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下瀬火薬
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'''下瀬火薬'''(しもせかやく)は、[[大日本帝国海軍]]技師[[下瀬雅允]]が実用化した[[ピクリン酸]]を成分とする[[爆薬]](炸薬)である。[[日露戦争]]当時の日本海軍によって採用され、日露戦争における大戦果の一因とされた。なお、[[大日本帝国陸軍]]では'''黄色薬'''と呼ばれていた。 == 概要 == ピクリン酸は[[1771年]]に[[ドイツ]]で[[染料]]として発明され、その100年後に[[爆発]]性が発見された。猛烈な爆薬であるが、同時に[[消毒液]]としての効果もある。 しかしピクリン酸は容易に金属と化学結合して変化してしまう為、鋭敏な[[化合物]]を維持する点で実用上の困難があった。下瀬雅充は弾体内壁に[[漆]]を塗り、さらに内壁とピクリン酸の間に[[ワックス]]を注入してこの問題を解決した。<ref>『完全勝利の鉄則-東郷平八郎とネルソン提督』(徳間文庫、169頁;生出寿)</ref>なお、日本海軍規格の下瀬火薬/下瀬爆薬は、ほぼ純粋な[[ピクリン酸]]である。<ref>[http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/49_1.html 高崎経済大学 『高崎経済大学論集』 第49巻第1号、2006年 目次]</ref><ref name="shimose-system"> [http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/49_1/koike.pdf 小池重喜 「日露戦争と下瀬火薬システム」 『高崎経済大学論集』 第49巻第1号、2006年]</ref> 爆薬として用いた場合の[[爆速]]は7,800m/s。 == 歴史 == 日本海軍は[[1893年]]にこの火薬を採用し、下瀬火薬と名付け(後に下瀬爆薬と改称)、[[炸薬]]として[[砲弾]]、[[魚雷]]、[[機雷]]、[[爆雷]]に用いた。これは[[日清戦争]](1894年-1895年)には間に合わなかったが、[[日露戦争]](1904年-1905年)で大いに活躍した。海軍はただでさえ威力の大きな下瀬火薬を多量に砲弾に詰め、また鋭敏な[[信管]]([[伊集院信管]])を用いて[[榴弾]]として用いた。敵艦の防御甲鈑を貫通する能力は不十分だったが、破壊力の高さと[[化学反応]]性(焼夷性)の高さから、非装甲部と乗組員に大きな被害を与えた。<ref>吉田俊雄 『連合艦隊の栄光と悲劇-東郷平八郎と山本五十六』 PHP文庫、2000年、198頁。</ref>明治38年5月27日の[[日本海海戦]]で[[ロシア]]の[[バルチック艦隊]]を粉砕した一因は下瀬火薬である。 下瀬火薬は、メリニット(1885年、フランスの[[ウジェーヌ・テュルパン|E・テュルパン]]の発明。純粋ピクリン酸とされる)のサンプルを下瀬が分析し、純粋ピクリン酸を炸薬に用いるアイディアを得て、研究の末に国産化したものとされる<ref name="shimose-system" />。 下瀬火薬が実用化された後に、フランスが「新型火薬」を日本に売り込んできた。フランスに派遣された[[富岡定恭]]は、「新型火薬」のサンプルの微量を爪の中にすり込んで持ち帰った。この微量のサンプルを分析した結果、下瀬火薬と同様の[[ピクリン酸]]であると判明したという<ref>Noel F. Busch 1969 ''The Emperor's Sword''. 訳書:川口正吉訳『日本海海戦 - 皇国の興廃、この一戦に在り』サンケイ新聞社出版局、1972年、119頁では「富岡貞安」と表記されているが、該当する人物の存在を確認できないため、小池重喜「日露戦争と下瀬火薬システム」 に言及されている同じ読みの富岡定恭の誤りと思われる。</ref>。 下瀬が、下瀬火薬(純粋ピクリン酸)の試作に成功した後も、当時の日本の技術レベルでは手工業的な生産しかできず、量産は困難であった<ref name="shimose-system" />。1898年1月から1年間、下瀬雅允は、ピクリン酸製造技術の導入のため、欧米を視察した。ドイツのグリーシャム社の元技師長であるバーニッケと会い、5万円の代価で、ピクリン酸合成工場設計図20枚余、及びピクリン酸製造技術の提供を受ける契約を結んだ。しかし、代価の5万円は支払われず、バーニッケは1906年4月に契約履行を迫る書簡を送り、下瀬はこれを受けて[[斎藤実]]海軍大臣に上申を行ったが黙殺された。<ref> [[偕行社]]日露戦史刊行委員会 編著 『大国ロシアになぜ勝ったか-日露戦争の真実』 芙蓉書房出版、2006年、17-18頁。</ref> その後下瀬火薬は旧式化して一線を退くが、[[太平洋戦争]]で再び使用されるようになる。[[トルエン]]を原料とする[[トリニトロトルエン|TNT]]が[[石油]]原料を必要とするのに対して、[[ピクリン酸]]は石炭酸([[フェノール]])を原料としていたため、極度の石油不足状態にあった戦時中の日本でも[[石炭]]から作る事のできる下瀬火薬は問題なく製造できたのである。その多くは砲弾などの強い衝撃がかかる物を避けて[[九九式手榴弾]]などに使用されていた。 == 欠点 == 下瀬火薬を使用する艦砲の自爆事故(膅発)が相次いだ。これは[[ピクリン酸]]そのもの欠陥ではなく砲弾に火薬を充填する技術の未熟さが原因ではなかったかと推測されている。当時の技術では大きな砲弾に溶填した場合に気泡を取り除く技術が不完全だったため内部に[[ホットスポット (火薬学)|ホットスポット]]が出来やすく、そのために砲弾を発射した衝撃で[[低速爆轟]]が生起したために自爆したと考えられている。 [[ピクリン酸]]は[[鉄]]などの[[重金属]]と反応して非常に衝撃に敏感な[[塩 (化学)|塩]]を作る性質があるため、砲弾内部の漆とワックスにごくわずかでも隙間があって砲弾本体と触れると自爆の危険性は激増することになった。欧米諸国では、この欠点を解消するため、ピクリン酸をアンモニウムなどアルカリと混合して[[塩 (化学)|塩]]にした、リッダイト、エクラジット、[[D爆薬]]などの爆薬を開発した。 またピクリン酸は毒性が高い物質である<ref>[http://www.env.go.jp/chemi/report/h16-01/pdf/chap02/02_2_34.pdf 環境省環境リスク評価室 「ピクリン酸」 『化学物質の環境リスク評価』 第3巻、平成16年9月]</ref>。 このような欠点があるため、下瀬火薬は、のちに[[トリニトロトルエン]]や環状ニトロアミン系高性能爆薬([[トリメチレントリニトロアミン]]等)に代替されることになった。 下瀬火薬は、経年劣化により衝撃に対して過敏になる傾向があるため、旧日本軍の[[不発弾]]の取扱には細心の注意を要する。 == 誤解 == 「下瀬火薬は燃焼時に黒煙を発生せず、日本海軍は視界を遮られることなく連射が可能であった。一方、ロシア海軍は発射に[[黒色火薬]]を用いており、視界を遮られて連射ができなかった」との記述が多々見られるが、これは誤りである。 下瀬火薬は砲弾の炸薬として用いられ、発射には用いられていない。砲弾の発射に用いられたのは[[コルダイト]](硝酸エステル系[[無煙火薬]]・当時[[イギリス]]より輸入)である。 旧日本軍はコルダイトを装薬に使っていたため発射時の煙が少なく連射ができた。下瀬火薬に限らず、爆速の大きな火薬を発射に用いると砲が破裂してしまう。炸薬と反対で、発射薬は爆速の遅いものを用いなければならない。 ロシア軍が発射薬に黒色火薬を使用していたのは間違いないが、下瀬火薬はあくまで炸薬として使われていたものである。 ちなみに、ピクリン酸を穏やかに加熱した場合には黒煙を出して緩やかに[[燃焼]]する。 == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> {{DEFAULTSORT:しもせかやく}} [[Category:火薬]] [[Category:爆薬]]
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