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中島三郎助
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'''中島 三郎助'''(なかじま さぶろうすけ、[[文政]]4年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]([[1821年]][[2月27日]]) - [[明治]]2年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1869年]][[6月25日]]))は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[幕臣]]。[[江戸幕府]][[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|浦賀奉行所]][[与力]]、のち[[蝦夷共和国]]箱館奉行並。諱は永胤。雅号は木鶏。 == 生涯 == 本国は[[美濃国|美濃]]、生国は[[相模国|相模]]、文政4年(1821年)、浦賀奉行所与力・中島清司の子として生まれる。母は浦賀与力・樋田仲右衛門娘。中島家は[[寛文]]9年([[1669年]])に下田与力に召し抱えられて以来、与力を務めてきた家柄である。若い頃より砲術に才能を見せ、田付流、集最流、荻野流の免許、高島流の皆伝を受けた。また俳諧や和歌を父より手ほどきを受けたと伝えられている。[[喘息]]の持病があったという。 [[天保]]6年([[1835年]])、浦賀奉行与力見習として高五十俵で召し抱えられた。天保8年([[1837年]])、[[モリソン号事件]]で砲手を務め、褒美を受けている。[[嘉永]]元年([[1848年]])、格別出精につき、五人扶持を加えられ、[[嘉永]]2年([[1849年]])、父の番代として浦賀奉行与力に召抱えられた。嘉永3年([[1850年]])、奉行所船庫の失火により、[[蒼隼丸]]をはじめとする軍船のほとんどが失われた事件では責任を問われ、[[押込]]となった。 嘉永6年6月([[1853年]]7月)、[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]艦隊が浦賀沖に来航([[黒船来航]])した際に、副奉行と称して[[通詞]]の[[堀達之助]]を連れて旗艦「[[サスケハナ (巡洋艦)|サスケハナ]]」に乗船した<ref>鳥飼玖美子『ことばが招く国際摩擦』 ジャパンタイムズ、[[平成]]10年([[1998年]])、ISBN 4-7890-0930-0</ref>。その後、浦賀奉行・[[戸田氏栄]]ら重役に代わり、[[香山栄左衛門]]とともにアメリカ側使者の応対を務めている。なお、アメリカ側の記録では、船体構造・搭載砲([[ペクサン砲]]および[[ダールグレン砲]])・蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。ペリーの帰国後、[[老中]]・[[阿部正弘]]に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張。嘉永7年([[1854年]])に完成した日本初の洋式軍艦「[[鳳凰丸]]」の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。 [[安政]]2年([[1855年]])、江戸幕府が新設した[[長崎海軍伝習所]]に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた。「[[鵬翔丸]]」で帰府後、安政5年([[1858年]])に[[軍艦操練所|築地軍艦操練所]]教授方出役に任ぜられた。安政6年([[1859年]])、浦賀の長川を塞き止めて日本初の[[乾ドック]]を建設、[[万延元年遣米使節|遣米使節]]に随行する「[[咸臨丸]]」の修理を行った。[[万延]]元年([[1860年]])、軍艦操練所教授方[[頭取]]手伝出役に進んだが、病気のために[[文久]]元年([[1862年]])出役依願免、与力に戻った。 [[元治]]元年([[1864年]])に富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの再び病気となり、[[慶応]]2年([[1866年]])出役依願免、同年末には与力の職も長男・中島恒太郎に譲った。慶応3年([[1867年]])に再奉公を命じられ、軍艦組出役、[[小十人]]格軍艦役勤方を経て、[[書院番|両番]]上席軍艦役に進んだ。 [[慶応]]4年([[1868年]])1月に[[戊辰戦争]]が勃発すると、海軍副総裁・[[榎本武揚]]らと行動を共にして同年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]([[10月4日]])に江戸・品川沖を脱出、[[蝦夷地]]へ渡海し[[箱館戦争]]に至った。箱館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並、砲兵頭並を務め、[[ガルトネル開墾条約事件|蝦夷地七重村開墾條約書]]には箱館奉行・[[永井尚志]]と連名で署名している。戦時は本陣前衛の[[千代ヶ岡陣屋]]を守備し陣屋隊長として奮戦した。箱館市中が新政府軍に占領された後、軍議では降伏を説いたが、中島自身は千代ヶ岡陣屋で討死することを公言しており、五稜郭への撤退勧告も、新政府軍からの降伏勧告も拒否。本陣[[五稜郭]]降伏2日前の明治2年5月16日(1869年6月25日)、長男の恒太郎・次男の英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死。[[享年]]49。菩提寺は[[横須賀市]]東浦賀町の東林寺。 == 俳句 == 三郎助は俳人としても知られていたという。江戸脱出の際にも一句詠んだ。 * 乙島(ツバメのこと)や 翌日(あす)はときは(常盤)の 国の春 : 明治2年(1869年)3月、箱館旧幕府軍追討令が新政府軍より下された事を知った榎本はじめ箱館政権幹部らは、[[3月14日 (旧暦)|同月14日]]([[4月25日]])に[[咬菜園]]といわれる当時箱館に名高い庭園で別盃の宴を催した。その際、三郎助は以下の2つを辞世の句として残したという。 * ほととぎす われも血を吐く 思い哉 * われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹 == 交友関係 == * [[勝海舟]]とは長崎海軍伝習所の同窓であったが不仲であったという([[吉田松陰]]による)。 * [[吉田松陰]]・[[宮部鼎蔵]] : [[安政]]元年([[1854年]])に訪問を受け、海防について教授した。 * [[来原良蔵]]([[長州]]藩士・木戸孝允義弟) : 安政元年(1854年)に操銃を教授した。 * [[木戸孝允]](桂小五郎) : 安政2年([[1855年]])、中島家に寄宿し造船学を学んだ。短期間の付き合いだったが、三郎助は木戸の才幹を認めて家族ぐるみで厚遇した。木戸は明治政府の高官となったのちも、三郎助から受けた恩義を忘れることはなく、酒席で中島父子の陣没を聞くや、酒を下げさせて嘆息した。明治8年([[1875年]])に窮迫した三郎助の妻が自邸を訪問するや歓喜し、恩師の厚情を語った。さらに三郎助の娘を養女にしようとしたが、家庭内の事情から断念し、榎本に諸事万端遺族の保護を依頼した。明治9年([[1876年]])、[[明治天皇]]の東北巡幸に随従して五稜郭に向かう途中、中島父子の戦死地付近を通過した木戸は、往時を回顧し人目をはばかることなく慟哭したという。 * [[福澤諭吉]] : [[慶応]]3年([[1868年]])、福澤は渡米中、正使の[[小野友五郎]]に不従順であったため、帰国後に謹慎を命じられた。三郎助は老中・[[稲葉正邦]]に掛け合い処分を撤回させた(『[[福翁自伝]]』による)。 * [[榎本武揚]] : 長崎海軍伝習所以来の仲であり、三男・與曽八を養育した。 == 親族 == * 父・中島清司永豊は書院番与力・関丈右衛門の子で、代々浦賀組与力を務める中島家に養子入りした。[[弘化]]3年([[1846年]])、アメリカ[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令長官・ビッドルとの交渉にあたった。幕府に提出した意見書「愚意上書」で軍艦の建造を主張している。与力に再任されていたが、安政5年(1858年)、三郎助次男、英次郎に跡を譲った。 * 三男・[[中島與曽八]]は[[佐々倉桐太郎]]の尽力で、恒太郎の跡を継ぐ形で静岡藩三等勤番組となり、家名を残した。長じて海軍機関中将となり、[[勲一等]][[旭日章|旭日大綬章]]を受章している。 * ペリー来航時、浦賀奉行と称して共に交渉に当たった[[香山栄左衛門]]は義弟にあたる。 * [[岡田井蔵]]は妻・すずの実弟であり、三郎助自身の従弟(父の弟の子)でもある。 * [[穂積清軒]](洋学者、三河吉田藩士、幕府翻訳方を務めた)、[[穂積寅九郎]]は甥(姉の子)である。 * 先祖は[[豊臣秀吉]]に仕えた[[中島氏種]](中島式部少輔)であるという。 == 記念碑 == [[画像:中島三郎助父子最期の地碑.jpg|thumb|150px|中島三郎助父子最後の地碑]] * [[昭和]]6年([[1931年]])、箱館戦争に散った中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋付近の土地が中島町と名付けられた。現在中島町には中島三郎助父子最期の地碑が建っている。 * 明治24年([[1891年]])、三郎助の23回忌にあたり、三郎助を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。またその時、三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを[[荒井郁之助]]が提唱、榎本の支援を受け、明治30年([[1897年]])、[[浦賀船渠]]株式会社が設立された。現在、住友重機械工業の合併に伴い閉鎖されているが、中島三郎助まつり・咸臨丸フェスティバルの会場に利用され、横須賀市による整備計画も進められている。 *[[浦賀警察署]]敷地の脇にある大衆帰本塚の碑は、元治元年(1864年)、無縁仏を慰めるために建てられたもので、篆額は大畑春国、碑文と筆跡は中島自身によるものである。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * [[中島義生]]『中島三郎助文書』(私家版、平成8年([[1996年]])) == 関連書籍・作品 == * [[佐々木譲]]『くろふね』[[角川文庫]]、[[平成]]20年([[2008年]])、ISBN 978-4-04-199804-5 * [[木村紀八郎]]『浦賀与力 中島三郎助伝』[[鳥影社]]、平成20年(2008年)、ISBN 978-4-86265-147-1 * [[松邨賀太]]『義に死す 最後の幕臣 評伝・中島三郎助』[[文芸社]]、平成20年(2008年)、ISBN 978-4286048789 * [[歴史秘話ヒストリア]]([[2011年]][[7月6日]] 再放送[[7月27日]])「世にも数奇なラストサムライ~幕末 いつも”そこ”にいた男・中島三郎助~」が放送された。(演:[[アンディ岸本]]) {{DEFAULTSORT:なかしま さふろうすけ}} [[Category:江戸幕府旗本]] [[Category:幕府海軍の人物]] [[Category:幕府の海事官僚]] [[Category:長崎海軍伝習所・関連学校の人物]] [[Category:日本の造船技術者]] [[Category:日本の技術者]] [[Category:俳人]] [[Category:箱館戦争で戦死した人物]] [[Category:相模国の人物]] [[Category:1821年生]] [[Category:1869年没]]
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