</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1991年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>8</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1991年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>15</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1991年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>13</small> |bgcolor="#CFCFFF"| [[1991年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>17</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1991年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> ! 15位 ! 2 |} * '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:F1 driver results legend 2|key]]) == F1以外の経歴 == *1973年 **レースデビュー *1975年 **FL500 チャンピオン *1977年 **[[FJ1600]] チャンピオン(7勝, 7PP) **[[全日本F2000選手権]] 参戦 **[[全日本F2000選手権|鈴鹿F2000選手権]] 参戦 *1978年 **[[全日本F2選手権]] 参戦 **[[全日本F2選手権#鈴鹿F2選手権|鈴鹿F2選手権]] チャンピオン **[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3選手権]] 参戦 *1979年 **[[富士グランチャンピオンレース]] チャンピオン *1981年 **全日本F2選手権 チャンピオン(2勝, 1PP) **鈴鹿F2選手権 チャンピオン **富士グランチャンピオンレース 7位 **フォーミュラ・パシフィック 2位(2勝, 4PP) **[[マカオグランプリ]] リタイア *1982年 **全日本F2選手権 チャンピオン(4勝, 1PP) **鈴鹿F2選手権 チャンピオン **富士グランチャンピオンレース 6位 **[[フォーミュラ2#ヨーロッパF2選手権|ヨーロッパF2選手権]] シリーズ13位(最高位2位) *1983年 **全日本F2選手権 シリーズ4位(2勝, 2PP) **鈴鹿F2選手権 シリーズ2位 **富士グランチャンピオンレース 5位 *1984年 **全日本F2選手権 チャンピオン(4勝, 6PP) **鈴鹿F2選手権 チャンピオン **富士グランチャンピオンレース 2位 *1985年 **全日本F2選手権 チャンピオン(5勝, 6PP) **鈴鹿F2選手権 チャンピオン **富士グランチャンピオンレース 2位 *1986年 **全日本F2選手権 チャンピオン(1勝, 5PP) **鈴鹿F2選手権 シリーズ2位 **[[フォーミュラ3000|国際F3000選手権]] シリーズ10位(最高位4位) **[[ル・マン24時間レース|ル・マン24時間]] リタイア == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Commons|Satoru Nakajima}} * [[モータースポーツ]] * [[日本人ドライバー一覧]] * [[F1ドライバーの一覧]] * [[鈴鹿サーキット]] * [[富士スピードウェイ]] * [[レイトンハウス]] * [[プリンス・ビラ]] * [[愛知県出身の人物一覧]] {{ロータス}} {{ティレル}} {{フォーミュラ・ニッポン歴代チャンピオン}} {{DEFAULTSORT:なかしま さとる}} [[Category:日本のドライバー]] [[Category:チーム・ロータスのF1ドライバー]] [[Category:ティレルのF1ドライバー]] [[Category:日本のF1ドライバー]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Cite book
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Commons
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:F1ドライバー
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Redirect
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:See also
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:ティレル
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:フォーミュラ・ニッポン歴代チャンピオン
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:ロータス
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:脚注ヘルプ
(
ソースを閲覧
)
中嶋悟
に戻る。
検索
検索
中嶋悟のソースを表示
話題を追加